第4話 普通の写真、外の景色。
まひるはスマホの写真を一枚戻した。
そこに映っていたのは、月が二つある夜空でも、お菓子のマンションでもなかった。
「これ?」
それは、ただの駅前の横断歩道。
そこにいたのは、信号待ちをしている人たち。
青信号に変わる少し前、制服の袖をまくった子が、片手で鞄を持ち直している。
奥にはコンビニの白い看板があって、ガラスに夕方の空が薄く反射していた。
特異現象のひとつもない、フォルダに紛れ込んだ趣味の写真。
まひるは、なぜ秋雨がその写真を見たがったのか分からなかった。
「はい、これです」
「これ、なんでもないやつだよ」
「普通なんですか?」
「うん。地元の駅前。学校帰りに撮っただけ。間違えて入っちゃったみたい」
秋雨の視線は、横断歩道の奥に吸い込まれたままだった。
まひるは画面に指を置いたまま、秋雨の横顔を盗み見る。
秋雨はさっきまでの不思議な景色を見る時よりも、ずっと静かな顔をしていた。
すごいものに驚いているというより、隅々まで観察しているような様子だった。
「こういう写真、もっとあるんですか?」
「あるけど……おもしろくなくない? あ、駅が珍しいとか?」
「駅は別に珍しくないですけど」
秋雨は、画面の中の夕焼けを追ったまま言った。
「私は、好きです。なんだか、外の世界って感じがして」
外の世界――さっき、まひるが秋雨は漫画から出てきたのかと、勘違いした言葉だった。
けれど今は、同じようには聞こえなかった。
秋雨が見ているのは、まひるにとっては何度も通った道の写真。
信号待ちが長くて、夏は日差しがきつくて、コンビニの前にはよく同じ学校の子がたむろしている。
特別でもなんでもない、いつもの風景だ。
けれど秋雨は、それを遠い景色みたいに扱っていた。
「篠宮さんが見たいなら、別にいいけど」
まひるは、次の写真を出した。
コンビニの白い明かりと看板。本屋の袋を持った、制服姿の友達。放課後の自転車置き場。ファミレスの窓に映った積乱雲。
どれも、誰かに見せるつもりで撮った写真ではなかった。
誰かに「すごい」と言われるための写真でもなかった。
けれど、秋雨は言った。
「画面の中に、初夏の光が残っているようですね」
まひるは、そんなことを考えたこともなかった。
ただの駅前。ただのコンビニ。ただの帰り道。
その全部が、秋雨にとっては外の世界だった。
「……変なの」
ぽつりと出た声に、秋雨が顔を上げる。
「やっぱり変、ですか」
「あ、いや。篠宮さんが変って意味じゃないんだ。変なのは……えっと……」
まひるは言い直そうとして、言葉に詰まった。
まひるはすごい写真だと思って、雪が降る春と秋の森、月が二つある夜空、お菓子でできたマンションを見せた。
けれど秋雨は、駅前の横断歩道を見ている。
まひるが何気なく撮った誰に見せるつもりのなかった写真を、大事そうに扱っている。
何が変なのか、まひるにも分からなくなった。
「外の世界って、私のところと似ているようで全然違うんですね」
コンビニの看板を見て、島の商店よりにぎやかだと言った。
本屋の袋を見て、そこにはどんな本が入っているのかと聞いた。
ファミレスの窓に映った雲を見て、外の飲食店にはこんなに大きな窓があるんですねと驚愕した。
「そうかもしれないけど、普通のところの方が多いと思うよ」
そう言いながらも、まひるは一つひとつできるだけ丁寧に答えた。
コンビニはどこにでもある。だけど、学校帰りに寄る店はなんとなく決まっている。
本屋の袋の中身は、たぶん漫画か参考書だった。両方だったかもしれない。
ファミレスの窓は、席によっては外がよく見える。長居するのは店員さんに悪いなと思うけど、友達と話して時間を忘れるのは仕方ない。
まひるはいつもの特異現象の写真を紹介するのとは、違う気持ちになっていた。
すごい写真なら、まだ分かる。
雪が降る春と秋の森。月が二つある夜空。お菓子でできたマンション。
そういう写真を驚かれるのは慣れているし、驚かそうと思っている自分もいた。
だけど、ただの横断歩道やコンビニやファミレスを、こんなふうに見られることには慣れていなかった。
「あっ」
まひるの指が、出てきた写真を飛ばすかどうか悩んで止まった。
画面に映っているのは、駅のホームだった。
駅のベンチから撮られた写真だ。
夕方の光が、ホームの端を斜めに照らしている。
電車はまだ来ていない。
