四人分のカレーを、温めて待つ
救助された人間の帰還札は、見つけただけでは点灯しない。
地上へ帰るまで、未帰還のままだ。
『右足は動かせる。骨折は、たぶんない』
羽鳥の声が有線端末から届く。
「たぶんを、診断欄へ書くつもりはありません」
『地上の人、厳しいね』
「食堂店主です」
『もっと分からなくなった』
「正常な反応です」
午後一時六分。
救助隊四名は、換気井の奥で羽鳥澪と接触した。
意識清明。
右足首を自分で固定。
左の脛に浅い裂傷。
水筒は空。
食料なし。
体温と受け答えから、現時点で重い魔素障害はない。
軽口の量だけなら、神代さんと同程度だった。
医療班が端末越しに応急処置を指示する。
水は一度に飲ませない。
電解質水を少量ずつ。
足首の固定を確認。
自力歩行は禁止。
『俺が運びます』
堂前さんが言う。
『この人、俺の背嚢を持って帰った人?』
『はい。すみません。覚えていません』
『謝られると、こっちも困るな』
羽鳥が笑う。
『私も三人を覚えてない。おあいこにしよう』
軽い言葉の後ろで、息が震えた。
おあいこで済ませたいほど、怖かったのだろう。
「話は地上で。十三時十五分に帰還開始」
『待って』
羽鳥の声が止める。
『換気井の留め具、どうするの』
「現在の状態は」
『私が押さえてたときより閉じてる。一人ずつなら通れる。でも、最後の一人が手を離したら終わり』
前回、羽鳥が残った理由だった。
四人を一本の命綱でつなぎ、白峰隊を換気井の外へ出す。
最後に残った自分が留め具を押さえ、命綱を切る。
同じ手順なら、また一人が残る。
「黒瀬さんの盾を使います」
『支点が足りません』
黒瀬さん。
『盾だけなら、閉じる力に負けます』
「帰還索を二重に回し、盾の取っ手へ結ぶ。堂前さんの滑車を壁の固定環へ」
『固定環は腐食しています』
羽鳥が答える。
「使える環を知っていますか」
『知らない』
即答。
『でも、紙に書いた気がする』
記憶ではなく、自分の地図を開く。
紙の音。
『換気井の北壁、下から三つ目。荷重試験済み。書いてある』
「では、それを使います」
『自分の字を信用するの?』
「本人が信用できないと書いた紙なので」
数秒の沈黙。
『ああ。私、この店主のこと好きかも』
『だめ』
神代さんが言った。
返答が速い。
指揮所の宮前さんが、こちらを見る。
医療班も見る。
「神代さん。通信は救助用です」
『分かってる』
『何がだめなの?』
羽鳥が聞く。
『あとで説明する』
説明する予定があるらしい。
俺は聞かなかったことにして、盾の固定手順を伝えた。
黒瀬さんが盾を横向きに差し込み、帰還索を二重に回す。
堂前さんの携行滑車で荷重を逃がす。
水城さんが紙地図の固定環と現物の亀裂を照合。
神代さんは留め具のそばで、蔓の動きを見張る。
『固定完了』
「荷重をかけて十秒。異音があれば中止」
一秒。
二秒。
端末越しに、金属が軋む。
八秒。
九秒。
十秒。
『維持しています』
「通過順。水城さん、黒瀬さん、堂前さんと羽鳥さん、神代さん」
『真壁』
神代さんが呼ぶ。
「何です」
『最後でいい』
以前なら、許可を待たずに残っただろう。
いまは、役割として確認している。
「お願いします。ただし、盾の回収に固執しない。十五秒で外れなければ放棄」
『黒瀬の盾なのに?』
『構いません』
黒瀬さんが答えた。
『人より安い』
「良い判断です」
『高かったんですが』
「地上へ帰ったら、正しい順番で残念がってください」
水城さん通過。
黒瀬さん通過。
堂前さんが羽鳥を背負う。
『重くない?』
『軽いです』
『女性へ言うなら褒め言葉だけど、運搬士に言われると荷物扱いだね』
『すみません』
『やっぱり、前にも謝られた気がする』
記憶ではない。
それでも、会話の形が身体のどこかに残っている。
二人が通過する。
最後に神代さん。
盾の固定を外す。
『十秒』
水城さんが数える。
六秒。
金属音。
八秒。
『外れた』
神代さんが盾を引き抜く。
留め具が閉じ始める。
『神代!』
黒瀬さんの声。
雷鳴が、有線端末を白く潰した。
「神代さん!」
返答がない。
帰還索が一度、大きく揺れる。
音声が戻った。
『いる』
「雷撃を使いましたね」
『一回』
「用途は」
『留め具じゃない。蔓が来た』
呼吸は速い。
「糖質パック一本。水分。二分停止」
