無人の中継庫は、帰ってくる人へ椅子を向けていた
旧北側中継庫には、椅子が一脚だけ残っていた。
扉ではなく、迷宮へ続く保守通路の方を向いている。
「座りますか」
神代さんが聞いた。
「座りません」
「顔色が悪い」
「六年分の埃をかぶった椅子へ人を座らせる判断は、補給計画にありません」
「なら正常」
健康確認の基準が雑だった。
「どちらも触らないでください」
佐伯さんが、俺と神代さんをまとめて止める。
午前十時十二分。
国の再調査室と灰岳市の立ち会いで、旧北側中継庫の封印を開いた。
正面ゲートから北へ二百メートル。迷宮外壁に沿った半地下の小部屋だ。保守通路を使えば、第二区画の北第三保守線へ入れる。
六年前の事故後に封鎖され、設備撤去の対象からも外れた。
公式には、使われていない倉庫だったからだ。
「最終計画で、ここへの配置はなし」
宮前さんが確認する。
「はい」
俺が答えた。
「人員削減で、帰路中継の担当を外しました。物資も南の地上本部へ集約した」
「なのに、十二本目がここへ運ばれた」
「方向だけです。中へ入ったとは、まだ決まっていません」
佐伯さんが頷く。
「その言い方を維持してください」
分からないことを分からないまま運ぶ。
この人の仕事は、やはり補給に近い。
室内は、三畳ほどだった。
金属棚。
折り畳み机。
壁掛けの有線中継器。
毛布の箱。
水筒を置く低い台。
そして、保守通路へ向いた椅子。
「倉庫に見えます」
宮前さんが言う。
「物があるからでは」
「置き方です」
俺は入口から動かず、指で順番を示した。
「通路から戻った人間を、まず椅子へ座らせる。左手で水。正面で顔色と意識。右手の毛布で保温。机の端末で人数を照会する」
神代さんが椅子の背後へ回る。
「座った人からは、出口が見える」
「迷宮側も見えます。次に帰る人間を待つためです」
「店のカウンターと同じ」
「帰路亭には、もう少し客席があります」
「一脚でも、仕事は同じ」
返しに困った。
六年前、俺が最初に作った配置図もこの向きだった。
帰還者を受け入れ、人数を照合し、必要なら地上本部へ送る。
最終版では削除した仕事だ。
それが、誰かの手で組み直されている。
「事故後に調査員が動かした可能性は」
佐伯さんが聞く。
「あります」
「当時の室内写真と比べます」
革鞄から、事故翌日の写真が出てくる。
机の傷。
棚の位置。
椅子の向き。
すべて同じだった。
神代さんが、椅子の脚元へしゃがむ。
「床、ここだけ色が違う」
埃の下に、半円形の擦れ跡があった。
椅子を保守通路へ向け、誰かが来るたび机側へ引き戻す。その動きを繰り返さなければつかない傷だ。
「使われていた」
「可能性は上がりました」
「真壁が作った配置?」
「最初の案は」
最終版からは、俺が消した。
必要がなくなったからではない。人を置けなくなったからだ。
残った誰かは、削られた仕事だけを拾い直した。
六年間の封印より前から、この部屋は帰ってくる人間の方を向いていた。
ただし、部屋の向きだけでは人がいた証拠にならない。
俺は写真の隅にある、小さな黒い箱を見た。
「廃棄物箱を確認できますか」
「理由は」
「受け入れ机から手を伸ばせる位置にある。ここで何かを開けたなら、外へ捨てに行く必要がない」
佐伯さんが市の記録担当へ合図する。
撮影。
手袋。
封印解除。
箱の蓋が開く。
乾いた紙コップが二つ。
消毒綿の袋。
白い封印帯。
そして、深層行動食の空袋が一つ。
神代さんが息を止めた。
「十二本目?」
「まだです」
俺と佐伯さんの声が重なった。
佐伯さんが、空袋の製造番号を読む。
製造ロットは、映像にあった十二本と一致した。
個体番号も、物資引渡記録にある十二本のうち一つ。
だが、映像のどの一本かまでは読めない。
「公式隊の誰かが、出発前にここで食べた可能性」
宮前さんが言う。
「残ります」
「地上班が余りを食べた可能性」
「残ります」
佐伯さんは、結論欄を空白にした。
空袋がある。
同じロットである。
それ以上は、まだ書かない。
神代さんが、壁の中継器を見る。
「こっちは動く?」
「電源は落ちています」
「当時は」
「それを調べます」
中継器は古い有線式だった。
音声そのものは保存しない。回線を開いた時刻と、接続先だけを紙テープへ打刻する。
中央管制へ送らなければ、中央の記録には残らない。
その紙テープが、側面の透明窓に巻かれたままだった。
「動かさず読めますか」
「窓の範囲だけなら」
懐中電灯を斜めから当てる。
数字の列。
事故当日の午前六時二十一分、電源投入。
六時二十二分、地上本部との試験接続。
それから七時間、記録は空いていた。
午後一時二十二分。
受話器が上がっている。
「折り返し限界は」
佐伯さんが聞いた。
「午後一時二十分」
「二分後」
「はい」
予定どおりなら、深層隊が帰路へ入ったかを確認する時刻だ。
配置のない倉庫で。
誰もいないはずの回線が。
帰還が遅れた最初の二分を拾っている。
「接続先は」
宮前さんが聞く。
打刻番号を読む。
北第三保守線。
最終計画では、閉鎖済みと記載した回線だった。
俺が書いた番号だ。
「名前は、まだ足さない」
神代さんが言った。
第21話で、俺が佐伯さんへ言った言葉だった。
「分かっています」
「なら、今分かった仕事は?」
俺は、通路へ向いた椅子を見る。
「事故当日の午前六時二十一分から、少なくとも午後一時二十二分まで、ここを使った人間がいた」
「何をしていた」
「帰還受け入れです」
水と毛布を置き、行動食を一つ開け、折り返し限界を二分過ぎても受話器を取った。
保管ではない。
待機でもない。
帰ってくる人間を迎える補給の仕事だ。
佐伯さんが、結論欄へ書く。
旧北側中継庫は事故当日に稼働。
無記名の少なくとも一名が帰還受け入れを実施。
深層行動食一袋は同室で開封。十二本目との同一性は継続調査。
「追う先は、回線の向こうです」
宮前さんが言う。
「閉鎖済みの北第三保守線を、誰が使える状態へ戻したか」
佐伯さんは紙テープへ視線を戻した。
「もう一つあります」
午後一時二十二分の打刻の横。
細い赤線が一本、手書きで引かれていた。
回線番号の訂正ではない。
旧い補給員の記号だった。
帰還者あり。
ただし、人数未確認。
椅子は最後まで、迷宮側を向いていた。




