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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第1章 雨巫女さまの、秋雨ちゃん。
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第1話 雨を待つ島へ

 朝倉(あさくら)まひるは初めて、泣くと雨を呼ぶ女の子と出会った。


 古い神社の広間で、その子は背筋を伸ばして座っていた。

 白に近い淡い色の着物。

 低い位置で結われた濡羽色の髪。

 切り揃えられた前髪の下で、黒い目だけが静かにこちらを向いている。

 目元が赤い。泣いた後だと一目で分かった。

 けれど、泣き崩れた様子ではなかった。

 むしろ、誰かに見られることに慣れているような顔だった。

 その涙は、まひるの知っている涙とは違う。そんなふうに思った。


 外では、まだ雨が降っている。

 軒先から落ちる水滴が、石畳を小さく叩く。

 葉の先から滑った雨粒が、ぽつり、ぽつりと遅れて落ちる。

 遠くの木々は白く煙っていて、境内の奥にある鳥居の赤だけが、雨の中で浮いて見えた。


 まひるは、その子を見ていた。

 その子も、まひるを見ていた。


 まひるは何か言わなければ、と思った。

 けれど、目の前の雨音が静かすぎて、喉元まで来た声は形にならなかった。



 二時間ほど前、まひるは船の上でスマホを構えていた。

 まひるが乗船しているのは、遊覧船ではなく貨物船。

 客席の一つもないため、波風に当たりながら甲板を歩き回っていた。

 甲板の端には銀色のコンテナがいくつも積まれ、濡れたロープが太い蛇みたいにまとめられている。

 船員たちは短い言葉で荷物の位置を確認しながら、慣れた手つきでそれらを固定していた。


 まひるは制服のスカートの裾を気にしながら、手すりについた水滴をスマホのカメラで撮った。

 次に、甲板の隅に置かれた青いポリタンクを撮った。

 それから、曇った海と、まだ輪郭のぼやけた島影を撮った。

 写真を撮る時、まひるは正確な構図を考えない。

 仮に綺麗に撮れても共有することが目的ではない。

 まひるはただ、その時そこにあったものを残しておきたかった。

 今日、自分はここにいたということを。


 カメラのレンズが捉えた手すりに、雨粒がついていた。

 無加工の海は青というより黒い色をしていて、雨が降る島へ向かう船の床は、もう滑りそうだった。

 そういうなんでもないことを、あとで忘れないようにしておきたかった。

 それ以上の意味なんて、考えたこともなかった。


 船室の影に寄って、スマホの画面越しに海を覗いていると、後ろから声をかけられた。


「今日は多いのね」

「なにが?」

「写真。いつもなら一、二枚じゃない? それなのに、今日はあっちへ行ってぱしゃり。こっちへ行ってぱしゃり」


 まひるの母、朝倉(あさくら)紗和(さわ)が船室の入り口近くに立っていた。

 紺色の薄いレインコートを羽織って、片手には仕事用の鞄を持っている。

 まひるより少し暗い茶色の髪は、低い位置でひとつにまとめられていた。

 風で乱れた毛先を耳にかける仕草は柔らかい。

 けれど、茶色の目は、まひるのことを落ち着いて見ている。

 まひるは画面を伏せるように胸元へ寄せた。


「あ……あはは。浮かれてるのかな、わたし」

「そういうことにしておきましょうか」

「しておきたい顔でもしてた?」

「緊張しなくても大丈夫よ。今回の場所は、人に害をなすような怖いところじゃないから」

「いや、怖がってるとかじゃないんで」

「あら、そう?」

「別に。船に乗るの、久しぶりだっただけ」

「なら、そういうことにしておこうかしら」


 まひるは、その言い方が気に入らなかった。

 母はいつもそうやって先に答えを決めつける。

 まだ言葉にしていないものまで、分かったような顔でぼかしてしまう。


「そういうこと、ってどういうこと?」

「まひるが勝手に冒険にしなければ、安全ってこと」


 まひるの母は特異現象保護官とくいげんしょうほごかんだ。

