帰還済みの探索者から、救難信号が届いた
店の裏口を開けたら、先に店主がいた。
正確には、店主ではない。
俺の前掛けをつけた神代さんが、厨房の中央で卵を見つめていた。
「おはよう」
「おはようございます。状況を説明してください」
「鍵を使った」
「そこは見れば分かります」
二日前、俺は神代さんへ帰路亭の予備鍵を渡した。
緊急時に裏口と物資庫を開けるための鍵だ。
本人は、午前六時十二分を緊急時と判断したらしい。
「腹が減った」
「返してください」
「鍵?」
「前掛けです」
白いシャツの上に濃紺の前掛け。
腰に片刃剣。
探索者と飲食店員の境界線が、かなり雑だった。
「客が来た」
神代さんが顎で店内を示す。
窓際の席に、作業着の男が三人座っていた。
灰色の軽装甲。
泥のついた安全靴。
胸には南関東迷宮設備の社章。
灰岳迷宮の第二区画で、排水管と中継器の点検を担当する会社だ。
「六時前に帰還した。帰還札は三枚、確認済み」
神代さんは、帰還確認端末まで起動していた。
画面には緑の丸が三つ。
椎名拓海。
篠原正臣。
沼田悠一。
三名、帰還済み。
入域名簿も三名。
行政の数字は、朝から気持ちよく一致している。
こういう朝ほど、だいたい何かが合っていない。
「朝食は?」
「注文を取ろうとした」
「取れましたか」
「全員、いらないと言った」
神代さんが不満そうに言う。
飲食店の危機は、彼女にとって迷宮災害と同じ分類らしい。
「それで卵を」
「三人分焼けば、匂いで食べるかと思った」
「強制給餌は接客ではありません」
コンロの火を止める。
卵はまだ割られていない。
被害なし。
緊急事態としては軽度だった。
俺は三人を見る。
中央の椎名さんだけ、右膝を伸ばしたまま座っている。
古傷をかばう姿勢。
袖口に赤錆。
手袋の指先は濡れていた。
三人とも帰還直後にしては荷物が軽い。
いや。
一つ、重すぎる工具袋がある。
「点検、お疲れさまでした。飲み物だけでもどうです」
「会社へ戻るので」
答えたのは、いちばん年上の篠原さんだった。
「報告が先です」
「分かりました。帰還確認だけさせてください」
「もう終わってますよね」
「端末上は」
俺は帰還札を一枚ずつ読み取る。
椎名拓海。
午前一時四分入域。
午前五時五十二分帰還。
装備重量、二十三・八キロ。
他の二人も異常なし。
「負傷は」
「ありません」
「食料の残量は」
「廃棄しました」
「どこへ」
篠原さんの返答が、半拍遅れた。
「迷宮内で」
「包装ごとですか」
「空袋だけです」
「それを迷宮内へ捨てた?」
神代さんの声が低くなる。
探索者は迷宮へゴミを残さない。
環境への配慮というより、匂いで魔物を呼ぶからだ。
「いや、持ち帰っています」
椎名さんが割って入った。
「俺の工具袋に」
「椎名」
「空袋くらい、出せばいいでしょう」
篠原さんが黙る。
椎名さんは椅子の下から工具袋を持ち上げた。
右膝を曲げた瞬間、顔が歪む。
袋の口を開ける。
レンチ。
絶縁手袋。
交換用の圧力計。
赤い携行食の袋。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
俺は並べた。
「予備です」
篠原さんが言う。
「入域時の支給記録では、三人に一食ずつです」
「誰かが余分に持っていたんでしょう」
「四枚とも、端が切ってあります」
未開封の予備ではない。
四人が食べた跡だ。
三名の名簿。
三枚の帰還札。
四人分の空袋。
食堂を始めてから、俺は料理の数で人間を見つけることが増えた。
あまり喜ばしい専門性ではない。
「中で、誰と合流しました」
「してません」
今度は椎名さんが答えた。
答えが速い。
目は、四枚目の袋から離れない。
「では、一人が二食?」
「そうです」
「誰が」
「俺です」
「味は」
「え?」
「この携行食の味です」
椎名さんの口が止まる。
赤い包装は新製品だった。
表に印刷されているのは、トマト煮込み味。
実物は、甘い豆のペーストに香辛料を足した味だ。
試供品を食べた宮前さんが、商品名を景品表示法へ相談しようか真剣に悩んでいた。
「トマト、ですよね」
「食べていませんね」
椎名さんが目を伏せる。
そのとき、帰還確認端末が鳴った。
短く、二回。
救難信号の受信音だった。
緑の丸が一つ、黄色へ変わる。
椎名拓海。
帰還済み。
その名前の下へ、小さな文字が追加された。
救難信号受信。
午前六時三十一分。
「椎名さん」
俺は本人を見る。
「ここにいますよね」
「見れば、分かるでしょう」
声が掠れていた。
端末がもう一度鳴る。
同じ帰還ID。
発信元は、灰岳迷宮内部。
帰還済みの探索者が、店内と迷宮に一人ずついる。
人間が分裂する可能性より、記録が嘘をついている可能性の方が高い。
残念ながら、後者はよくある。
「神代さん。入口を」
「閉める?」
「開けたまま、誰も帰さないでください」
三人の肩が固まる。
「宮前さんへ連絡。救難信号の生データを保全します」
「了解」
神代さんは前掛けを外した。
代わりに剣帯を締める。
切り替えが速い。
「椎名さん」
俺は四枚目の空袋を、彼の前へ置いた。
「中に残っているのは、誰です」
「……知りません」
端末が三度目の信号を受ける。
今度は位置情報がついた。
第二区画、東排水槽。
設備図を開く。
東排水槽は、夜間点検で溜まった魔素泥を洗い流すため、正午に自動逆洗を行う。
槽内に人がいれば、排水と一緒に第三区画の沈殿坑へ落ちる。
生存可能時間は、五時間二十九分。
「知らなくても構いません」
俺は言った。
「名前は、帰してから聞きます」
椎名さんの右手が、膝の上で震えた。
人間は嘘をつける。
名簿も、帰還札も、会社も嘘をつく。
だが、食べた弁当の数までは、なかなか口裏を合わせてくれない。
帰還済み三名。
未帰還一名。
俺はホワイトボードへ、最初の正しい数字を書いた。
救助対象、一。
氏名、不明。
期限、正午。




