第四話 恋愛小説というジャンルを、作りませんか?
後日、オレコノーガとデート。
場所は異世界レストラン《アフタヌーン亭》。タッタ姉さんの職場だ。
「いい加減、機嫌直してくれよミエル」
「絶対許さないから。パフェ全部制覇してやる」
恋愛フラグを折られた件を、私はまだ根に持っていた。
あの夜、オレコノーガは何かを言おうとしていた。目が真剣で、私の手に触れかけて——そこにヘシオール兄さんが、ばきん。全部なくなった。
フラグが折れると、世界ががらっと書き換わる。
本人は何を言おうとしていたかすら覚えていない。私だけがあの晩泣いたことを知っている。
理不尽だ。理不尽なので、パフェで清算する。
ドアベルが鳴った。
「あ、ミエル」
「あ、ヘシオール兄さん。どうしてここに?」
ヘシオールと、その隣にオレナイ。お似合いのカップルだ。
「どうしてって、この辺りで一番おいしい店ってここしかないでしょ?」
「それもそうだったわ」
そう、なんせ異世界レストランだ。この世界の食文化は発展途上で、肉は塩で焼くか煮るかの二択が基本。でもこの店だけは別格だった。
神戸牛が食べられる。おまけに異世界ゲートがぽんぽん開いて、異国の王様、妖精の女王、魔王、剣豪、いろんな客が訪れた。
「じゃあ四人で食べよう」
オレコノーガが椅子を引いた。ヘシオールが黙って座り、オレナイがその隣に座った。
私は、二人のステータスをちらっと見た。
萌芽のような小さなフラグが立っているのが見えるけれど——折れない。
普通なら、ヘシオールの隣に人が座れば何かしらのフラグが軋む。友情でも好意でも、近づけば立ち、立った瞬間にへし折られる。
でもオレナイからは、何も折れる音がしない。
「フラグが折れない」——それがオレナイの名前であり、運命だ。
いい子がいてよかった。
タッタ姉さんが注文を取りに来た。
「あら、四人? ……うふふ」
タッタ姉さんは私たちの様子を見て、なにやら嬉しそうに笑った。
姉さんは人のフラグが立つのを見て喜ぶ人だった。何も言わずに厨房へ消えた。
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料理を待つ間、私は一人のことを考えていた。
学校でも一番過酷なフラグを持っていた人の事を。
ハーメ・ツエンド。「破滅エンド」の名を持つ金髪縦ロールの令嬢。
あの子は周囲から「高慢な令嬢」としか見られていない。
テンプレ聖女気質の子にきつく当たり、取り巻きを引き連れ、冷たい声で言い放つ。
でも、私には原文が読める。
ハーメのステータスの性格欄には、こう書いてあった。
**性格:ツンデレ**
冷たいのは表の顔。本当は誰よりも相手を気にかけていて、素直になれなくて、不器用に突っぱねて、一人になると後悔する。
けれど——帝都訳では「高慢」。都会訳では「高飛車」。辺境訳では「ワガママ」。
この世界に「ツンデレ」という概念がない。翻訳神は訳語がないから、既存の語彙で一番近い言葉を当てるしかない。結果、「高慢」。
嘘じゃないけど、本当でもない。翻訳としては最悪だ。
「ねえ、ヘシオール兄さん。帝都では『死亡』とか『殺人』みたいな語彙がステータスに普通に表示されてるの、どうしてかしらね」
フラグ村では、間違いなく伏字になる言葉だ。
ヘシオール兄さんはスープを一口飲んでから答えた。
「帝都では小説が流行っているからだよ」
「……そうか」
「小説の中で使われた言葉が読者に浸透する。その読者が増えれば共通語彙になる。そして共通語彙になれば鑑定魔法の翻訳にも使われる。……当然の帰結だと思うけど」
さすがヘシオール兄さん。
逆に言えば、「恋愛」はいまだに伏字だった。
この世界のどの地域でも。恋愛小説というジャンルはまだ存在しない。
恋愛は語るに値しないものとされていて、感情の語彙がごっそり欠落しているのだ。
だからハーメの「ツンデレ」も、翻訳できないまま。
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ふと、隣のテーブルが気になった。
中年の夫婦と青年が一人。身なりがいい。そして——会話が異常に詩的だった。
「この前菜の構成は、まるでマルトーヴの第三悲劇の転換点——絶望の底で一筋の光が差す、あの瞬間の味わいだわ」
「うむ。素材の選択に作為がない。良い物語と同じだ——作者の意図が透けて見えるうちは二流」
「か、母さん……もうちょっと普通にご飯食べない……?」
タッタ姉さんが料理を運んできたついでに、すっと耳元で囁いた。
