目に見えることがすべてではないのです
ヴァクテイン王国軍の歓声を遠くに聞きながら、彼は踵を返した。
漆黒の肌に六枚の翼。体の中央から左右に割るように痛々しい亀裂が走っている。
魔王ラウエル。彼は生きていた。
危ないところだった。
もう一瞬遅れていたら、勇者の振るった斬撃は、彼の命を刈り取ったことだろう。
気づいた瞬間に逃げに転じたからこそ、間に合ったのだ。
魔王ラウエルは用心深い。勇者を打倒してから、14年間待ち続けただけのことはある。
自らの偽物を作り、自身はその影に身を潜めていたのだ。だが、勇者の一撃はその影の中の本体すら斬った。
まさか生きていたとはな。
しかも、今の今まで待ち続けるとは。
怒りや憎しみよりも称賛の念が湧いた。
だが、と魔王の顔に笑みが浮かぶ。
今度は立場が逆転した。
魔王を滅ぼしたと油断した勇者を、もう一度殺してみせよう。
どのようにして蘇ったのか、その秘密を解き明かす必要もある。
勇者への対策はすでにできている。ステータス値は大幅に相手が上回っているが、一対一で戦っても、負けることはない。
完全奇襲型。
それが七代目の勇者ルーシフォスだ。ピーク時のステータス値は歴代最強。だが、その分、継戦能力に難がある。
奇襲速攻で敵を倒す。それが今回の勇者の必勝戦法なのだ。
それを把握していれば、勇者への対策は簡単だ。
回避と防御に徹すれば、時間とともに勇者の力は減っていく。そこで攻勢に転ずればいい。
以前のように眷属を盾にして逃げ続ける手もある。
「束の間の勝利の美酒に酔うとよい。勇者よ」
魔王ラウエルは一人つぶやくと、足元に大きな光り輝く魔法陣を展開した。
ともかく今は傷を癒すことが先決だった。
王都の地下深くに作った地底城に身を隠し、回復を待つ。
と、魔法陣が落としたガラスのように割れた。
何が起こったかを把握する前に、魔王ラウエルの耳に女の声が飛び込んできた。
「ほらあ、言った通りでしょうが。母さんの言った通りでしょうが。分かってたんだから。ちゃんと分かってたんだからね、私」
少し焦ったような声だった。
「いや、さっきまで青ざめてたじゃん。やべ、ルシディア様に怒られる、とか言ってたじゃん」
少年の声。
目の前に二人の人間が立っていた。
一人は白いローブを着た女だ。黒髪黒目。肌の色と顔立ちを見るに、東方の者だろう。
ロベリアンネが自身の眷属に与える、白い祝福のローブを身に着け、メイスを手に持っている。
もう一人は十代半ばと思しき少年。
こちらも黒髪黒目だが、女のような東方の雰囲気はない。
さして高価そうではない剣に革鎧。駆け出しの冒険者といった風体だ。
ルースを追って魔王討伐についてきた、フラワとザックである。
魔王ラウエルは以前フラワを目にしているし、ザックは勇者ルーシフォスによく似ている。
それでも、即座にそこに思い至らなかった。
それどころではなかったのだ。
「な、なんだ、貴様らは……」
魔王ラウエルの目には、フラワとザックのステータスが見えている。
フラワのそれは、魔王どころか、ピーク時の勇者ルーシフォスさえ軽く凌駕していた。
「初めまして、勇者の妻です」
言って、フラワはザックを見た。
「ほら、あんたも」
「別にいいだろ、挨拶とか。さっさと倒そうぜ」とザック。
「もう、ノリの悪い息子で、すいません。ちょっと人見知りでシャイなんですよね」
そうしている間にも、魔王ラウエルは、いくつかの方法で離脱を試みていた。7回も魔王をやっているだけあって、彼は実に様々なスキルを身に着けていた。
だが……。
「あ、私の近くでスキルは使えませんよ。私、反スキルってスキル持ってまして。自分より【精神力】の低い相手のスキルを封じちゃうんですよ」
ちなみに、夜な夜なレベルアップに励んでいた今のフラワの【精神力】は、40億に達する。
「ついでに体も動かないと思いますよ。心手で押さえてますから」
フラワの言う通りだった。魔王ラウエルは先ほどから身動きひとつできない。
「あとあと、ここから半径1キロに、物理結界と精神結界も張ってるので、助けも呼べないですよ」
「どれだけ準備してんだよ」
ザックが呆れた顔をする。
「夫を影で支える、それが妻の役目です」
胸をそらして威張る。
「じゃあ、やっちゃうよ。いいんだろ」
ザックが剣を抜いた。
彼の体が黄金の光をまとう。
ひっ、と魔王ラウエルは屈辱的な悲鳴を口から漏らしてしまった。
