第1話 雨を待つ島へ
朝倉まひるは初めて、泣くと雨を呼ぶ女の子と出会った。
古い神社の広間で、その子は背筋を伸ばして座っていた。
白に近い淡い色の着物。
低い位置で結われた濡羽色の髪。
切り揃えられた前髪の下で、黒い目だけが静かにこちらを向いている。
目元が赤い。泣いた後だと一目で分かった。
けれど、泣き崩れた様子ではなかった。
むしろ、誰かに見られることに慣れているような顔だった。
その涙は、まひるの知っている涙とは違う。そんなふうに思った。
外では、まだ雨が降っている。
軒先から落ちる水滴が、石畳を小さく叩く。
葉の先から滑った雨粒が、ぽつり、ぽつりと遅れて落ちる。
遠くの木々は白く煙っていて、境内の奥にある鳥居の赤だけが、雨の中で浮いて見えた。
まひるは、その子を見ていた。
その子も、まひるを見ていた。
まひるは何か言わなければ、と思った。
けれど、目の前の雨音が静かすぎて、喉元まで来た声は形にならなかった。
◆
二時間ほど前、まひるは船の上でスマホを構えていた。
まひるが乗船しているのは、遊覧船ではなく貨物船。
客席の一つもないため、波風に当たりながら甲板を歩き回っていた。
甲板の端には銀色のコンテナがいくつも積まれ、濡れたロープが太い蛇みたいにまとめられている。
船員たちは短い言葉で荷物の位置を確認しながら、慣れた手つきでそれらを固定していた。
まひるは制服のスカートの裾を気にしながら、手すりについた水滴をスマホのカメラで撮った。
次に、甲板の隅に置かれた青いポリタンクを撮った。
それから、曇った海と、まだ輪郭のぼやけた島影を撮った。
写真を撮る時、まひるは正確な構図を考えない。
仮に綺麗に撮れても共有することが目的ではない。
まひるはただ、その時そこにあったものを残しておきたかった。
今日、自分はここにいたということを。
カメラのレンズが捉えた手すりに、雨粒がついていた。
無加工の海は青というより黒い色をしていて、雨が降る島へ向かう船の床は、もう滑りそうだった。
そういうなんでもないことを、あとで忘れないようにしておきたかった。
それ以上の意味なんて、考えたこともなかった。
船室の影に寄って、スマホの画面越しに海を覗いていると、後ろから声をかけられた。
「今日は多いのね」
「なにが?」
「写真。いつもなら一、二枚じゃない? それなのに、今日はあっちへ行ってぱしゃり。こっちへ行ってぱしゃり」
まひるの母、朝倉紗和が船室の入り口近くに立っていた。
紺色の薄いレインコートを羽織って、片手には仕事用の鞄を持っている。
まひるより少し暗い茶色の髪は、低い位置でひとつにまとめられていた。
風で乱れた毛先を耳にかける仕草は柔らかい。
けれど、茶色の目は、まひるのことを落ち着いて見ている。
まひるは画面を伏せるように胸元へ寄せた。
「あ……あはは。浮かれてるのかな、わたし」
「そういうことにしておきましょうか」
「しておきたい顔でもしてた?」
「緊張しなくても大丈夫よ。今回の場所は、人に害をなすような怖いところじゃないから」
「いや、怖がってるとかじゃないんで」
「あら、そう?」
「別に。船に乗るの、久しぶりだっただけ」
「なら、そういうことにしておこうかしら」
まひるは、その言い方が気に入らなかった。
母はいつもそうやって先に答えを決めつける。
まだ言葉にしていないものまで、分かったような顔でぼかしてしまう。
「そういうこと、ってどういうこと?」
「まひるが勝手に冒険にしなければ、安全ってこと」
まひるの母は特異現象保護官だ。
この世界には、ときどき常識から逸脱した場所がある。
夜だけ水面が光る湖。
毎日同じ時間に同じ形の霜が降りる畑。
近づくとあらゆる時計が止まる塔。