『進める』
「二分停止」
『でも』
「撤退命令です」
短い間。
『了解』
こちらも、喜ぶのは帰還してからだ。
午後一時二十八分。
五名は換気井を離脱した。
帰路は、往路より遅い。
堂前さんが羽鳥を背負っている。
黒瀬さんは盾を回収したが、固定部が曲がり、展開できない。
水城さんの測定端末は閉じたまま。
神代さんは雷撃を一度使った。
人員は増えた。
使える装備は減った。
それが救助の帰り道だった。
『紙帯を読みます』
黒瀬さんが自分から言う。
五人の名前。
四人で入り、五人で帰る。
羽鳥は堂前さんの背中から、自分の名前を聞いている。
『変な感じ』
「何がです」
『初対面の人たちが、私の名前を忘れないようにしてる』
「羽鳥さんも読んでください」
『自分の名前を?』
「五人分です」
羽鳥が読む。
神代凛花。
黒瀬直人。
水城美奈。
堂前豪。
羽鳥澪。
『この三人を助けた理由、まだ思い出せない』
「理由は、帰還条件に含まれません」
『地上の店主、何でも条件にするね』
「料理は分量にします」
『食べられる?』
「帰った人から」
『じゃあ、急ごう』
軽口の量が戻った。
午後二時四分。
第4層西回廊を離脱。
午後二時三十九分。
第3層補給地点。
羽鳥へ二回目の水分。
神代さんへ糖質パック二本目。
本人は一本で十分だと主張した。
実績に基づき、却下した。
午後三時十一分。
音声線の雑音が消える。
白峰隊三人の頭痛と耳鳴りは悪化していない。
羽鳥の意識も清明。
午後三時四十六分。
地上ゲートの警告灯が点滅した。
最初に神代さんが出る。
続いて黒瀬さん、水城さん。
堂前さんが、羽鳥を背負って地上へ踏み出す。
行政端末が帰還札を一枚ずつ読む。
神代凛花。帰還確認。
黒瀬直人。帰還確認。
水城美奈。帰還確認。
堂前豪。帰還確認。
最後に、地上で保全していた羽鳥の橙色の試験札。
警告音。
照合先なし。
赤い文字は、朝と同じだった。
帰還確認なし。
「本人がいるのに?」
堂前さんの声が低くなる。
「行政名簿に入域記録がありません」
宮前さんが端末を操作する。
「いま追加します」
「できるんですか」
「本来は、入域前にする仕事です」
八代さんが一枚の文書を差し出した。
東都迷宮開発・重大事故緊急報告。
外部契約探索者、羽鳥澪。
入域時刻、午前四時二十三分。
入域口、東側試験坑道。
試験番号、C4-MN。
「会社が認めた?」
羽鳥が堂前さんの背中から聞く。
「私が報告しました」
八代さんが答える。
「深層技術室の記録を、灰岳市、国の監督官、警察へ同時に提出しました」
「社内の許可は」
「事故報告に、事故を起こした部署の許可は要りません」
八代さんの端末には、アクセス権限停止の通知が出ていた。
「仕事、なくなった?」
「まだです。会議は増えるでしょう」
「そっちの方が重傷かも」
「補償申請を検討します」
宮前さんが緊急報告を公的記録へ添付する。
羽鳥澪。
Aランク斥候。
公式調査隊との現場合流。
救助対象。
帰還。
行政端末へ、橙色の札をもう一度かざす。
短い電子音。
表示が赤から緑へ変わった。
帰還確認。
「お帰りなさい、羽鳥さん」
宮前さんが言う。
羽鳥は少し黙った。
「ただいま、でいいのかな」
「記録上は」
「固いね」
「店へ行けば、もう少し柔らかい人がいます」
視線が俺へ集まる。
行政職員よりは、という意味だろう。
比較対象に不満はある。
羽鳥は医療班の車両へ運ばれた。
白峰隊三人と神代さんも再検査。
全員がゲート前からいなくなったあと、俺はホワイトボードの名前を一人ずつ消した。
今度も、帰ってきたので。
最後に羽鳥澪を消す。
空になった板の横で、八代さんが立っていた。
「買収交渉は、延期します」
「中止ではなく?」
「会社員は、簡単に中止と言いません」
「便利な語彙ですね」
「ただし、代替案は検討します。帰還記録を第三者保全し、設備と人員だけを会社が支援する形です」
「所有権は」
「渡さなくて結構です」
「ずいぶん譲りましたね」
八代さんは、空のホワイトボードを見る。
「今日、会社の記録だけを信じていたら、羽鳥さんはいない人のままでした」
十分な理由だった。
午後六時四十分。
帰路亭の入口のベルが鳴った。
最初に入ってきたのは、右足首を固定した羽鳥だった。
骨折はなし。
