第2話 泣いたあとの雨巫女
まひるは折り畳み傘を開き、雨音と一緒に船を降りる。
船員の一人が紗和に向かって軽く頭を下げるのが見えた。
「朝倉さん、荷物はあとで拠点の方へ回しておきます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
紗和は慣れた様子で答えた。濡れて滑りやすくなった桟橋の上でも、仕事用の鞄は身体の横にぴたりと付いている。
まひるは制服のスカートを片手で押さえながら、紗和の後ろを歩いた。
桟橋を出ると、すぐに坂道に入った。道はゆるく曲がりながら、家々の間を抜けていく。
古い民家の屋根には雨が薄く煙り、軒下には濡れた網や籠が吊るされていた。
まひるは、知らない場所に来たことを実感する。
ただ、冒険の始まりというより、誰かの日常に足を踏み入れてしまったようだった。
それが不思議だった。
まだ、なにも不思議なことに出会っていないのに、自然とスマホを構えてしまう。
坂道を上がる途中、まひるは何度か立ち止まりそうになった。
濡れた石段。塀の上で丸まっている猫。雨に濃くなった紫陽花の葉。
撮りたいものがいくらでも出てきた。
スマホを持つ指が、何度も画面の端を探った。
けれど、紗和が振り返ったので、まひるはシャッターを押す前にスマホを下ろした。
「写真はあとで撮れるから」
「はーい、分かってるって」
まひるは観光客ではない。それは分かってはいる。
ただ、あとで同じものが撮れるとは限らない。
今この角度で濡れている葉も、猫が尻尾だけを動かした瞬間も、船を降りて初めて見た島も――きっと移り変わる。
それでも、母の仕事についてきている立場で、最初から好き勝手に立ち止まることが違うのはわかる。
だから、まひるはスマホを握り直して、紗和の歩幅に追いついた。
目線だけは、四方八方に動いていた。
しばらく歩くと、道の先に鳥居が見えた。
それは赤というより、雨を吸って暗くなった朱色だった。
鳥居の向こうには石段があり、その上に古い社殿がある。
いずれも新しくはない。
けれど、荒れてはいなかった。
石段の端には落ち葉が寄せられ、手水舎の屋根から落ちる水も、きれいな筋になって石の上を流れている。
「歴史ある建物っぽいけど、思ったより古びてないんだね」
「島のみんなで手入れしてるのよ」
「そっか、大事なとこなんだ」
鳥居の前で紗和が足を止め、軽く頭を下げた。
まひるも踏み出した足を戻して、慌てて真似をする。
そして、石段を上がると、社殿の前に一人の男が立っていた。
年齢は、紗和よりかなり上に見える。
白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、灰色の羽織を着ている。
軒下にいるから濡れてはいなかったが、足元の石畳には雨が細かく跳ねていた。
それを気にする素振りは見えなかった。
男は紗和を見ると、穏やかに目を細めた。
「朝倉紗和さん。遠いところを、ようこそ」
「こちらこそ、お世話になります。夏の間、よろしくお願いいたします」
紗和が仕事の顔で頭を下げる。
まひるも遅れて頭を下げた。
鞄の肩紐がずれて、手前にぶら下がったのを慌てて直す。
男の視線がこちらへ向いた。
「お嬢さんも、よく来てくださいました」
「あ、はい。朝倉まひるです」
「潮見源一郎と申します。ここ雨待島では総代を、雨護神社の管理者も務めております」
「よ、よろしくおねがいします」
「島のことで何かありましたら、いつでもご相談ください。――どうぞ、こちらへ」
総代。紗和から聞かされた、島側の代表のような人。
雨巫女や神社のことにも関わる偉い立場の人。
「あ、はい。ありがとうございます」
まひるは、もう少し怖い人を想像していた。