そういうものを特異現象と呼んだ。
そして、それを調べ、守り、そこに暮らす人たちと外の制度との間を繋ぐのが、母の仕事だった。
――今回の場所は怖くない。
それはつまり、怖い場所もあるということだ。
そういう場所には、まひるは連れて行って貰えない。
危ないから。子供だから。まだ早いから。
大義名分には事欠かない。
理由は分かる。けれど、理解と納得は別だった。
「で、何の話なのさ」
まひるはスマホを握ったまま、唇を尖らせた。
まひるは母の仕事そのものを全部理解しているわけではない。
報告書の書き方も、行政との調整も、研究者との会議も、母越しの説明ですら眠たくなる。
けれど、特異現象のある場所へ向かう母の背中を見るのは好きだった。
「傘、持った?」
「折りたたみなら」
「話をちゃんと聞いていたみたいで何よりね」
「いや、いつもカバンに入ってる」
「……これから向かう島は、雨の多い島なのよ」
「雨だけでしょ?」
「まあ、それはそうなんだけどね……気にしすぎかしら」
「またそうやって意味深なことだけ言う」
この世界には、自分の知らない不思議がまだある。
そう思えることが、まひるは好きだった。
だから今回、夏休みのあいだ母が島へ赴任すると聞いた時、まひるは自分も行きたいと言った。
父は母の言うことを聞くならと送り出してくれた。
母は一晩考えたあと、危険な場所ではないからと承認した。
許可は降りた。けれど、まひるは、自分の基準が安全に置かれていることが、気に入らなかった。
甲板の向こうで、船員の一人が声を上げた。もうすぐ到着らしい。
まひるはもう一度スマホを構えた。
肩につくくらいの明るい茶髪が、風で頬にかかる。
跳ねた毛先を払いながら、まひるは画面の中に島影を収めた。
海の先に、低い島影が見えている。島の上だけ、雲が濃かった。
空から垂れた灰色の布みたいに、雨の筋がそこへ降りている。
まひるはシャッターを切った。
画面の中で、雨に霞む島影が淡く浮かんだ。
紗和が隣に立つ。
「あの島に、雨巫女って子がいるの?」
まひるが聞くと、紗和は島の方を見たまま、短く頷いた。
「ええ。今の雨巫女は、あなたと同い年よ」
「へぇー、なんか意外」
「会ったら、失礼のないようにね」
「分かってるって」
まひるはぶっきらぼうに、そう答えた。
けれど、胸の中では別の言葉が跳ねていた。
泣くと雨を降らせる子――雨巫女と呼ばれる子。
特異現象の中心にいる、同い年の女の子。
母の仕事の先にいるのは、いつも大人だった。
研究者だったり、役所の人だったり、島や町の代表者だったりした。
まひるはその輪の外で待たされることが多かった。
でも、今回は違うかもしれない。
まひるは、そう期待している自分に気づかないふりをした。
まひるは視線を落とし、スマホの画面を開いた。
雨に霞む島の写真は、手ぶれしていた。
それでも消さずに、保存した。
船が桟橋に近づくにつれて、波より雨の方が聞こえてきた。
最初は海に落ちる細い線だったものが、次第に船体の屋根を叩く音に変わっていった。
甲板に積まれたコンテナの角を濡らし、まひるのローファーの先に小さな水たまりを作った。
船を降りる前から、島の静けさは伝わってきた。
観光地なら、船を降りた瞬間に看板や土産物屋、どこか浮ついた声が出迎えてくれるのかもしれない。
けれど、桟橋にあったのは、濡れた木の匂いと雨が混ざった潮の香り。
荷下ろしを急ぐ船員たちの短い声と、坂道の先へ続く細い舗装路だけだった。
まひるは甲板で、もう一枚写真を撮った。
桟橋の先。雨に霞む島の道。それと、画面の端に、紗和の紺色のレインコートが写り込んでいた。
まひるはそれを見て、指を空中で迷わせてから、そのまま画面を閉じた。