脱水と軽度の魔素障害。左脛の傷は縫合せずに済み、医師から安静と経過観察を命じられている。
松葉杖の横には、黒瀬さん。
水城さんが反対側を歩き、堂前さんは外側の証拠採取を終えた薄緑の背嚢を持っている。
三人とも羽鳥を覚えていない。
それでも、隊列は四人分だった。
「いらっしゃいませ」
「店主、本当に店主だったんだ」
「疑っていたんですか」
「救助指揮の声で、カレーの話をされても」
「温めてあります」
カウンターへ、四人分のカレーを並べる。
白峰隊三人と、羽鳥の分。
大きさは同じ。
神代さんの皿だけは、その横で明らかに大きい。
「五人分では?」
水城さんが聞く。
「常連分は事件予算と別会計です」
「二杯目」
神代さんが言う。
「一杯目を食べてから申請してください」
羽鳥は四つの皿を見た。
「私、この人たちと同じ隊じゃないよ」
「知っています」
「一時間くらい一緒にいただけ」
「その一時間で、三人を帰した」
「覚えてない」
「記録があります」
俺は紙地図の複写を一枚、カウンターへ置いた。
「覚えていないことも含めて」
黒瀬さんが羽鳥の隣へ座る。
「俺たちも、あなたを覚えていません」
「初対面同士だ」
「そうですね」
「なのに、迎えに来た」
「隊長なので」
「私、隊員じゃないけど」
黒瀬さんは一度だけ言葉に詰まった。
「では、借りを返しに」
「利息は高いよ」
「食事代程度なら」
「それは私が払います」
堂前さんが薄緑の背嚢を、羽鳥の椅子の横へ置いた。
「預かっていました」
「ありがとう」
「中の食料を食べたかもしれません」
「いいよ。私もそっちのを食べたかもしれない」
「覚えていないのに?」
「罪悪感で空白を埋めるな、って店主が言ってた」
堂前さんが俺を見る。
「同じことを言われました」
「気が合うね」
水城さんは全員へ水を配った。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
今度は、四つ目を置いても手が止まらなかった。
「食べてください」
四人が匙を取る。
羽鳥が最初の一口を食べ、目を閉じた。
「おいしい」
「今日、二人目です」
「毎回言うことにする」
「その契約は、すでに一名と結んでいます」
「独占契約?」
「違う」
神代さんが即答した。
だから、通信以外でも返事が速い。
「神代さん」
「何」
俺はレジの下から、小さな鍵を出した。
帰路亭の裏口と、救急用品庫の合鍵。
「預かってください」
神代さんの匙が止まる。
「買収されるの?」
「されません。一人で運営する危険は認めました」
「従業員?」
「常連一号です」
「料理はしない」
「知っています。緊急時に、扉を開けてください」
「誰のために」
「帰ってくる人のために」
神代さんは鍵を受け取った。
掌の中で一度握り、上着の内ポケットへ入れる。
「分かった」
短い返事だった。
店の鍵を渡すには、それで十分だった。
入口のベルが鳴る。
八代さんが、厚い紙のファイルを抱えて立っていた。
「まだ営業中でしょうか」
「朝食には遅いですね」
「夕食を」
初めて、この店で食事を注文した。
「カレーならあります」
「お願いします」
八代さんは空いた席へ座り、紙のファイルを俺へ渡す。
「外部保全した深層技術室の試験記録です。羽鳥さんの入域記録、脈動波形、過去データとの照合結果」
「過去?」
「比較対象に、灰岳迷宮の旧観測記録が使われていました」
最後のページを開く。
午前五時九分の高密度脈動。
鋭く立ち上がり、二段階で落ちる波形。
その下に、六年前の第六層撤退事故当日の記録が重ねられている。
同じ形だった。
発生時刻は、事故当日の午後三時四十八分。
俺は自分の個人行動記録を取り出す。
午後三時四十九分。
先行隊から人数照会。回答が二度変わる。
当時は、通信不良だと思った。
事故報告書からは、その一行ごと消されていた。
「六年前にも」
八代さんが言う。
「迷宮は、人の記憶を消していた可能性があります」
カウンターでは、四人が名前のない一時間を挟んで同じカレーを食べている。
六年前の十一人には、紙の地図も、外に残した記録もなかった。
俺だけが持っていた一行が、いまになって時刻を返した。
午後三時四十九分。
十一人の帰路が狂い始めたのは、崩落より二十三分前だった。