ザックのステータス。それは全てにおいて魔王よりも4桁ほど上回っていた。
それはもはや、神々に比肩する数値だった。
「おお、最初で最後の勇者化。母さん、あんたの勇姿を目に焼き付けておくわ」
「いいから、そういうの」
勇者ザックが軽く剣を振った。
そのあまりの速度に強風が巻き起こり、衝撃で大地が割れる。
魔王ラウエルは、勇者ルーシフォスの斬撃で受けた傷の上に、さらなる一撃を受けて、今度こそ、二つに割れた。
その体は、黒い塵にすらならず、ただ光の粒子となって、宙に溶けた。
「これでいいの?」
ザックが母を振り返る。
あまりにも呆気なさ過ぎて、逆に心配になったのだ。
「ちょっと待って。ルシディア様に聞いてみる。あっ、オッケーだってさ。お疲れ様」
フラワは、ほうっと息を吐いた。
「はあ、無事に終わって良かったよ。まさか、いきなり魔王がヴァクテイン王国軍のところに来るなんてさ。思わないじゃんね」
魔王とぶつかるのは、まだ先だろうと思い、近くの町に寄り道していたのだ。そうしたら、ルースが勇者化したことを印感知で知り、大急ぎで駆けつけたのである。
「じゃあ、早く帰ろうぜ。父さんの先回りしないといけないんだろ?」
「なんか、もっとカタルシス的なのないの? 魔王を倒したのよ」
「知らないよ」
言った後に、ザックは大あくびをした。
まとっていた黄金の光はすでに消え、代わりに、急激な眠気が訪れていた。
「あっ、寝てっていいわよ。母さんおぶってってあげるから」
「もう子供じゃないって。ああ、眠い」
口を押さえて、あくびを噛み殺す。
「ほらほら。母さんの背中に乗りなさいよ。心地いいぞ。安心するぞ」
フラワはザックの前に回り込むと、かがんで、乗れ乗れとアピールした。
「う、うぜえ」
「あっ、出た。十代の男の子が言いそうな言葉。いやあ、ザックも、うぜえ、とか言うようになっちゃったんだね。うるせえ、とか言っちゃう? 産んでくれって頼んだわけじゃない、とか言っちゃう? 親に冷たくするのがカッコいいとか思っちゃう?」
「……もういい。眠いから、寝るよ」
言ってザックはフラワの背におぶさった。
フラワは息子を背負って、よしっ、と気合を入れると、走り出した。
土煙をあげながら。
さて、そこから10キロほど離れた荒野。
ヴァクテイン王国軍とルースが、魔王と戦った場所。
そこでは、眠る勇者を丁重に荷車に乗せ、撤退の支度がされていた。
勝利の凱旋である。
すでに西方から北上しているルシディア教皇国軍へ向けて、早馬が出されている。
もちろん本国にも、各王国軍にもである。
◇
魔王討伐なる、の報は、瞬く間にガルレムト周辺諸国に広まった。
大都市はもちろん、小さな村にまでその喜ばしい報せは届けられ、あらゆる人々が祝杯を上げた。
だが、魔王を倒した勇者ルーシフォス・バックネットは、凱旋するヴァクテイン王国軍の中から、忽然と姿を消した。
以後、彼が歴史の表舞台に立つことはなかった。
勇者ルーシフォス・バックネットには、褒美に贈られる名誉も財宝も不要だった。
彼はただ、自分の帰りを待つ、妻と子供たちに早く会いたかった。
自分がしっかりと役目を果たせたことを。
これからの人生を心置きなく楽しめることを喜びながら。
ともすれば、その足は早まり、いつの間にか駆け出している。
長い長い道のりだったが、体は軽く、心はもっと軽かった。
やがて、ルースは帰ってきた。
坂道を上り、木々が割れたその先の平原。
天にそそり立つ巨木の下の家。
その庭先で、家族が待っていた。
ルースに気づき、妻フラワが手を振る。
ルースは走った。
駆け寄り、妻を抱きしめる。
「ただいま、フラワ」
「おかえりなさい。旦那様」
勇者ルーシフォスはこの先も知ることはない。
彼の妻と息子が魔王ラウエルに止めをさしたことを。
ただ、もし、ルーシフォスが、それを知ったとしても、彼は大して気にはしなかっただろう。
「やっぱり、フラワはすごいな」
そんな風に、愛する妻のことを誇りに思ったことだろう。
これにて完結です。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
そして、今回はひと言。
ねっ、恋愛小説だったでしょう?
……恋愛小説でしたよね。
恋愛小説だったはずだ。たぶん。
ジャンルが違うと言われたらヤダなあ、と思い、異世界恋愛ではなくハイファンタジーにした小心者です。
では、また次の小説で。




