第八話 ここは俺に任せて先に行け
戦闘は、始まった瞬間から圧倒的だった。
こちらが押されている、という意味で。
「みんなみんな死ぬんだああああ!!」
最初に動いたのはナシヌンダだった。恐怖が臨界を超えた瞬間、この人は暴発する。
杖を振りかざし、火球、氷槍、雷撃、風刃——属性を問わない魔法の乱射が始まった。
空が染まる。地面が抉れる。
凄まじい火力だ。合流してよかった、と一瞬だけ思った。
その全てが、マホキカンのバリアの前で消えた。
火球は掻き消え、氷槍は溶け、雷撃は吸い込まれ、風刃は凪いだ。
マホキカンは腕一本動かしていない。
ただ立っているだけで、あらゆる魔法が無効化されている。
「効かんなぁ」
マホキカンが笑った。名前通りの台詞だった。
合流してよかった、と思った気持ちを返してほしい。
ナシヌンダの火力に問題はなかった。マホキカンの耐性が問題なのだ。
だが、ナシヌンダは止まらない。止まれないのだ。
パニックが魔法を撃たせ、魔法が通らないことがさらにパニックを加速させる。
悪循環。MPが目に見えて減っていく。このままでは——。
「ナシヌンダさん、一旦止まって! あいつに魔法は効かない!」
私の声は届かなかった。「みんな死ぬんだ」の絶叫にかき消された。
そのとき、アッシマッタの強弓がマホキカンを貫いた。
「あっ、しまった」
アッシマッタは、短くそれだけ漏らし、あとは沈黙していた。
圧倒的な破壊力の強弓。だが、マホキカンは杖でその矢を受けていた。
「危ないところだ……」
致命的な攻撃ミス。
マホキカンは、自らの魔力を高めた。
辺りに豪風が吹き荒れ、マホキカンの魔法とアッシマッタの矢を押し戻した。
別の方角で、乾いた音が連続した。
ハズレネーの矢だ。
百発百中。名前の通り、一本たりとも外さない。弦が鳴るたびに矢が飛び、その全てがサイ・キョウの急所に吸い込まれていく。額、喉、関節の隙間——狙いは完璧だった。
だが、通らない。
矢がサイ・キョウの装甲に当たるたび、金属のような音が響き、矢が砕ける。当たっている。確実に当たっている。でも一ミリも貫通しない。
ハズレネーが舌打ちした。珍しいことだ。この人はいつも淡々としている。百発百中であることに感情を挟まない人が、初めて感情を見せた。
最前線でサイ・キョウと対峙していたのは、ココハオレニーだ。
大盾を構えて、相手の攻撃を封じている。
「ここは俺に——」
「言わないでください!!」
私が叫んだ。「ここは俺に任せて先に行け」——その台詞は、この人の運命そのものだ。
死亡フラグが成立する。それだけは絶対に言わせてはいけない。
ココハオレニーは口をつぐんだ。つぐんで、歯を食いしばって、盾を押し返す。みんなやれば出来る。
サイ・キョウの拳が盾を打った。
轟音。地面に亀裂が走った。蜘蛛の巣のように、放射状に。ココハオレニーの足が地面にめり込んでいる。腕が震えている。盾が軋んでいる。
一撃でこれだ。二撃目に耐えられるか分からない。
タイキは——その隣で戦っていた。必死に。剣を振り、回り込み、隙を探している。
大器晩成。その名前が示す通り、この人はいつか大物になる。いつか。でも今ではない。
今はまだ、四天王の前では力不足だった。
サイ・キョウの腕の一振りで吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。
「ぐっ——!」
起き上がる。折れていない。心が折れていない。
それだけで十分な素養だった。
でも十分であることと、足りていることは違う。
セーケンガは素手でウラギールと対峙していた。
「おのれ、仲間を裏切り魔王軍につくとは、恥を知れ!」
「ふっ、仲間などという幻想に振り回されるほど愚かではないのでござる」
聖剣が抜けます——それがセーケンガの運命だ。
聖剣はいずれ抜ける。でもまだ抜けていない。
今のセーケンガは、鍛え抜かれた体術だけで戦っている。
拳と蹴りでウラギールの短剣を捌き、的確に反撃を加えている。
上手い。上手いが、決定打にならない。
勇者オイダ・シータは前線でサイ・キョウに斬りかかっていた。
勇者の名は伊達ではない、この中では彼が最も戦闘能力が高い。
「でやぁあああっ!」
勇者の剣が装甲を叩く。火花が散る。何度も何度も斬りつける。気合いは十分だ。技量も悪くない。
でもサイ・キョウの防御力914の前では、勇者の剣ですら表面を削るのがやっとだった。
圧倒的だった。
タテル兄さんがいれば。ヨメさんがいれば。
そう思いかけて、振り払った。
いない人のことを数えても仕方がない。
私の手の中で、赤ペンが微かに光っていた。
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——ピンチのようだな。
声が、頭の中に響いた。
ステータス画面の端に、見覚えのあるフォントでテキストが表示されている。翻訳神だ。こういうときだけ出てくる。
「見てたなら助けてよ」
私は小声で返した。戦闘の喧噪の中、誰にも聞こえない程度の声量で。
——俺に戦闘能力はない。表示を変えることしかできん。それは知ってるだろう?
