三人分の名簿に、四人分の弁当がある
救難信号を受けたとき、最初にしてはいけないことがある。
勇敢になることだ。
「私が行く」
神代さんが言った。
非常に分かりやすい実例だった。
「場所と人数と経路を確定してからです」
「場所は東排水槽。人数は一人」
「氏名不明。負傷不明。経路不明。逆洗設備の状態も不明」
「行けば分かる」
「それを救助計画とは呼びません」
「探索とは呼ぶ」
「今日は探索をしません」
店内の三人が、俺たちを交互に見る。
救助前の口論に見えるだろう。
実際には、いつもの確認だった。
神代さんはもう剣を抜かない。
俺が必要な情報を並べるまで待っている。
ただし、待っている顔が怖い。
午前六時三十八分。
宮前さんが帰路亭へ駆け込んだ。
パンツスーツの上に、市の防災上着。
片手に端末。
もう片方には、食べかけの菓子パン。
「信号の保全、終わりました。東排水槽の保守回線。帰還IDは椎名拓海さん。受信時点で椎名さん本人はここ。理解したくないですけど理解しました」
「朝食は」
「今それを聞きます?」
「菓子パン半分では、十時前に判断力が落ちます」
「あとにしてください」
「あとで食べると記録しました」
「そういう圧のかけ方、行政相手に覚えました?」
「食堂で」
宮前さんは反論を諦め、端末を卓上へ置いた。
「南関東迷宮設備の責任者を呼びました。古賀運用部長が十分で来ます」
三人のうち、椎名さんだけが顔を上げた。
「呼ばなくていい」
「救難信号が出ています」
「機器の誤作動です」
「誤作動なら、原因を確認します」
「俺たちの会社の設備です」
「迷宮内の設備は灰岳市の管理対象です」
宮前さんが即答する。
「書類上は」
最後の一言だけ、少し疲れていた。
制度は現場を守る。
ただし、制度が現場へ到着するまでには、だいたい書類が三枚いる。
俺はその間に、四人目を探す。
「工具袋を確認します」
「捜索令状でもあるんですか」
篠原さんが言う。
「ありません。拒否できます」
俺は答えた。
「拒否した事実も、救難信号の記録へ残ります」
「脅しですか」
「選択肢の説明です」
どこかで聞いた言い回しだった。
八代さんに請求書を送ってもいいかもしれない。
椎名さんが工具袋を机へ乗せた。
「見てください」
「椎名」
「中に誰もいないなら、何を見られても同じです」
篠原さんは黙った。
俺は一つずつ、白いシートへ出す。
大型レンチ二本。
小型レンチ三本。
圧力計一台。
交換弁一個。
絶縁手袋、四双。
携行食の空袋、四枚。
水筒、三本。
「手袋が一双多い」
神代さんが言う。
「予備では」
「全部、使ってある」
指先の摩耗が違う。
一双だけ、小さい。
黄色い補修糸で手首が縫われていた。
「会社の支給記録を」
宮前さんが端末を操作する。
「工具袋の申告重量は、入域時二十八・二キロ。帰還時二十三・八キロ」
「差は四・四キロ」
携行食と水を三人分消費しても、二キロほどしか減らない。
交換する予定だった旧式圧力計を一台、持ち帰っていない。
それでも計算が合わない。
「もう一袋、あったはずです」
「何の」
「個人用の工具袋。四人目が背負って入り、中に置いてきた」
椎名さんの喉が動く。
「想像でしょう」
「はい。だから確認します」
俺は小さい手袋を持ち上げた。
指先に、黒い粉がついている。
東排水槽の手動弁に使われる黒鉛潤滑剤だ。
作業者がいた。
小柄で、支給手袋を自分で詰めた人間。
弁へ触れ、食事を一つ食べ、名簿には載っていない。
「点検中の写真はありますか」
「会社へ提出済みです」
「見せてください」
「機密です」
入口から、別の声がした。
「保守設備の写真は、契約情報ですから」
古賀誠司。