 この世界には、ときどき常識から逸脱した場所がある。

 夜だけ水面が光る湖。

 毎日同じ時間に同じ形の霜が降りる畑。

 近づくとあらゆる時計が止まる塔。

 そういうものを特異現象と呼んだ。

 そして、それを調べ、守り、そこに暮らす人たちと外の制度との間を繋ぐのが、母の仕事だった。


 ――今回の場所は怖くない。

 それはつまり、怖い場所もあるということだ。

 そういう場所には、まひるは連れて行って貰えない。

 危ないから。子供だから。まだ早いから。

 大義名分には事欠かない。

 理由は分かる。けれど、理解と納得は別だった。


「で、何の話なのさ」


 まひるはスマホを握ったまま、唇を尖らせた。

 まひるは母の仕事そのものを全部理解しているわけではない。

 報告書の書き方も、行政との調整も、研究者との会議も、母越しの説明ですら眠たくなる。

 けれど、特異現象のある場所へ向かう母の背中を見るのは好きだった。


「傘、持った?」

「折りたたみなら」

「話をちゃんと聞いていたみたいで何よりね」

「いや、いつもカバンに入ってる」

「……これから向かう島は、雨の多い島なのよ」

「雨だけでしょ?」

「まあ、それはそうなんだけどね……気にしすぎかしら」

「またそうやって意味深なことだけ言う」


 この世界には、自分の知らない不思議がまだある。

 そう思えることが、まひるは好きだった。

 だから今回、夏休みのあいだ母が島へ赴任すると聞いた時、まひるは自分も行きたいと言った。

 父は母の言うことを聞くならと送り出してくれた。

 母は一晩考えたあと、危険な場所ではないからと承認した。

 許可は降りた。けれど、まひるは、自分の基準が安全に置かれていることが、気に入らなかった。


 甲板の向こうで、船員の一人が声を上げた。もうすぐ到着らしい。

 まひるはもう一度スマホを構えた。

 肩につくくらいの明るい茶髪が、風で頬にかかる。

 跳ねた毛先を払いながら、まひるは画面の中に島影を収めた。


 海の先に、低い島影が見えている。島の上だけ、雲が濃かった。

 空から垂れた灰色の布みたいに、雨の筋がそこへ降りている。

 

 まひるはシャッターを切った。

 画面の中で、雨に霞む島影が淡く浮かんだ。

 紗和が隣に立つ。


「あの島に、雨巫女(あめみこ)って子がいるの?」


 まひるが聞くと、紗和は島の方を見たまま、短く頷いた。


「ええ。今の雨巫女は、あなたと同い年よ」

「へぇー、なんか意外」

「会ったら、失礼のないようにね」

「分かってるって」


 まひるはぶっきらぼうに、そう答えた。

 けれど、胸の中では別の言葉が跳ねていた。

 泣くと雨を降らせる子――雨巫女と呼ばれる子。

 特異現象の中心にいる、同い年の女の子。


 母の仕事の先にいるのは、いつも大人だった。

 研究者だったり、役所の人だったり、島や町の代表者だったりした。

 まひるはその輪の外で待たされることが多かった。


 でも、今回は違うかもしれない。

 まひるは、そう期待している自分に気づかないふりをした。

 まひるは視線を落とし、スマホの画面を開いた。

 雨に霞む島の写真は、手ぶれしていた。

 それでも消さずに、保存した。


 船が桟橋に近づくにつれて、波より雨の方が聞こえてきた。

 最初は海に落ちる細い線だったものが、次第に船体の屋根を叩く音に変わっていった。

 甲板に積まれたコンテナの角を濡らし、まひるのローファーの先に小さな水たまりを作った。


 船を降りる前から、島の静けさは伝わってきた。

 観光地なら、船を降りた瞬間に看板や土産物屋、どこか浮ついた声が出迎えてくれるのかもしれない。

 けれど、桟橋にあったのは、濡れた木の匂いと雨が混ざった潮の香り。

 荷下ろしを急ぐ船員たちの短い声と、坂道の先へ続く細い舗装路だけだった。


 まひるは甲板で、もう一枚写真を撮った。

 桟橋の先。雨に霞む島の道。それと、画面の端に、紗和の紺色のレインコートが写り込んでいた。

 まひるはそれを見て、指を空中で迷わせてから、そのまま画面を閉じた。

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