知ってる。この神は無力だ。
ステータスの「表示」をただ翻訳するだけの存在。
原文を書き換えることはできない。
ステータスの数値を改ざんすることはできない。
——だが、一つ教えられることがある。
「何」
——魔族の名前は、変えられるかもしれない。
手が止まった。
「うそ……変えられるの?」
名前は変えられない——それが、私の知っているこの世界のルールだった。
名前は運命神が付与したもので、絶対不変だ。
村の名前も、人の名前も。
その名称に応じて、加護神が加護を与える指標となるものだからだ。
赤ペンで表示を変えることはできても、名前そのものを書き換えることはできない。
そう思っていた。
——魔族は運命神から嫌われている。
「……えっ?」
——魔族の名前に対する管轄は、制度上は存在するが、実質的に誰も担当していない状態だ。
どうやら、神の加護とは表面上は平等に見えて、裏では複雑な内部事情があるらしい。
「要するに、赤ペンで名前を修正したら……通るってこと?」
——名前変更の稟議書を提出した場合、承認すべき神がいない。承認者が不在の申請は——
「——自動承認される」
言ってしまってから、既視感に襲われた。
自動承認。承認者不在で、自動承認。
前世で見た。
総務部の山田さんが産休に入ったとき、引き継ぎが不完全で、山田さん承認フローの稟議が全部自動承認になった。
備品購入申請が青天井になって、営業部が高級コーヒーメーカーを三台買った。
あのときの部長の顔を、私は今でも覚えている。
「……前の職場でもあったわ、そういうの」
——元OLの経験が活きたな。
「活きてほしくなかった」
心の底からそう思った。組織のバグが異世界の神のシステムにもある。
稟議フローの穴が世界の根幹に存在するなんて、思いたくなかった。
でも——使えるものは使おう。
それもまた、OL時代に学んだことだ。
私は赤ペンを握り直した。光が強くなる。ステータス画面が私の前に展開される。
戦場の真ん中で、私は校正作業を始めた。
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まず、マホキカンだ。
理由は明確だった。こちらの最大火力であるナシヌンダの魔法を完全に封じているのがこいつだ。
こいつさえ落とせば、ナシヌンダの魔法が通るようになる。
赤ペンでマホキカンのステータスを開く。
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【マホキカン(運命:「魔法効かん」あらゆる魔法が効かない)】
【種族:魔族】
【魔力耐性:完全無効】
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赤ペンの先端が光り、文字の上に朱色の線が走った。
元の文字が取り消され、その上に新しい文字が書き込まれていく。
「キカン」→「キーク」
校正完了。名前変更承認プロセスが自動起動する。
ステータスの端に小さなウィンドウが表示された。
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【名前変更申請中……】
対象:マホキカン → マホキーク
承認者:(該当なし)
判定:承認者不在につき自動承認
結果:承認
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通った。
ステータスが書き換わる。
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【マホキーク(運命:「魔法効く」ありとあらゆる魔法が効く)】
【種族:魔族】
【魔力耐性:~~完全無効~~ → 無きに等しい】
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マホキークの体に変化が走った。
目に見えるものではなかった。でも分かった。
魔力耐性のステータスが「完全無効」から「無きに等しい」に変わった瞬間。
それまで彼の周囲に張られていた不可視の膜——あらゆる魔法を弾いていた絶対障壁が、音もなく消えたのだ。
マホキーク自身も気づいた。何かが崩れる感覚。
肌が敏感になったような、鎧を脱いだような。
周囲を飛び交う魔法の気配が、今まで感じたことのない熱を持って肌を焼き始める。
「——なっ」
マホキークの顔から余裕が消えた。
今だ。
「ナシヌンダさん!」
私は叫んだ。声が裏返った。戦場で声が裏返るのは格好悪いけれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「今です! もっと撃って! 全部撃って!」
ナシヌンダは理由を理解していなかった。何が変わったのかも分かっていなかった。
