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第六話 名前は変えられない

ハーメの破滅を、私は止められなかった。


性格欄は「ツンデレ」に変わった。翻訳が更新されたのだ。でも名前は「ハーメ・ツエンド」のまま。破滅エンド。ステータスの表示は変えられても、名前だけはどうにもならなかった。


名前さえ変えられたら。


そう思ったのは、これが初めてじゃない。


---


以前、オレコノーガの名前をなんとかしようとしたことがある。


オレコノーガ・オ・ワッタラ。「俺この〜が終わったら」。この名前のせいで、彼は隙あらば死亡フラグを立てる。ダンジョンに入れば「この依頼が終わったら」、食事の席では「このスープを飲み終わったら」。もう聞き飽きた。


だから赤ペンを走らせた。「ワッタラ」を「キニイリ」に。


オレコノーガ・オ・キニイリ。「俺この〜が気に入り」。なんでも気に入ってくれそうな、いい名前じゃないか。


修正案はすぐに消えた。


赤い文字が滲んで、溶けて、元に戻る。まるで世界そのものに拒否されたみたいに。


フラグ神の声が降ってきた。


『ここに表示されている名前は、正確な音の写しだよ。変えるのは正確性を欠く。翻訳者としてあるまじき行為だ』


「なんでよ。隠さなくったって、ぜんぶ意味がある言葉じゃないの」


『原文が読める君にはそうだろう。だが、運命神がこの名前を元に運命を決めているんだ。名前が変われば運命が変わる。私の権限ではとても手が届かない』


「じゃあ運命神に掛け合ってよ」


『無理だ。諦めなさい』


「出して」


『何を』


「修正案を出してから言ってよ。運命神がどれだけあんたの上か知らないけれど、ちゃんと対案を出して、検討して、それでダメだったなら納得する。何もしないで諦めろなんて、それは仕事じゃない」


沈黙。


『……私の仕事がいつの間にか増えた件について』


それきり、フラグ神からの返事はなかった。


ちゃんと仕事をしてくれたのか、なしのつぶてだったのか、分からない。よく考えたら、人の名前を勝手に変えるのって、倫理的にどうなんだろう。前の会社にいた頃、個人情報の取り扱い研修で散々言われたことを思い出す。氏名は本人の同意なく変更してはならない。


きっとこの世界にも、そういうルールがあるのだ。


コンプライアンスは異世界でも生きている。嫌な話だ。


---


そんなある日。


オレナイが倒れた。


朝食の席で、スープを口に運ぼうとした手が止まり、そのまま椅子から崩れ落ちた。ヘシオール兄さんが駆け寄ったときには、もう意識がなかった。


私は鑑定魔法を開いた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

**フラグガ・オレナイ**

 状態:意識不明

 病名:急性フラグ硬化症

 死亡フラグ:300日後に死亡

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


辺境の鑑定魔法なら、病名は『病気』になる。死亡フラグも表示されない。でも私の目には全部見える。見えてしまう。


フラグガ・ミエル。フラグが見える。それが私の運命だから。


急性フラグ硬化症。聞いたことのない病名だった。フラグが硬化する。折れなくなる。そして最後には——。


ヘシオール兄さんは、オレナイのステータス画面に両手を伸ばした。


いつもなら、触れるだけで砕けるフラグ。何本折ったか分からない。友情のフラグも、仕事のフラグも、出会いのフラグも、別れのフラグも。全部、触れるだけで壊れた。


だから兄さんには友達がいなかった。


指先がフラグに触れる。力を込める。歯を食いしばる。


「折れない……」


その声を聞いて、私は息を呑んだ。


兄さんが初めて、折れないフラグに出会った。それが、好きな人の死亡フラグだった。


オレナイが薄く目を開けた。兄さんの手に、自分の手を重ねる。


「平気よ、ヘシオール。ちょっと寝たら治るわ」


弱々しい笑みだった。


オレナイの鑑定画面には、辺境の翻訳で何が表示されているのだろう。

「ちょっと体調が悪い」くらいだろうか。

それとも、何も。


彼女のフラグは折れない。兄さんの力をもってしても。死亡フラグも。


——恋愛フラグも。


フラグガ・オレナイ。フラグが折れない。全てのフラグが。


兄さんは俯いて、何も言わなかった。手だけが、オレナイの手を握ったままだった。


---


私はフラグ神に凸した。


「いい加減にしろこらーっ! 名前を変える件どうなってんのよーっ!」


『うるさいな急に』


「急じゃない! ずっと待ってた! オレナイちゃんが死にかけてるの! 名前のせいで! フラグが折れないっていう名前のせいで、死亡フラグが折れなくて、300日後に死ぬの!」


