借り物の名前では、救助を呼べない
救助対象の名前が分かった。
次に必要なのは、その名前をいったん使わないことだった。
「柚木春人さんとして呼びかけても、帰還札は反応しません」
俺は言った。
「端末が持っている氏名は椎名拓海。救難回線も同じです」
「じゃあ、椎名さんと呼ぶ?」
神代さんが聞く。
「二人とも返事をします」
「面倒」
「人間を一つのIDへ詰めた会社へ言ってください」
午前七時五十四分。
自動逆洗まで、二時間六分。
帰路亭の営業札は裏返した。
本日、救助対応のため臨時休業。
開店からまだ日が浅いのに、ずいぶん業務の幅が広い。
厨房では神代さんが緊急物資庫を開けている。
予備鍵を渡してから、初めての実戦だった。
「帰還索、二巻。電解質水、四本。糖質パック」
「六本」
「八本ある」
「六本です」
「余ったら私が食べる」
「余らせる前提で救助物資を組まないでください」
神代さんは二本を棚へ戻した。
不満そうだが、戻した。
俺がいなくても保管場所が分かり、必要な物を出し、数量の修正に従う。
鍵を渡した意味はあった。
前掛けを着ける意味は、まだ分からない。
店の隅では、宮前さんが緊急入域許可の申請を続けていた。
「救助対象の入域記録がないので、監督官が対象者の実在確認を求めています」
「写真と空袋では不足ですか」
「救助を止めたいわけではありません。あとで不法入域として救助隊まで処分されない形にしたいんです」
正しい。
正しい手続きは、人を遅くするためだけにあるのではない。
帰ってきたあと、助けた側と助けられた側を守るためにもある。
「本人の応答が取れれば?」
「音声と位置を同時に保全できれば、緊急性の証明になります」
「音声回線は」
「救難札の帯域では無理です。信号の強弱だけ」
二秒程度の短い発信。
内容は送れない。
位置も東排水槽までしか絞れない。
そこには点検通路、沈砂槽、弁室、予備ポンプ室がある。
闇雲に探せば、逆洗に間に合わない。
「点検用の遠隔操作は」
俺は椎名さんへ聞いた。
「地上から、弁へ試験電流を送れます。けど、柚木の札とは別系統です」
「弁の近くにいれば、分かる?」
「作動灯が点きます。振動も出る」
「何種類の合図を作れます」
椎名さんは地上管理所の操作盤を見る。
「短く流すか、長く流すか。三系統の弁を選べます」
「十分です」
人間の通信は、言葉が使えなくても成立する。
第2事件では、結び目を使った。
今回は、配管を叩く。
必要なのは、相手が同じ規則を知っていることだ。
「柚木さんが知っている点検手順を教えてください」
「始業確認で、弁番号を一、二、三の順に試験します」
「返答は」
「現場側が確認ボタンを押す。押せなければ、帰還札の救難を一回」
「それを使います」
椎名さんが操作盤へ座る。
古賀は市職員に端末を預けさせられ、壁際に立っていた。
「設備を壊さないでください」
「人が入っていない前提の設備ですよね」
神代さんが返す。
「なら、壊れません」
理屈が強い。
古賀は黙った。
「第一弁へ、短く一回」
椎名さんが操作する。
端末上の電流値が上がる。
一秒。
停止。
十秒待つ。
救難信号は来ない。
「第二弁。短く二回」
二度、電流を流す。
八秒後。
帰還確認端末が、一回鳴った。
椎名拓海。
救難信号。
「第二弁の近くです」
宮前さんが記録へ入れる。
「次。負傷確認」
短い通電は、はい。
長い通電は、いいえ。
「自力歩行できるなら一回。できないなら二回、救難を送れ」
椎名さんがマイクへ言う。
音声は届かない。
それでも、点検手順を教えた人間の言葉として記録に残す。
第一弁へ短く通電。
信号、一回。
自力歩行可能。
