補給係にも、帰還確認が必要だった
高梨千尋は、帰路亭の入口で靴底を三度見た。
一度目は泥がないか。
二度目は床を汚さないか。
三度目は、たぶん入っていい場所かを確かめるためだった。
「どうぞ。今日は雨ではありませんし、うちの床は人に踏まれる前提です」
「すみません。入口がきれいだったので」
六年前の旧北側中継庫で、帰還者のために椅子を迷宮側へ向けていた人は、自分が座る場所には慎重だった。
午後四時十二分。
佐伯さんの照会を受け、高梨千尋は帰路亭へ来た。
三十一歳。短く切った髪。紺色の配送会社の制服。肩に下げた灰色の鞄は、角だけが白く擦れている。
事故の三か月後に東都開発を退職してから、迷宮関係の仕事には就いていないという。
「聴取ではありません」
佐伯さんが、空の記録用紙をテーブルへ置いた。
「途中でやめても、不利益はありません。覚えていないことは、覚えていないと答えてください」
「記憶だけで決めない、ですよね」
高梨さんは、俺ではなく用紙を見て言った。
「六年前も、そう書いてありました」
俺が作った第三版の手順だった。
帰還者の人数、状態、後続の有無。聞き取れなければ空欄にする。推測で帰還確認を完了させない。
最終版から、人員ごと削られた手順だ。
「最初に確認します」
俺は、返却されなかった貸出票の複写を置いた。
「午前六時十八分、可搬電源、有線子機、百二十メートル接続線を受領したのは、高梨さんですか」
「はい」
「直接、誰かに命じられましたか」
「いいえ」
答えは早かった。
「南地上本部の配置表を見たら、北の受け入れが消えていました。北第三保守線は、帰路の候補に残っていたのに」
「だから旧版コードを使った」
「二回、上へ確認しました。一回目は返事なし。二回目は、最終版に従えとだけ」
神代さんがカウンターの内側で、湯呑みを四つ並べる。
「それでも動いた」
「動ける手順が残っていたので」
高梨さんは、湯呑みを受け取らなかった。
まだ仕事の途中なのだろう。
「北に誰もいなければ、戻る人が自分で本部まで歩くことになる。怪我人がいたら無理です。だから、受け入れだけ開けました」
「自主的な善行として記録するつもりはありません」
俺が言うと、高梨さんは初めて俺の顔を見た。
「助かります」
声が、少しだけ低くなった。
「あれを勇気があったで終わらせられると、次の人も一人でやらされます」
佐伯さんの鉛筆が動く。
命令なし。
照会二回。
最終版の欠落を、旧版手順で補完。
必要な仕事を削り、現場だけが不足を知る。六年前の構造が、本人の言葉で形になった。
「十二本目の深層行動食は」
宮前さんが聞く。
「午前十一時五十分ごろに食べました。半分ずつ、水で流し込んで」
「中継庫の空袋は」
「私のものです。袋の端に、二回折った跡があるはずです。残りをこぼさないようにしていました」
佐伯さんが現場写真を拡大した。
空袋の口に、平行な折り跡が二本あった。
映像の十二本目。
午前六時十九分の食事転用記録。
中継庫の空袋。
六年間、別々だった三つの記録が、同じ一食へ戻った。
「午後一時二十二分の応答について聞きます」
佐伯さんが写真を閉じた。
高梨さんの指が、灰色の鞄の留め具を押した。
一度。
二度。
「声は一人でした」
「氏名は」
「聞き取れませんでした。でも、応答番号は聞こえました。灰岳十一」
公式遠征隊の最後尾。
十一名のうち、後衛で通信を持つ支援探索者に割り当てられた番号だった。
十二人目ではない。
「内容を、覚えている範囲で」
「『十一人いる。担架二。歩行九。北線へ向かう』」
店内の音が、一つ減った。
冷蔵庫は動いている。
鍋も弱く沸いている。
それでも、六年前の午後一時二十二分だけが近くなった。
折り返し限界の二分後。
十一名は、その時点では全員そろっていた。
後から完成した死亡報告ではなく、帰ろうとしている十一人の声が、地上へ届いていた。
「その直後に切れました」
高梨さんが続ける。
「呼び返しても応答なし。旧版手順では、地上側接続箱まで受け入れ位置を前進する。だから、子機と電源を持って席を立ちました」
「迷宮へは」
「入っていません。接続箱の外側までです。そこに水と毛布を運んで、午後五時まで呼び続けました」
「南本部からの指示は」
「一時三十四分に、北線受け入れ終了。二時十分に、配置へ戻れ」
「従わなかった」
「北線の終了確認が取れていませんでした」
反抗した、と言わない。
高梨さんは、終わっていない仕事を終わったことにしなかった。
午後五時二分。現場保全班に子機を渡し、南地上本部へ戻る。
退勤確認票へは、戻った時刻も、北で待った時間も記入されなかった。
「上司には、勤務命令のない離席だと言われました」
「退職理由は」
宮前さんが聞いた。
「翌月から、私は帰還人数の照合から外されました」
高梨さんは、そこで初めて湯呑みを持った。
「数字を見る仕事をさせてもらえない補給係は、いる意味がなかったので」
佐伯さんは、記録用紙を読み返した。
十二本目の用途は、高梨千尋の帰還受け入れ勤務食。
午後一時二十二分の応答は、公式遠征隊十一番。十一名全員、担架二、歩行九と申告。
高梨は迷宮へ入らず、地上側接続箱へ受け入れを前進。午後五時まで待機。
応答番号と十一名の状態は高梨の証言として記録し、紙テープが裏づけるのは時刻、回線、一名応答まで。
命令系統と受け入れ終了判断の責任は、別途調査。
「第五件、現時点の結論を閉じます」
佐伯さんが言った。
「十二食目は、未記録の十二人目を示さない。公式十一名を地上で迎える一名の勤務を支えた。公式死亡者十一名と矛盾なし」
空欄だった補給係の仕事が、六年遅れて記録へ入った。
「高梨さん」
俺は聞いた。
「食べられないものはありますか」
「聴取は終わりでは」
「終わりました。だから食事です」
「代金を」
「六年前の勤務食を、うちが請求する筋ではありません」
「でも、あれは食べました」
「では、帰還確認の分です」
高梨さんは困った顔で、神代さんを見た。
「この店、いつもこうですか」
「いつも。諦めた方が早い」
「共犯者が増えていますね」
「共同責任者」
訂正だけは速かった。
鶏と根菜の煮込みをよそい、麦飯と漬物を添える。
料理は、六年前の判断を変えない。
十一人を帰すこともできない。
ただ、勤務を終えてここまで来た人間を、空欄のまま帰さずに済む。
「高梨さん」
膳を置く。
「おかえりなさい」
高梨さんは二度まばたきをして、入口を見た。
今度は靴底ではなかった。
「ただいま、でいいんでしょうか」
「帰ってきた人が決めてください」
少し冷めた湯呑みを持ち直し、高梨さんは頷いた。
「ただいま」
六年前の帰還確認が、一人分だけ終わった。
閉店後。
全員が帰った店で、神代さんだけがカウンターに残っていた。
「神代さん」
「何」
「夕食、食べますか」
「いつもの注文?」
「今日は、店主の賄いを二人分作ります」
神代さんは一秒だけ黙った。
「仕事?」
「違います」
「なら、食べる」
俺は営業札を裏返した。
カウンター越しではなく、窓際の二人掛けへ膳を運ぶ。
帰還人数でも、予定食数でもない。
今夜の夕食は、最初から二人分だった。