『…………』


「なんとか言いなさいよ!」


『言っただろう、名前は私の権限では——』


「じゃあ誰の権限なの! 運命神? 会わせて! 直談判する!」


『できるわけないだろう。人間が運命神に会うなんて、翻訳者が原作者に文句を言うようなものだ』


「翻訳者だって原作者に質問するでしょ! 意味が分からないときは!」


『…………』


返事はなかった。


私は拳を握りしめて、天井を睨んだ。


何度でも言う。修正案を出してから諦めろ。それが仕事だ。


---


夜。


眠れなかった。ベッドの上で天井を見つめながら、ずっと考えていた。


名前は変えられない。それは分かった。赤ペンでも、フラグ神の権限でも、翻訳者の力ではどうにもならない。名前は運命神の管轄だ。


じゃあ、名前以外で変えられるものは何だ。


フラグガ・オレナイ。


フラグガは姓。オレナイは名。


名は変えられない。「オレナイ」は「折れない」のまま。でも——


「姓は……変わるじゃない」


声に出していた。


この世界でも、姓は変わる。結婚すれば配偶者の姓になる。養子縁組でも変わる。そして——引っ越し。辺境では、出身地の村名を姓として名乗るのが通例だ。オレナイに元々の家名はない。フラグ村の出身だから「フラグガ」を名乗っている。


フラグガ・オレナイ。「フラグが折れない」。


この「フラグガ」の部分が別の何かに変われば。


彼女の死亡フラグを、折ることができる。


けれど一緒に、ヘシオール兄さんとの恋愛フラグも折れてしまう。


恋愛フラグを保ったまま、死亡フラグだけを折る方法。

ある。理想の村の名前が。


私は片っ端から文献をあたった。世界地図から、古文書まで。

けれど、そんな名前の村は、この世界のどこにも存在しない。


「……村だ」


私の中に、とんでもないアイデアが浮かんでいた。


「村を作ろう」


---


翌朝。


私はすぐに行動に移した。この世界における村の作り方を調べた。


必要なものは三つ。土地。村民。そして領主の認可。


タテル兄さんだったら、領主や偉い人の知り合いがいるんじゃないかと思ったが、そうでもないらしい。


「兄ちゃん、偉い人と5分も話せないんだよ」


「わかるけど、どこに行くの?」


兄さんのステータス画面には、オレナイの病名は「病気」としか表示されない。

でも兄さんは画面を一度見ただけで言った。


「おれ、薬探してくる」


文字が読めなくても、分かることはあるのだ。

兄さんはこの世界を旅しながら、ずっとたくさんの人を見てきた。


「フラグとかはよく分からないけど、運よく生きてても、ずっと病気のままじゃ辛いだろ」


出発前、兄さんはストレージを開いて、薬草図鑑と保存用の袋を詰め込んでいた。


「ミエル、家のことは任せたぞ。おれは……おれにできることをする」


以前妖精を助けたことのある森に心当たりがあるらしい。あの辺り出身のヨメさんもついていった。

兄さんたちの背中を見送って、私はタッタ姉さんに相談した。


「領主の認可が必要なの。誰か偉い人の知り合い、いない?」


タッタ姉さんは少し考えて、言った。


「オムそばさんはどうかしら」


「オムそばさん?」


「うちの常連さんなんだけど、あの人、どこかの国王やってるって言ってたわよ」


「国王!?」


さすがタッタ姉さんだ。異世界レストランの客層がおかしい。


オムそばさん——本名は長すぎて覚えられなかったが、確かに某国の国王だった。タッタ姉さんの店のオムそばが好きで、週に三回は通っているらしい。


事情を話すと、オムそばさんはあっさり承諾してくれた。


「タッタちゃんの妹さんの頼みなら。うちの領土の空き地を使いなさい。村の名前は?」


「もう決めてあります」


深呼吸。


「レンアイフラグ村です」


---


村名の申請を出した瞬間、フラグ神から「まった」がかかった。


『恋愛なんて名前使っちゃダメでしょ』


「恋愛とは関係ありません。これは『レンアイ』です」


『どう見ても恋愛だろ! 上から俺がにらまれちゃうよ。ぜったいダメ。この世界の言語を使って』


私は、ある分厚い本を取り出した。


ヘシオール兄さんが学園の図書室で見つけた本。南方山岳民族の古語辞典。あの日兄さんが見つけた「レンアイ」という言葉が載っている本だ。


本を開き、該当のページを神に突きつけた。


「南方の民族の古語にあります。『レンアイ』とは、『大いなる』という意味。『大いなるフラグ村』——それがたまたま『レンアイフラグ村』と表記されるだけです」


沈黙。


フラグ神の口がぽかんと開くのが、見えた気がした。


『…………』


精一杯頭をひねって出した言葉は——


『ということは、その南方の民族が村人ってこと? 北国の新村の? ……だよね?』


語彙力だけでなく、論理にも限界があるらしい。だが、指摘自体は正しかった。


「レンアイ」が正当な村の名前であることを証明するには、その言葉を日常的に使う民族が実際にそこに住んでいなければ筋が通らない。架空の村に架空の語源では、ただの詐称だ。


南方山岳民族を、北国の新村に移住させる。


それがどれほど途方もないことか、分かっている。南の山岳地帯から北の平原まで、大陸を縦断する旅になる。言葉も文化も違う人々を説得し、連れてこなければならない。


でも。


300日。


オレナイに残された時間。


ヘシオールの、あの俯いた横顔。


覚悟は決まっていた。


「その予定です」


嘘を、誠にする。


---


荷物をまとめた。仲間を集めた。

目指すは南方山岳地帯。古語「レンアイ」の故郷。


オレコノーガが荷車に最後の荷物を積みながら言った。


「ミエル。俺、この旅が終わったら——」


「黙って」


「まだ何も——」


「顔に書いてある」


300日のカウントダウンが、もう始まっている。

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