「出血があるなら二回」
第二弁へ短く二度。
信号、一回。
出血あり。
「止血済みなら一回。続いているなら二回」
第三弁。
信号、一回。
止血済み。
返答は明確だった。
意識もある。
規則を理解している。
何より、救助を待っている。
「本人の実在と負傷、位置を確認」
宮前さんが申請を送る。
「緊急入域許可、仮承認。国の監督官が移動中です。正式承認は現場責任者の証言が必要」
全員が椎名さんを見る。
椎名さんは操作盤の上で拳を握った。
「俺が責任者です」
古賀が言う。
「作業指示は三名。柚木という人物の入域は把握していません」
「嘘だ」
椎名さんが立ち上がった。
右膝が崩れ、机へ手をつく。
「古賀さんが言った。枠は三人しか取れない、でも四人で終わらせろって。俺の予備札を渡したのも、あんただ」
「予備札は紛失時のためです」
「二枚とも、最初から俺の名前が入ってた」
「君が不正利用したのでしょう」
「だったら」
椎名さんの声が震える。
「だったら俺は、一人で中へ戻る。資格も仕事も、あとで全部失えばいい」
「戻って何をします」
俺は聞いた。
「東排水槽の手前までは案内できる。柚木を」
「その膝で」
「さっきも聞きました」
「答えを聞いていません」
「痛いです」
初めて、正直な返事だった。
「梯子を下りると力が抜ける。でも、経路は分かる。柚木がどこを怖がるかも、どの工具を持ってるかも分かる」
「戦闘は」
「できません」
「弁の操作は」
「できます」
「荷重を減らせば歩ける?」
「はい」
俺は神代さんを見る。
「現場指揮、できますか」
「やる」
「目的は柚木さんの救助。魔物の討伐ではありません」
「分かってる」
「撤退時刻は」
「真壁が決める」
「俺は地上です」
「だから決められる」
短い返答だった。
俺はホワイトボードへ入域者を書く。
神代凛花。
椎名拓海。
市の設備救助員、二名。
救助対象、柚木春人。
五人分の名前を、それぞれ別の行へ書いた。
「帰還札は正規のものを発行します」
宮前さんが言う。
「椎名さんの複製札は証拠として封印。神代さんたちは救助用の臨時札を」
「柚木の分は?」
「入域記録がないので、新規発行ができません」
「帰ってきたときは」
「本人確認票で受け入れます。私が責任者になります」
行政の書類が一枚、人間を待つ側へ回った。
午前八時二十二分。
救助隊が出発準備へ入る。
俺は四人分の水、行動食、止血具、帰還索を重量別に分けた。
椎名さんの荷物は最小限。
神代さんには糖質パック六本。
「七本」
「いつ増えたんです」
「予備鍵を持っている人間には、決裁権がある」
「ありません」
「では、共同責任者権限」
「一本だけです」
七本目を袋へ入れる。
神代さんが少し笑った。
地上管理所の警報が変わる。
東排水槽、圧力上昇。
逆洗準備工程が、予定より早く進んでいる。
「柚木へ伝えます」
椎名さんが操作盤へ戻った。
「第二弁を閉めろ。避難室で待て。俺たちが行く」
短い通電を組み合わせる。
返答が来る。
一回。
もう一回。
途中で止まった。
監視画面の圧力値が下がり始める。
「何をした」
古賀が画面へ近づいた。
「第二弁を閉めたんです」
椎名さんの顔から血の気が引く。
「あいつ、避難室じゃない。主配管の内側へ入った」
「なぜ」
「第二弁を閉めれば、逆洗水は止まる。でも手動弁は内側からしか回せない」
「退路は」
「弁を閉め切ったら、戻れません」
圧力値は下がる。
地上設備と、こちら側の通路は守られる。
その代わり、柚木春人は自分を排水槽の奥へ閉じ込めた。
借り物の名前で入った研修員が、最後まで他人を守る側へ回ろうとしていた。