南関東迷宮設備の運用部長は、迷宮前だというのに汚れ一つない作業上着を着ていた。
現場責任者で靴がきれいな人間を、俺はあまり信用しない。
偏見ではない。
六年分の統計だ。
「古賀さん。市への緊急開示をお願いします」
宮前さんが言う。
「誤信号一件で、取引先の情報を?」
「現に、帰還済みのIDが迷宮内から発信しています」
「端末の同期不良でしょう。うちの三名は全員ここにいる」
「四人目はいませんか」
「いません」
古賀は迷わなかった。
椎名さんを見ることもしない。
「四人分の携行食があります」
「一食多く食べる作業員がいることまで、市へ報告が必要ですか」
「本人が味を知りませんでした」
「食堂の試験ではないでしょう」
「人命確認です」
「名簿は三人。帰還も三人。全員いる。それが事実です」
「書類上は」
宮前さんが繰り返した。
古賀の眉が動く。
「神代さん。写真を」
俺が言うと、神代さんは自分の端末を机へ置いた。
「公開されてた」
南関東迷宮設備の公式採用ページ。
今朝五時二十分に投稿された現場写真が表示されている。
見出しは、若手も活躍する安全な職場。
こういう言葉は、だいたい若手が安全だという意味ではない。
写真には、三人が排水管の前で並んでいる。
篠原さん。
沼田さん。
椎名さん。
「三人ですね」
古賀が言う。
「撮ったのは誰です」
神代さんが聞いた。
「固定端末です」
「影がある」
写真の右下。
三人のものとは違う細い影が、工具箱へ伸びている。
固定端末なら、影はない。
撮影者は四人目だ。
「加工画像かもしれません」
「御社の公式発信です」
「広報担当へ確認します」
「その前に、元データを保全します」
宮前さんの指が動く。
「市の監査権限で、作業報告サーバーを一時凍結」
「待ってください」
「待てるのは、槽内に誰もいない場合だけです」
古賀が初めて椎名さんを見た。
目で命令する。
黙れ、と。
椎名さんの手が、右膝を強く掴む。
「俺が」
声が出る。
「俺が、置いてきました」
店内の空気が止まった。
「名前は」
俺は聞く。
「言えません」
「なぜ」
「言ったら、あいつは無資格入域になります。俺も名義貸しで資格を失う」
「言わなければ、正午に死にます」
「分かってる!」
椎名さんが机を叩いた。
右膝がぶつかり、顔を歪める。
「戻るつもりだった。俺が一人で。だから、誰にも」
「その膝で?」
「歩けます」
「歩けることと、救助できることは違います」
神代さんが言った。
自分へ何度も向けられた言葉を、少し不満そうに使っている。
「名前を言ってください」
「……柚木」
椎名さんは俯いた。
「柚木春人。二十一歳。うちの研修員です」
「資格は」
「D。設備補助だけ。入域枠が取れなくて、俺の札を」
帰還札を二枚に複製した。
同じ氏名。
同じ資格。
同じID。
二人が入れば、入域記録は一人分。
先に椎名さんが帰還すれば、記録上は両方が帰ったことになる。
「複製は誰が」
宮前さんが聞く。
「会社から渡されました。俺は、予備だって」
「その話はあとです」
古賀が遮った。
「まず救助に協力します。設備図を」
切り替えが早い。
人命を優先したのではない。
否定できなくなっただけだ。
古賀の端末が振動した。
彼は画面を伏せる。
「見せてください」
「業務連絡です」
その直後、地上管理所から警報が鳴った。
東排水槽、自動逆洗準備開始。
予定時刻、午前十時。
「正午では?」
神代さんが聞く。
宮前さんが設備表を開く。
「変更申請は来ていません」
古賀は答えない。
逆洗時刻は、二時間前倒しされていた。
残り、二時間十二分。
救助対象の名前を見つけた途端、会社は証拠ごと洗い流そうとしていた。




