第3話 外の世界を、覗かせて。
「外の世界?」
「はい」
秋雨は、まひるの返事を待っていた。
急かすでもなく、オウム返しに困るでもなく、ただまっすぐに。
まひるは秋雨がさっきの顔のままだったので、漫画の話の続きかと思った。
「篠宮さんって、もしかして漫画から出てきたの?」
まひるがそう言うと、秋雨は目を丸くした。
「え……? 出てきてませんよ」
「あー……そりゃ、そうだよね。ごめん、言ってみただけ」
「そうですか……」
秋雨は真面目に頷いた。
ただ、冗談が通じなかったのか、通じた上で真面目に返されたのか。
まひるには判断がつかなかった。
けれど、さっきより息がしやすくなった。
少なくとも、雨の話で止まった時よりはマシになった。
まひるは膝の上に置いていたスマホを見下ろした。
紗和と源一郎が戻ってくるまでの時間つぶしにはなるかもしれない。
そう思って、まひるはスマホを開いた。
そこには、雨に霞む鳥居の写真が表示されていた。
止まった雨は、現実の雨よりも静かに見えた。
まひるは何枚か指でスクロールしたあたりで、ふと、秋雨の視線がスマホに向かっていることに気づいた。
秋雨はまひると目が合うと、すぐに顔を引こうとした。
雨巫女の表情ではなく、照れのある女の子の顔になっていた。
まひるはスマホを持ち上げ、画面を秋雨の方に向ける。
「あの、もしかして外の世界って、島の外のこと?」
「あ、はい、そうです」
「なんだ、それなら話が早いね。見る?」
「いいんですか?」
「うん、だって別に減るもんじゃないし」
秋雨は迷ってから、まひるの隣に移動した。
踏み出した時、畳が小さく擦れる音がした。
まひるは秋雨が近くに来ると、着物についた薄い雨の匂いを感じた。
外にいたわけではないのに、秋雨と外の雨を無意識に結びつけていた。
まひるはスマホの画面を秋雨に向けた。
そして、まひるはゆっくりと写真を人差し指で流していく。
まず映ったのは今日の写真。雨の神社。濡れた鳥居。白く霞んだ境内。
それを見て、秋雨はさっきよりもずっと高い声で言った。
「写真だと、少し違って見えますね」
「そう?」
「はい。いつもの場所なのに、知らない場所にいるみたいです」
まひるはその言葉が面白くて、画面を見直した。
スマホを持つ指に力が入った。
自分にとっては、初めての場所。
秋雨にとっては、いつもの場所。
同じ写真なのに、そこに見ているものが違う。
けれど、ふたりとも知らない場所だと思った。
そのことが、不思議とうれしかった。
まひるは、秋雨の方へ画面を傾けた。
秋雨が見やすいように、けれど近づきすぎないように。
そう思って角度を変えたつもりだった。
でも秋雨は、画面を覗き込むために身を寄せてきた。
着物の袖が畳の上を滑る。
その小さい音が、雨音よりもまひるの耳に残った。
「えっと、続けるね」
「はい」
まひるは指先で画面を横へ滑らせた。
次に出てきたのは、船から撮った島の写真だった。雨に霞んだ島影は厳かに見えた。
その次は、甲板の手すりについた水滴。青いポリタンク。紗和の鞄の端が写り込んだ桟橋。
順番に写真が変わるたび、秋雨は一つひとつに質問を重ねていた。
まるで画面の中のものを、ひとつずつ確かめているみたいだった。
まひるは秋雨のことを不思議な子だと思った。
普段、まひるが写真を見せると、最初の何枚かで「へえ」と言われて話題が変わる。
別に、写真を撮ることを変だなんて言われたことはない。
けれど、まひるが何を残したかったのかまで、わざわざ知ろうとする人もいなかった。
「これも船の上ですか?」
「そう。貨物船って初めて乗ったから、なんでも珍しく見えちゃって。まあ、別に、ただの手すりなんだけどさ」
「手すり」
秋雨は画面の中の水滴に顔を寄せ、首を傾げた。
「こういうのも撮るんですね。何かの資料に使うんですか?」
「ううん、なんとなく、撮ってるだけ。どこかに出したり、誰かに見せたりはしてないね」
「それは、私がこうやって見ていても平気なんですか?」
そう聞かれて、まひるは小さく頷いた。
笑われたわけではなかった。
それだけで、まひるの肩から力が抜けた。