自分なんか相手にされないと思っていた。
けれど、目の前の総代こと潮見源一郎は、声も表情も穏やかだった。
この島は、知らないことだらけだ。
まひるたちは、源一郎に案内されて社殿の横にある広間へ通された。
そこは畳の匂いがした。
雨の匂いとは違う、木と紙と古い布の匂い。
窓は半分ほど開いていて、外の空気が静かに流れ込んでくる。
そして、その広間の奥に、女の子がひとり正座していた。
まひるは足を止めた。
その子は、白に近い淡い色の着物を着ていた。派手な装飾はない。
その姿勢はまっすぐで凛としていた。指先まできちんと整っている。
落ち着きのない自分とは、真逆の人だと感じた。
低い位置で結われた濡羽色の髪は、肩甲骨のあたりまでありそうだった。
ぱっつんではないけれど、前髪は綺麗に切り揃えられている。
そして、日に焼けにくそうな白い肌の中で、目元の赤みだけがはっきり目立っていた。
(……泣いたあとだ)
それは、見ればすぐに分かった。
だから、この子が母から聞いていた子だ。
けれど、この子はまひるの想像と違い、うつむいていなかった。
多少、泣き疲れているようには見える。
それでも、誰かに会うための顔をちゃんと作っていた。
だから目が合った時、綺麗な子だとまひるは思った。
「篠宮秋雨さんです。当代の雨巫女を務めています」
源一郎がまひるに紹介する。
まひるは頭の中でその名前を繰り返した。
しのみや、あきさめ。
秋の雨。目の前で降っているのは初夏の雨。
だから次の季節は、彼女の雨なんだろう。
ぴったりな名前だと思った。
「はじめまして。篠宮秋雨です」
秋雨は静かに頭を下げた。
声は柔らかかった。
けれど、学校の自己紹介のような気軽さではない。
もっと、場に合わせて整えた声。
事前に用意しておいた、形のある声。
「は、はじめまして。朝倉まひるです」
まひるも慌てて頭を下げた。
全く用意していなかった、その場当たりの声が出た。
秋雨が改めて、軽く頭を下げた。
制服の襟元が少し詰まる。
さっきまで雨で濡れた道を歩いていたはずなのに、広間の空気の方が冷たく感じた。
まひるの目線の先にいるのは、泣くと雨を呼ぶ女の子――雨巫女。
その単語が、目を赤く腫らした一人の女の子と結びつく。
まひるは秋雨の目元を辿りそうになって、慌てて視線を外した。
(じろじろ見るのは、流石に失礼だ)
分かっている。
分かっているのに、気になってしまう。
この島はそればっかりだ。
(この雨、本当にこの子の涙と一緒に降ってきたのかな)
さっきまで泣いていたのか。
何のために泣いたのか。
泣く時、どんな気持ちなのか。
どうして、泣いても平気な顔ができるのか。
聞きたいことが、頭の中にいくつも浮かぶ。
浮かんで、大きくなって、喉奥で弾ける。
そういうことを聞ける関係じゃない。まひるは黙った。
源一郎は挨拶が済んだと判断したのか、紗和へ向き直る。
「細かい話は、こちらで済ませましょう」
「はい」
紗和が頷く。
まひるは当然ついていくつもりで、一歩だけ足を動かした。
「まひるさんは、こちらで待っていてください」
「え」
思わず声が出た。
源一郎は怒ったわけではなく、ただ穏やかにまひるを捉えた。
「若い方同士の方が、気も楽でしょう」
若い方同士という言い方が、まひるには引っかかった。
会ったばかりの相手と二人きりにされて、気が楽かどうかなんて分からない。
そもそも自分は紗和の仕事についてきたのであって、友達作りに来たわけではない。
けれどまひるは、源一郎の言葉に逆らわなかった。
気を使ってくれているのがわかったからだ。
そして、紗和はまひるを見て、目元を緩めた。
「まひる、船旅で疲れているでしょう?」
「そんなことないけど」
「意地っ張りね。でも、篠宮さんはお役目のあとで疲れているでしょうから、二人で少し休むと良いわ」