でもこの人にとって、そんなことは関係ない。
パニック状態のナシヌンダは、最初からずっと、全力で魔法を撃ち続けていたのだ。
「みんなみんな死ぬんだああああ!!!」
火球。氷槍。雷撃。風刃。光弾。闇球。属性もへったくれもない、ありとあらゆる魔法のフルコース。MP全放出の乱れ撃ち。精密さのかけらもない、ただの暴力の奔流。
それが今度は——全弾、マホキークに直撃した。
火球が胸を焼いた。氷槍が肩を貫いた。雷撃が全身を痙攣させた。風刃が装甲を切り裂いた。一発ごとにマホキークの体が揺れ、二発ごとに膝が折れ、三発ごとに——
「ば、馬鹿な——効いて——ぐわぁぁぁぁ!」
ナシヌンダの最後の一撃——極大火球が、マホキークの正面から直撃した。爆炎が上がり、山道の岩壁が吹き飛んだ。
煙が晴れたとき、マホキークは倒れていた。
四天王、一体撃破。
「効いた……効いたんだ……」
ナシヌンダが膝から崩れ落ちた。MP切れだ。でもその顔には、恐怖とは違う涙が流れていた。
自分の魔法が、ようやく敵に通った。
頭上に浮かんでいた死亡フラグが、ふっと消えた。
よかった。本当に。
でも——四天王はまだ二人いる。
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一体倒した。残り二体。
私は赤ペンの先端をサイ・キョウのステータス画面に向けた。四天王最強。
戦闘力の数値を見るだけで胃が縮む。だが名前を変えられるなら、マホキカンと同じだ。
キョウをヨワに変えてしまえばいい。
最強が最弱に。これ以上ないほど分かりやすい校正だ。
赤ペンが走る。ステータス画面の「キョウ」の文字に赤い線が引かれ、余白に「ヨワ」と書き込まれる。承認プロセスが起動した。翻訳神のシステムが申請を受理し、処理が走り——
画面が赤く点滅した。
見たことのないエラー表示だった。日本語で、しかも明朝体で、こう書いてある。
【エラー:同名の存在が確認されました。】
【「サイ・ヨワ」は既に使用されている名前です。申請却下。】
「……は?」
却下? サイ・ヨワがもう存在してる?
頭の中でいくつかの可能性が巡る。
四天王最弱のサイ・ジャックはさっき倒したばかりだから、あれとは別だ。
ということは、どこか私の知らない場所に「サイ・ヨワ」という名の魔族がのんびり暮らしているということになる。
「じゃあ……【メチャ・ヨワ】!」
【エラー:サイ・キョウの姓であるサイは、サイ一族全体の呼称になるため、影響を及ぼす個体数が多すぎます。受理できません】
「サイ縛りなわけ!? 【サイ・フツウ】!」
【エラー:意味が通らない名称は受理できません】
「注文多くない!?」
叫んだ。戦場で。四天王を前にして。
うーん、うーんと頭をひねった。
赤ペンには利用規約も取扱説明書もない。使うたびに新しい制約が判明する仕様だ。
前世のOL時代、導入初日にマニュアルのないシステムを押しつけられたときの絶望感を思い出す。あれの異世界版。しかも命がかかっている。
気を取り直す。サイ・キョウがだめなら、もう一体だ。
ドーセマタ・ウラギール。
四天王の中で唯一の人間。元は人間側にいて、魔王軍に寝返ったシーフ。名前の意味は「どうせまた裏切る」。運命のとおり何度でも裏切る男。
この名前を変えられれば、少なくとも裏切りの運命からは解放できるかもしれない。
赤ペンをウラギールのステータスに向けた。
——反応がない。
ペン先が画面の上を滑るだけだ。文字に触れない。インクが乗らない。まるで油の上に水で字を書こうとしているみたいに、赤い線がするすると弾かれていく。
【エラー:人間のステータス変更は一切受理されません】
分かっていた。分かっていたはずだった。
でも、いざ目の前で弾かれると、やっぱり悔しい。
『——言っただろう』
頭の奥に声が響く。翻訳神だ。
承認プロセスのついでに回線が繋がったらしい。
「この赤ペンのシステムを設計した人、ちょっと出てきてくれない?」
『俺だが?』
「知ってる!!」
会話を打ち切った。打ち切るしかなかった。これ以上この神と話していると、怒りと脱力で戦闘どころではなくなる。
赤ペンを懐にしまう。
万能ではなかった。最初からそう言われていたし、頭では理解していた。
でも、マホキカンを倒せたことで少し期待してしまっていた。
このペン一本で、なんとかなるんじゃないかと。
現実は甘くない。前世でも、今世でも。
サイ・キョウの名前は変えられない。ウラギールの名前も変えられない。赤ペンで切り拓ける道は、ここで行き止まりだった。
残った手段は、ひとつだけ。
正面から、戦う。
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サイ・キョウは笑っていた。
