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第五話 ツンデレとはなんですの?

赤ペンの仕事は地味だった。


ある日は、冒険者ギルドの受付嬢のステータスを校正した。

「戦闘力:ふつう」→「戦闘力:プロットタイガーを倒せる」

受付嬢は自分のステータスを見て目を丸くした。

「わたし、プロットタイガーを倒せるの?」

冒険者にとっては「ふつう」だ。でも具体例が見えるだけで、彼女の表情が変わった。


ある日は、鍛冶屋の親方の技能欄を校正した。

「腕前:すごい」→「腕前:精密鍛造Lv.7」

親方は無言で頷いた後、弟子に向き直って言った。

「お前はまだLv.3だ。あと4つ、上がある」

初めて、弟子の目標に数字ができた。


ある日は、農家の天候予測を校正した。

「たくさん日後に大雨」→「次の満月の日に大雨」

村長は空を見上げていた。「次の満月の日か。気をつけないと」


一つ一つは小さな変化だ。でも、校正のたびに誰かの行動が変わる。


前例が増える。前例が増えれば、翻訳神が使える語彙が増える。語彙が増えれば、校正しなくても正しく表示されるステータスが増えていく。


地味だ。でも、確実に世界が動いている。


---


ショーセ家に恋愛の概念を口述した日は、まだ秋だった。


冬が来た。


帝都の書店にツサッカの新作が並んだ。


『二つの顔を持つ令嬢——ある怪奇と愛の記録』


怪奇小説の棚に置かれたそれを、最初に手に取ったのは怪奇小説のファンだった。読み終えたとき、彼らは怪奇ではない何かに心臓を掴まれていた。


「これ、怖いんだけど……なんか、胸が痛い」

「主人公の令嬢、嫌な奴なのに……最後のページで泣いた」

「あの性格、なんて言うんだ? 本の中では『ツンデレ』って書いてあったけど」


春が来た。


ツノムシが動いた。帝都の書店だけでなく、冒険者ギルドの待合室に本を置いた。辺境の宿屋の共有棚に本を置いた。行商人の荷物に本を紛れ込ませた。


冒険者たちは暇つぶしに読み、読み終わると隣の冒険者に押しつけた。


「これ読んでみろよ」

「なんだよこれ」

「わかんねえけど、なんか胸がざわざわする」


タッタ姉さんも動いた。異世界レストランのVIP客——貴族、商人、外交官——の食後の話題に、さりげなくツサッカの新作を添えた。

フラグが立たない姉は、代わりに人と人の間に「話題」を置いてゆくのだ。


夏が来た。


とうとう翻訳が、変わった。


---


その日、学園の廊下で異変に気づいたのは、ハーメと同じクラスの生徒だった。


「ねえ、ハーメ様のステータス見た?」

「見た。『高慢』が消えてる」

「代わりに変な言葉が入ってる。なんて読むの? ツンデレ?」

「ああ、あの小説の!」

「え、読んだの?」


ハーメの性格欄が「高慢」から「ツンデレ」に更新されていた。


翻訳神のシステムは、この世界の人々の認知を反映する。

「ツンデレ」という言葉を知っている人間が一定数を超えた瞬間、翻訳神はその語彙を使えるようになるのだ。


そして、ハーメの性格の原文に最も近い翻訳として——「ツンデレ」を選んだ。

当然だ。最初からそう書いてあったのだから。


---


小説を読んだ生徒たちの態度が、少しずつ変わった。


ハーメが廊下で誰かに「邪魔よ、どきなさい」と言ったとき、以前なら眉をひそめていたクラスメイトが、くすっと笑った。


「またツンデレしてる」


「……は?」


ハーメが首を傾げている。それもそうだ。ハーメ本人はまだ小説を読んでいない。


自分で自分のステータスを見たのは、子どもの頃が最後だった。

自分の名に刻まれた運命、「破滅エンド」の情報を読みとることはできないが、それを予感させる情報がそこかしこに浮かんでいるような気がして、見るのが怖くなった。

以降は健康診断の時の医師や、体調管理の時の下女に見てもらっている。


それ以上の事をする必要がない。

それだけで十分だった。


そしてある日——


ハーメは久しぶりに、自分のステータスを開いた。


最近、周りの人がなぜか優しい。きつく言っても怒らない。むしろ微笑む。不気味だった。何かが変わっている。でも何が変わったのかわからない。


だからステータスを見た。


性格欄に見慣れない文字が並んでいた。


【性格:ツンデレ】


「……?」


---


放課後。


教室で赤ペンの校正作業をしていた私のところに、金髪ドリルがやってきた。


「ミエルさん」


「はい?」


ハーメ・ツエンドが、私の目の前に立っていた。いつもの気位の高い姿勢。でも、ほんの少しだけ——眉の角度が違う。困っている顔だ。


「聞きたいことがありますの」


「どうぞ?」