画面の隅に、まひるの靴先が小さく写っていた。
秋雨は、その靴先を見つけて瞬きをした。
「これは、朝倉さんのですか?」
「うん。たぶんそう。撮ろうとして入れたんじゃなくて、入っちゃったやつだ」
「消さなかったんですか?」
「まあ、消すほどでもないって思ったんじゃないかな。電光掲示板見る感じ、電車がすぐに来たんだろうし」
秋雨は、画面の端の靴先を見たまま黙った。
雨音が、広間の外で細く続いている。
まひるは、なんとなく言い訳をしたくなった。
「こういうの、別に誰かに見せるつもりで撮ってないんだよね。日常を記録するって言うと大げさだけど、ちょっと今日あったことを残すだけっていうか」
「日記みたいなものですか?」
「うーん。自分がそこにいたこととか、見たものとか、気になったものとかを気ままにだから、日記ほどすごくないかな」
「日記も別にすごくないですよ。私は日記つけてますけど、朝ご飯美味しかったとか書きますし」
「それにあとで見返すかって言われると、そんなに見返さないし」
言いながら、まひるは自分の声がいつもより小さくなっているのに気づいた。
篠宮さんの日記は、きっと口ではこうでもしっかりしているのだろう。
だから、余計に自分のことが気になった。
特異現象の写真を見せていた時とは違う。
これは鉄板ネタではない。
すごいと言われるためのものでもない。
ただ、自分の中にしまっていたものを、隣から覗かれている。
そう思ったとき、画面を触っていた指がふいに止まった。
「――変な趣味でしょ」
まひるは軽く言ったつもりだった。
もしかしたら苦笑いぐらいは、してしまったかもしれない。
けれど、笑って流せるくらいの声にしたつもりだった。
でも、秋雨はすぐには笑わなかった。
まひるの手元ではなく、画面の中のホームを見ている。
それから、考えるように首を傾けた。
「そうかなぁ……別に、おかしくないと思いますけど」
「そ、そう……?」
まひるは、思ったより変な声が出た。
秋雨は真面目に頷いた。
「なんとなくいいなって思ったものを、こうして写真に残してるんですよね」
「そこまででもないかもだけど」
「別に変でもなんでもないと思います」
「そっ、そっかぁ……」
まひるは画面を見下ろした。
駅のホーム。夕方の光。小さく写った自分の靴先。
さっきまで、ただの失敗写真みたいに思っていた。
けれど秋雨にそう言われると、その靴先まで消さずに残していたことが、急に恥ずかしくなくなった。
まひるは画面から離した方の手で、肩についた髪の先をつまんだ。
跳ねた毛先を指でくるくる回す。
別に、褒められたわけではない。
ただ、おかしくないと言われただけだ。
「朝倉さん?」
呼ばれて、まひるは慌てて手を離した。
「な、なに」
「髪、絡まったんですか」
「え? あ、いや。これ癖なんだ」
秋雨は不思議そうにまひるの髪を見る。
まひるは誤魔化すように指を引っ込め、スマホを持ち直した。
「癖ですか」
「そう。考えごとしてる時とか、たまにやってるみたい。ほら、わたしの髪ってハネてるでしょ? だから、触りやすいんだと思う。無意識にやっちゃうんだ」
「つまり、考えごとをしていたんですね」
「そこだけ拾う?」
「すみません、拾ってはいけないところでしたか」
「あ、いや、ううん。別に謝らなくていいの。ちょっとだけ、びっくりしただけだから」
秋雨は、まひるの髪を見て、少しだけ目元を緩めた。
その顔は、さっきの「生真面目」をわざとらしく繰り返した時と似ていた。
秋雨の表情はまだぎこちない。
でも、まひるの方へと気持ちを向けていた。
まひるは、スイッチを押して、スマホの画面を暗くする。
黒くなったスマホの表面に、自分と秋雨の顔が薄く映る。
外の雨はいつの間にかほとんど止んでいた。
それに気が付かないほど、広間で同じ画面を覗き込んでいた。
数時間前まで、まひるは篠宮秋雨という名前も知らなかった。
雨巫女と呼ばれる同い年の女の子がいる。
そんな説明しか、知らなかった。
その子が、自分の写真を見ていた。
なんでもない写真を、おかしくないと言った。
言葉にならなかったものが、「変」だった感情が、喉の奥でようやく形を持った。
言わないと、どこかへ逃げてしまいそうだった。
だから、まひるは、取り繕わずに吐き出した。
「あのさ」
秋雨がこちらを見る。
「はい」
「わたしたち――友達に、ならない?」