マホキカンの名前を書き換えた私たちの策を、あの四天王最強は見ていたのだろう。
腕を組み、見下ろすような姿勢のまま、地鳴りのような声で言った。
「小賢しい真似を。だが俺は最強だ。名前ごときで俺の運命は変わらん」
アッシマッタはハズレネーと並んで矢を飛ばした。
一射、二射、三射——すべて命中。
だが、命中しているのに、通らない。
矢は着弾の衝撃だけを残して弾け飛ぶ。
「みんなみんな、死ぬんだぁぁぁ!」
ナシヌンダはMP回復薬を一気飲みして、極大の火球を投げ放った。
だが、片手でかき消されてしまう。
全員が押されている。ステータスの数値を見るまでもなく、体感で分かった。この相手には勝てない。
その時、ココハオレニーが口を開いた。
「みんな! 魔王はすぐ目の前だ!」
盾を構え直し、両足を踏みしめ、仲間たちに背を向けて。
「——ここは俺に任せて、先に行けぇ!」
瞬間、私の視界にステータスウィンドウが灯った。
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【ココハオレニー・マカセッテ・サキニーケ】
【死亡フラグ:20分後に死亡】
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血の気が引いた。
知ってはいた。この名前の意味を、転生者である私は最初から読めていた。
「ここは俺に任せて先に行け」。
創作物において、このセリフを吐いた人間がどうなるか。前世で何百回と見てきた展開だ。
だから、何度も止めてきた。
「だめ」
声が出た。自分でも驚くほど小さな声だった。
「だめ、だめだめだめ——ココハオレニー、それ言っちゃだめ!」
だが彼は振り向かなかった。盾を構えたまま、サイ・キョウと正面から向き合っている。
指が震えた。赤ペンが震えた。どうすればいい。書けない。何も書けない。
死亡フラグのカウントダウンが始まり、残り19分59秒へと切り替わった。
その時だった。
セーケンガが飛び込んでいった。
ボロボロの体で。素手で。聖剣は持っていなくとも、彼は勇者の眼差しをしていた。まっすぐに、ココハオレニーの横へ。
そして並んだ。
盾を持つ男の隣に、剣を持たない男が立った。
「お前ひとりに任せられると思ったか!」
ココハオレニーが目を見開いた。セーケンガは前を向いたまま、笑っていた。
ステータスウィンドウが更新される。
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【ココハオレニー・マカセッテ・サキニーケ】
【死亡フラグ:解除】
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解除。
その文字を残して、消えた。
赤い文字が、音もなく消えた。
私は息を呑んだ。手が震えていた。赤ペンは一文字も書いていない。翻訳は変えていない。名前も変えていない。何もしていない。
なのに、死亡フラグが消えた。
なぜ?
答えは、目の前にあった。
「ここは俺に任せて先に行け」——このセリフが死亡フラグになるのは、一人で残った時だ。
仲間を先に行かせて、自分だけが取り残された時。
だが、セーケンガがそのフラグをへし折った。
二人で残るのなら、それは死亡フラグとして成立しない。
運命は変えられるのだ。
隣に誰かが立っているという、ただそれだけのことで。
確信が、心の真ん中で固まった。
——ごめん、オレナイ。もう少しだけ待って。
私は二人に振り返った。ココハオレニーとセーケンガ。並んで立つ二人の背中は、傷だらけで、とても頼もしかった。
「——お願い、二人とも無事でいて!」
叫んで、走り出した。
残りのメンバーを率いて、魔王城の奥へ。
「待て勇者シータ、貴様を先に行かせるわけにはいかん!」
サイ・キョウが声を上げ、彼の背中に向かって手をかざした。
黒い炎の槍が空を横切っていったが、大きく外れ、城の外壁をえぐって飛んでいった。
助かった。私が振り返ると、サイ・キョウは右腕に突き刺さった手裏剣を引き抜いていた。
「……貴様……! 魔王軍を裏切るつもりか……!」
どうやら、すぐ隣にいたもう一人の四天王が、サイ・キョウを裏切ったのだ。
ドーセマタ・ウラギール。
また裏切ったのか、この男。
手裏剣を構えたその男は、覆面の下で不敵な笑みを浮かべていた。
「やれやれ、騙される方が悪いのでござる」
「ウラギール! やっぱりお前は忠儀者だったんだな!」
勇者シータの評価が、またうなぎ昇りになっていた。
いや、だから本当の忠儀者は、最初から裏切らないんだってば。
背後で盾が鳴る音がした。拳が空気を裂く音がした。サイ・キョウの咆哮が城壁を震わせた。
一人では勝てない。でも三人なら、止められる。
私たちは、魔王の元へ急いだ。