「ツンデレとは何ですの?」


私はツボにはまった。


見たんだ。とうとう見たんだ。自分のステータスを。そこに書いてあった言葉の意味がわからなくて、わざわざ聞きに来たんだ。このプライドの塊みたいな子が。


笑ってはいけない。笑ってはいけないけど、頬が震える。


「何を笑っていますの!」


「ごめん、ごめんなさい。——座って、ハーメ。説明するから」


ハーメは「べつに座りたいわけではありませんわ」と言いながら、私の隣の椅子を引いた。


それが、ハーメと私の友情の始まりだった。


---


ハーメは頭が良かった。


校正作業を手伝ってくれるようになったのは、ツンデレの意味を教えた翌週からだ。


私は問題のある翻訳のリストと、その原文のリストを並べて頭を悩ませていた。


「『麻痺状態』の概念がないんだ……『毒』と区別がついてない。うーん、どうしよう」


「別の国では『切ない』と訳されるのを聞いたことがありますわ」


「へー、そんな訳し方があるんだ。ありがとう」


「べ、べつにあなたの為ではありませんわよ。ただ、不正確な言葉が世に出るのが許せないだけですわ」


最初はそう言っていた。でも、ハーメの言語センスは本物だった。


「『切ない』はどう訳したらいいんだろう……悲しいとも違うし、苦しいとも違うし……」


ハーメは少し考えて、こう言った。


「『胸の奥が、冬の朝の吐息のように曇る』——ではいかが?」


私は赤ペンを止めた。


「……ハーメ、あんたすごいわ」


「当然ですわ。わたくしは幼い頃から——」


言いかけて、止まった。


「……幼い頃から、自分の気持ちを言葉にできなかっただけですわ。だから、言葉を探すのは得意なの」


ツンデレの子が、自分の不器用さを自覚している。


言葉にできなかった感情を、他人のステータスの校正を通じて見つけていく——それが、ハーメにとっての校正作業の意味だった。


「ハーメ、今度ショーセさんに会わせたいんだけど」


「誰ですの、それ」


「あんたの才能を世に出せる人」


「べ、べつに——」


「はいはい、べつにあなたの為ではありませんわよ、でしょ」


「先に言わないでくださいまし!」


---


二人で校正をする放課後が、何日も続いた。


ハーメは「高慢」と呼ばれていた頃には誰も近づかなかったけれど、「ツンデレ」と呼ばれるようになってから、少しずつ周囲の反応が変わっていた。言動は同じなのに。変わったのは言葉だけだ。


言葉が変われば、認知が変わる。認知が変われば、関係が変わる。


これが翻訳の力だ。


赤ペンで変えたのはステータスの表示だけ。ハーメ自身は何も変わっていない。変わったのは、世界の方だ。


---


だが、ある日突然、ハーメは学校に来なくなった。


一日。二日。三日。


席が空いたままの教室で、私は噂を聞いた。


「ハーメ家、取り壊しになったらしいよ」


「婚約破棄だって。王子様直々に」


赤ペンを握る手が、冷たくなった。


---


後から聞いた話を、私は何度も頭の中で再生した。


何度再生しても、結末は変わらない。


当たり前だ。私はあの場にいなかったのだから。


校正者がいない場所では、誤読はそのまま世に出てしまう。


---


最初に起きたのは、些細なことだった。


王子の取り巻きの令嬢——純真で、可憐で、誰からも愛される類いの女の子——のドレスの裾がほつれていた。


舞踏会の控えの間。壇上への入場を待つ列の中で、ハーメはそれを見つけた。


歩み寄る。金髪ドリルが揺れる。


「あなた、そのドレスの裾がほつれていてよ」


周囲の視線が集まる。——またか、という空気。


「直しなさい。恥をかく前に言ってあげているのですから、感謝なさい」


令嬢の目に涙が浮かんだ。


囁きが広がる。「またハーメ様がいじめた」「本当に性格が悪い」「あんな言い方しなくても」。


これは後日、居合わせた同級生から聞いた話だ。でも私にはわかる。

ハーメはほつれを直してあげたかった。あの子が壇上に上がったとき、裾を踏んで転ばないように。

でも「気をつけてね」と優しく言えない。「大丈夫? 直してあげようか?」が口から出ない。


代わりに出てくるのは、命令形。上から目線。感謝しなさい。


それがこの子だから。


——ツンデレだから。


舞踏会の大広間に出ると、雰囲気がさらに悪くなった。


数百人の貴族と、その従者たち。帝国社交界の花形が居並ぶ中、王子が一段高い壇上から歩み出た。


「ハーメ・ツエンド」


場が静まった。


ハーメは振り返った。何の前触れもない呼び出しに、一瞬だけ目が揺れた。でもすぐに、いつもの毅然とした顔に戻った。背筋を伸ばし、金髪ドリルの先まで完璧に整えた姿で、王子の前に立った。