「……分かった」
紗和が襖を閉めたあと、まひるは秋雨から少し離れた位置に立ったままだった。
襖の向こうで、大人たちの足音が遠ざかっていった。
まひるはスマホの縁を親指でなぞる。
画面は暗い。さっき撮った雨の島も、今は映っていない。
また、大人の話から外された。
そう言葉にしたら子供っぽいから、言わずに口を閉じた。
秋雨はまひるたちのやり取りを黙って見ていた。
ただ、源一郎が「若い方同士」と言った時に、一度だけまばたきをしていた。
広い畳の部屋に、まひると秋雨だけが残されている。
頭が冷えてくると、まひるは、座っていいのか、どこに座ればいいのか、そもそも何を話せばいいのか――口を開くきっかけがないことに気付いた。
まひるは迷うように視線を動かしていると、秋雨が前に置かれた座布団を示した。
「よかったら、そちらに」
「あ、うん。ありがとう」
広間の畳は冷たかった。
濡れた靴下ではないはずなのに、雨の気配が足元にまとわりつく。
まひるは座布団に腰を下ろした。
秋雨が正座だったので、自然と慣れない正座で座る。
目の前の秋雨は、やっぱり背筋を伸ばしている。
同い年、と紗和は言っていた。
けれど秋雨は、まひるより大人びて見えた。
着物のせいか、姿勢のせいか。
それとも、目元が赤いのに泣き言ひとつ言わないせいかは分からない。
まひるは居心地の悪い沈黙が苦手だった。
だからせめて、何か話そうと口を開いた。
「えっと……」
「はい」
「……雨、すごいね」
「ええ」
言ってから、しまったと思った。
初対面で天気の話題は微妙だと、クラスの人が言っていた気がする。
しかも、雨巫女に向かって、最初に言うことがそれなのか。
まひるは自分が選択肢を間違えたことを即座に悔やんだ。
秋雨は膝の上の指を揃え直した。
怒っているようには見えなかった。
でも、返事を選んでいるような、短い間があった。
「そうですね。今日は、よく降っています」
「だよね」
会話が終わった。
終わってしまった。
まひるは頭を抱えたい気持ちを抑え、膝の上で指を組んだり解いたりした。
一つ解くたびに、疑問が一つ生まれる。
聞きたいことはたくさんある。
けれど、どれを聞いても無礼、なんだと思う。
紗和に失礼のないようにと言われたばかりだし、それに目の前の秋雨は泣いたあとだ。
気持ちが落ち着いているように見えるのは、見た目だけかもしれない。
それでも、このまま黙っているのは気まずい。
まひるは自分を律する心と好奇心で板挟みになっていた。
せめて、当たり障りのない会話から入りたい。
まひるは部屋の中を見回した。
整った広間には物が少なかったが、隅に低い棚があった。
そこには湯呑みや折りたたまれた布のほかに、何冊かの本が重ねられている。
一冊、たまたま表紙がこっちを向いていた。
表紙には、制服姿の女の子が空を見上げている絵が描かれていた。
タイトルに涙の粒みたいな装飾がある、泣けることで有名なやつだ。
隣の本も、そのまた隣の本も、すべてを知っているわけではなかったが、どこかしっとりとした雰囲気の作品が多いのはわかった。
まひるの視線を追ったのか、秋雨が肩を揺らした。
「……漫画、好きなの?」
まひるが聞くと、秋雨は一瞬だけ返事に詰まった。
「……少し、読みます」
「そうなんだ、なんか、感動するやつが多い気がするね」
「そうですね。感動するやつ、です」
秋雨の返事は丁寧だった。
丁寧だけれど、壁がある印象を受けた。
まひるは、自分がまた変な聞き方をしてしまったのかと思った。
畳の上で、秋雨の袖がかすかに擦れた。
そして、ぽつりと言った。
「朝倉さん」
「はい」
まひるは秋雨の方を向いた。
「外の世界って、どんな感じなんですか?」