「うん。隠してるわけじゃないんだ。ただ、自分の中で終わってるだけっていうか――そうだ」
いつものやつを見せてあげよう。
紗和について行った先で撮った、特異現象の写真を集めたフォルダ。
まひるはそれを見せるのが好きだった。
自慢とは違う。けれど、相手が「すごい」と目を丸くするのを見るのは、正直に言えば気持ちがいい。
自分が見てきたものは、ちゃんと特別なのだと思えるから。
「こういうのが、人に見せる用のやつ」
画面に、森の写真が映る。
ただ、その森は緑色ではなかった。
そこには桜と紅葉が同じ枝に混じり、空から雪が降っている森が映っていた。
ひと目見て、秋雨の目が大きく丸くなった。
「……これは」
「特異現象の保護区域」
「この島みたいな場所、ということですか?」
「うん、そういう感じ。お母さんについて行ったの」
「ここは四季が混ざってるんですね」
「春と秋と冬が、なぜか一緒に来るんだって。夏だけないのちょっと変だよね」
「言われてみれば変、ですね」
秋雨は真面目な顔で頷いた。
その反応が面白くて、まひるは次の写真を出す。
雲ひとつない真っ黒な夜空に、二つの満月がくり抜かれていた。
月は左右にひとつずつあって、どちらも同じ形、同じ明るさをしていた。
空の黒が深すぎるせいか、他に星は見えない。
対になるように、満月だけが浮かんでいた。
「これ、合成じゃないんですか?」
「違う違う、本物。まあ、写真で見ると合成っぽいのもわかるけどね」
「本当に、二つあるんですね」
「あったよ。わたしも実物は一回しか見てないけど、今もあるんじゃないかな」
「これ、朝倉さんが撮ったんですか」
秋雨の声が高くなった。
まひるは得意になりそうになるのを、飲み込んだ。
「お母さんの仕事について行った時にね」
「すごいですね」
「でしょ、夜なのに月明かりだけで全然明るかったんだよ」
まひるは感想を続けたくなるのをぐっと堪えて、次の写真を出す。
出てきたのは、外壁がビスケット、窓枠が飴細工でできた、誰も住めないマンション。
晴れた日の写真だった。空は青く、建物は明るい茶色と透明な色でできている。
遠くから見ると、おとぎ話に出てくるお菓子の家みたいだ。
けれど、近くに写る立入禁止の柵と監視カメラが、現実だと伝えてくれる。
「お菓子の家のマンション……ですか?」
「らしいよ。誰も住めないけど」
「どうしてですか?」
「雨降ると壁がちょっと溶けるんだって。あと、上から下までざーっと雨漏り」
「それは……ちょっとわくわくしましたけど、住めませんね」
秋雨があまりにも真面目に言うので、まひるは笑ってしまった。
秋雨は不思議そうにまひるを見る。
笑われたと思ったのかもしれない。
まひるは慌てて手を振った。
「あ、ごめん。馬鹿にしたんじゃないよ。篠宮さん、返事が真面目だなって思っただけ」
「真面目でしょうか」
「真面目……いや、生真面目……?」
「生真面目……」
「いやいや、そこまで真剣に捉えなくて良いから。わたし、そんなに考えて喋ってないって」
秋雨はその言葉を確かめるように繰り返した。なんだかわざとらしかった。
それがおかしくて、さっきより自然体で笑えた気がした。
まひるは次の写真を探して、画面をスライドさせていった。
海沿いの道路の白線だけが、夜光虫みたいに青く光っている湾岸線。
誰も触れていないのに、朝になるとローテーションで入れ替わる石像たち。
紗和の後ろ姿が小さく写り込んだ、白い観測テントとキャンプごはん。
秋雨はどれにも驚いた。
場所を聞いた。危なくないのか聞いた。
まひるがそこに入れることも、驚いた顔で確かめた。
まひるは答えられる範囲で答えた。
知らないことは知らないと言ったけど、紗和に聞いた話も自分の言葉にして伝えた。
秋雨は、それをひとつずつ受け取る。
まひるは、いつもより口数が増えていた。
指が、次の写真へ進むのを早めた。
やっぱり、この話は受ける。
特異現象の写真は、だいたい誰に見せても反応がいい。
秋雨も例外ではない。そう、思ったとき。
「……今の」
「ん?」
「今の写真、もう一度見てもいいですか?」
秋雨の指が、画面の縁に触れた。




