撤退屋は、三人分の夕食を断った
「北線の三人分は、作らないでください」
その女は、帰路亭の壁時計を三分進めてから言った。
午後四時八分。
昼営業と夜営業の間で、俺は出汁を取り直していた。神代はカウンターの端で、さっきまで六人分だった夕食札へ、三枚を足そうとしていた。
女の右手首の時計は四時八分。左手首は五時四十分を指したまま、秒針だけが動いている。
「久世環です。灰岳北側保守区、共同撤退の設計を担当しています」
黄線の入った現場上着。雨に濡れているのは肩だけで、靴底には泥がない。迷宮へ入った人間ではなく、入口と地上本部を往復してきた歩き方だった。
片手には防水の撤退表。もう片方には、黄色い機材箱。
「食事は東側班の六名だけ。うち二名は介助歩行です。十六時五十五分から十七時十分までに、ここへ着きます」
「北線の三人は」
神代が札を持ったまま訊いた。
「主撤退計画から切りました」
切った。
置いたでも、諦めたでもない。
久世は、仕事の言葉としてそれを使った。
一週間前、高梨千尋の勤務を記録へ戻したばかりだ。北の線を閉じる、という言葉だけなら六年前と同じだった。
だからこそ、先に怒ってはいけない。
「状況を、時刻順にお願いします」
俺は火を弱め、出汁鍋へ蓋をした。
久世は撤退表をカウンターへ広げた。
灰岳迷宮の北側保守区は、再開ではなく、閉鎖状態を確認するための限定調査中だった。東側の計測班六名。北側の送気設備班三名。合計九名。
午後三時四十七分、地下の圧力扉N7が異常作動した。
東側班は共通昇路へ撤退中。二名が転倒で脚を痛め、残る四名が交代で支えている。
北側班三名は、N7の奥だ。
「十七時四十分、逆流圧が共通昇路の許容値を越えます」
久世の指が、赤い横線で止まった。
「その前に地上側の遮断弁を閉じれば、東側班の退路は保てる。閉じれば、北側は外から開けられません」
「次に開けられるのは」
「最短で六時間後。北側の濾過缶と待機電源は、帳簿上三時間です」
六時間を、三時間では渡れない。
「だから六人を帰すために、三人を切る」
神代の声は低かった。
「違います」
久世は即答した。
「九人の帰還を待って六人の退路まで失う案を、採用しないという意味です。北側は切断後、別計画で掘り直します」
言葉は冷たい。だが撤退表の北側欄に、三人の名は残っていた。
有馬航平。水原鈴。長谷部淳。
黒線で消さず、一人ずつ赤い枠へ移されている。移行時刻は午後四時二分。判断者の欄には、久世環。
「神代さんが入れば、三人を迎えに行けます」
「行ける」
「何分で戻れますか」
神代は答えなかった。
場所が分からない。扉の状態も、三人の歩行可否も分からない。そこへ速さだけを足しても、帰還時刻にはならない。
「東側班の六名は、誰の案でも先に帰すべきです」
俺は撤退表の緑線を指した。
「俺が反対して、この六人の昇路を止めることはしません」
久世が初めて、俺の顔を見た。
「では、三人分は作らないでください」
「それと、三人の可能性をゼロにすることは別です」
「帳簿にない補給は、撤退計画ではゼロです」
正しい。
補給係も、祈りを在庫には数えない。
ただし、現物が目の前にあるなら話は変わる。
「その箱は何です」
久世の足元にある黄色い機材箱を指した。
「北線試験用の可搬送気装置です。圧力扉が作動した時点で、搬入を中止しました」
「接続先は」
「旧地上側接続箱。ただし六年前に運用停止。現在図面では使用不可です」
俺は神代を見る。
彼女はもう、カウンター下の鍵箱を開けていた。
高梨さんが午後一時二十二分の応答を受けた後、迷宮へ入らず前進した場所。先週、俺たちが佐伯さんと確認した地上側接続箱だ。
「閉鎖板はありませんでした」
俺は言った。
「可搬端子と手動蓋は残っています。通る保証はない。でも、物を入れずに風と有線だけを試せる」
「試験に何分ですか」
「接続箱まで片道八分。接続二分。送気と応答確認二分。十二分ください」
「誰が使います」
「俺が判断します。現地接続は神代と市の安全員。失敗しても東側班の昇路は止めない。午後四時三十二分で打ち切ります」
「その時点で北側を切る判断に従えますか」
神代が鍵を握る音がした。
俺が十二分を取れば、その十二分で別の手段を試せた、と後から言う人間が出る。
成功しても、失敗してもだ。
「従います」
俺は撤退表の余白へ書いた。
送気試験。午後四時二十分開始、四時三十二分終了。東側撤退は継続。試験失敗時は十七時四十分遮断。
判断者、真壁修司。
久世はそれを読み、赤枠の横へ黄色い枠を一本引いた。
「保留は十二分です」
「十分です」
「店主」
神代が機材箱を持ち上げた。
「これ、二十八キロある」
「今言いますか」
「持てるかと、運びやすいかは別」
正論を言いながら、片手で持つのはやめてほしい。
俺は箱から肩掛けベルトを出した。神代へ着け、市の安全員に接続手順を電話で確認する。
強い人間へ荷物を渡すだけなら、補給係はいらない。
「走らない。片道八分を守る。接続できなければ、箱ごと戻る」
「分かった」
「分かってない顔です」
「急ぐけど、走らない」
「合格です」
神代が裏口から出る。
久世は止めなかった。左の時計を四時三十二分へ合わせ、同時に東側班の位置確認を続ける。
俺は六人分の雑炊を火へ戻した。
三人分の米は、まだ研がない。
帰っていない人間へ、温かい食事を作った気になるのが一番危ない。必要なのは今、風と通信と、十二分を守る人間だった。
午後四時二十八分。
『接続箱、到着』
有線子機から神代の声がした。
「手動蓋の右、圧力計の下に試験口がある」
『錆びてる』
「閉鎖板は」
『ない。安全員が開ける』
俺は壁時計を見る。
久世が三分進めた時計は、四時三十二分を指していた。
本当の時刻は四時二十九分。
余裕を隠したのではない。現場の全員へ、同じ三分を持たせたのだ。
「あと三分です」
久世は時計を直さなかった。
金属の擦れる音。短い息。送気装置の低い駆動音。
一分。
二分。
有線には、風の音しか返らない。
「四時三十二分」
久世が言った。
「終了します」
その時、別の無線が鳴った。
『東側班、地上門通過。六名』
久世は先にそちらへ答えた。
「氏名確認」
一人ずつ、六つの名が読み上げられる。
介助歩行二。自力歩行四。入域六、帰還六。
久世は緑の欄を閉じた。
この人の締切が、六人を帰した。
「北側試験を終了します」
俺が頷く前に、有線子機の奥で何かが倒れた。
次いで、咳。
『……風、来ました』
男の声だった。
久世の指が、左の時計を止める。
「北側、人数と歩行可否を」
『有馬です。三名います』
雑音の向こうで、誰かが数字を確認する声がした。
『歩行二。長谷部が左脚を負傷、搬送一』
三人いる。
だが、三人では歩いて帰れない。
俺は夕食札を三枚、六人分の横へ戻した。
久世は止めなかった。
「真壁さん」
赤枠と黄色い枠の間へ、新しい線を引きながら言う。
「次は、誰が入り、何を捨て、何分で戻すかを書いてください」
出汁鍋の蓋が、小さく鳴った。
三人分の夕食を作るのは、その後だ。