「先日、お前のステータスの性格欄を確認した」


ハーメの指先が、かすかに震えた。


彼女は最近、初めて自分のステータスを見たのだ。


それまでは「高慢」と表示されていた。恋愛小説が広まり、「ツンデレ」という概念が文化に定着し、翻訳神のシステムが更新されたことで、彼女の性格欄は書き換わった。「高慢」から「ツンデレ」へ。


その意味を私に教えてもらったとき——ハーメは少しだけ、楽になった顔をしていた。


ああ、わたくしはこれだったのね。性格が悪いのではなく、不器用なだけだったのね。


その表情を、私は覚えている。


「——ツンデレ」


王子がその言葉を口にした瞬間、会場の反応が二つに割れた。


恋愛小説を読んだ者たち——庶民出身の従者、学園の同級生、商人の子弟たち——が、あっ、と小さく声を漏らした。意味を知っている。ハーメの不器用さの正体を、物語を通じて理解している。


小説を読んでいない者たち——王族、上位貴族、高位軍人——は、怪訝な顔をした。聞いたことのない言葉だ。


王子は、後者だった。


「聞き慣れぬ言葉だったので、辞書を引いた」


王子は隣の従者から古い革装丁の辞書を受け取った。帝国正統辞典。王族と学者のみが使用を許される権威ある辞書。改訂は十年に一度。しかも最新版ですらない。


当然、「ツンデレ」は載っていない。


恋愛小説から生まれた言葉だ。大衆文学の語彙が帝国正統辞典に収録されるわけがない。


「最も近い語は——『ツンドラ』」


会場の空気が凍った。


小説を読んだ者たちの間に、戦慄が走った。違う。それは違う。


「凍土。永久に凍りついた不毛の大地」


王子は辞書を朗読するように、一語一語を区切った。


「如何なる種を蒔いても芽吹かず、如何なる温情も凍てつかせる。——なるほど、ハーメ・ツエンド」


王子が辞書を閉じた。


「お前の性格をこれ以上正確に表す言葉はない」


ハーメの顔から血の気が引いた。


それでも——背筋は折れなかった。


「没落寸前の家に、不毛の性格。救いようがない」


王子が右手から婚約の証——指輪を外した。


「ハーメ家との婚約は本日をもって破棄する。家についてはもはや取り壊すしかあるまい」


冷たい金属音が、大広間の床に落ちた。


ハーメは泣かなかった。


金髪ドリルを揺らしもしない。背筋を伸ばしたまま、王子を見据えている。


もし私がその場にいたら。赤ペンを握ったまま、鑑定していたら。


きっとこう見えていた。


【ハーメ・ツエンド 内面ステータス】

【動揺:極大】

【悲嘆:極大】


けれども、感情は表に出さない。

ツンデレだから。


好きな人の前で素直になれない。傷ついた顔を見せられない。ここで泣けば、ほんの少しだけ、本当の自分を見せられるかもしれない。涙のひとつでも見せれば、誰かが気づいてくれるかもしれない。


でもできない。


それがこの子だから。


「……そう。ツンドラですの」


声は震えていなかった、と聞いた。


「わたくしの性格が凍土だというのなら、そうなのでしょう。何も育たないと仰るなら、そうなのでしょう」


ハーメが一歩、前に出た。王子との距離が縮まる。周囲に緊張が走る。


「——ですが」


金色の目が、真っ直ぐに王子を射抜いた。


「凍土の下には、永久に溶けない氷がございますわ」


大きく息をつく。


「それが何を閉じ込めているか——あなたには一生おわかりになりませんわね」


踵を返す。


金髪ドリルが弧を描いた。完璧な弧だ。一本の乱れもない。


会場を出ていくハーメの背中を、庶民出身の従者たちが複雑な目で見送った。彼らには「ツンデレ」の意味がわかっている。冷たい言葉の裏に隠された本音の存在を、物語を通じて知っている。


だから余計に、切なかった。


凍土の下の氷が閉じ込めているもの。それが何か、小説を読んだ者にはわかる。


王子だけが怪訝な顔をしていた。ハーメの最後の台詞の意味が、彼の辞書には載っていない。


---


私はあの場にいなかった。


いたらきっと、読めていただろう。


ハーメが最後に背を向けたとき、きっと彼女のステータスには浮かんでいたはずなのだ。


【翻訳前原文】あなたのことが好きだったのに


ハーメ・ツエンドの運命を変えることは、私にはできなかった。


パートナーがいなくなって、私の校正作業は、また一歩後退した。


——でも、赤ペンにはまだインクが残っている。

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