「あのお客様、帝都で一番大きな出版社のご家族よ」
「へー」
ヘシオールのパンを千切る手が止まった。
「……ショーセ・ツボン」
「知ってるの?」
「うん、帝都の書店流通の四分の一に関わっている人だ。僕が読んでいる本の半分は、この人がいなければ出版されていない」
私は鑑定した。
【ショーセ・ツボン(運命:「小説本」作家のパトロンとなり、小説本を大量に収集する)】
【影響力:帝都の書店流通の23%に関与】
【功績:「死亡」「犠牲」「復讐」等のセンシティブ語の脱伏字化に多大な貢献】
【ショーセ・ツサッカ(運命:「小説作家」小説を大量に作る)】
【職業:作家(怪奇・心理劇)】
【代表作:『鏡の裏の住人』『名前のない感情の標本箱』】
【ショーセ・ツノムシ(運命:「小説の虫」本の虫。大量の小説を読み漁る)
【特技:書物の流通ネットワーク構築】
【備考:辺境のギルドにまで本を届ける経路を持つ】
この人たちの小説のおかげで、帝都では「死亡」が伏字じゃなくなった。
小説が語彙を広め、翻訳に使われるようになり、ステータス表示が変わった——。
じゃあ、同じことを「恋愛」でやれば?
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私は立ち上がっていた。
「おいミエル、パフェまだ来てないぞ」
「ちょっと待ってて」
隣のテーブルに歩み寄る。
「突然すみません。ショーセ・ツボンさんですか?」
ツボンが片眉を上げた。
「いかにも。——店員の紹介かな?」
「はい。それと、こちらのヘシオールがあなたの出版した本の読者です」
ヘシオール兄さんが小さく会釈した。ツボンの目が少しだけ柔らかくなる。
読者という存在に対する敬意が、この人にはある。
「それで、提案があるんです」
一呼吸。
「恋愛小説というジャンルを、作りませんか?」
テーブルの空気が変わった。
ツボンの表情は読めない。ツノムシが固まっている。
だが——ツサッカの目だけが、異様に光った。
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「恋愛。……続けなさい」
ツサッカの許可が出た。
「この世界には、恋愛感情を記述する語彙がほとんどありません。『好き』と『嫌い』はある。でもその間にある膨大な感情——たとえば相手を想って胸が苦しくなること、好きな人の前でだけ素直になれないこと、嫌いなふりをして本当は誰より気にかけていること——それらを表す言葉がない」
ツサッカが身を乗り出した。
「感情の二面性——まさに怪奇的なテーマね」
「えっ」
「昼と夜で別の顔を持つ——それは私が書いてきた怪奇の構造そのものだわ。……面白い切り口ね。感情のフランケンシュタインだわ」
「か、母さんが食いついてる……」
ツボンはまだ黙っていた。腕を組み、目を閉じている。
長い沈黙。
やがて、目を開いた。
「良い物語は、世界の記録だ」
ツボンの声は静かだった。
「だが本当に良い物語は——世界にまだ存在しない感情を記録する。それが読まれた瞬間、その感情は世界に生まれる」
ツボンが手を差し出した。
「やろう。恋愛という未踏の領域に読者が踏み込めば、この世界の語彙は変わる」
私は息をのんだ。
「あの、なんとお礼を言ったらいいか」
「私はいい本に投資するだけ。書くのはツサッカだ。流通はツノムシの仕事だ。こう見えて、市場には詳しい」
ツノムシが口を開いた。
「か、母さんの新作なら……冒険者ギルドの待合にも置いてもらえば……あそこの客は暇だから何でも読む……」
ツサッカはもうテーブルナプキンの裏にプロットを書き始めていた。
「主人公は令嬢にするわ。表の人格は冷徹、裏の人格は——ええ、あなたが言った『ツンデレ』、あれを使う。読者は怖がりながら共感する。怪奇小説の延長として読み始め、読み終わる頃には——恋愛の概念を獲得している」
私はヘシオールを振り返った。
兄さんは、静かにこちらを見ていた。何の表情も読めない。ただ、その目が——図書室で「レンアイ」という古語を見つけたときと、同じ色をしている気がした。
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テーブルに戻ると、パフェが来ていた。
「おかえり。何の話してたんだ?」
「世界を変える話」
「?」
「ミエルはいつも大げさだな」
「ふふ」
四人でパフェを食べた。
この世界に、恋愛小説はまだ存在しない。恋愛は伏字で、ツンデレは高慢と誤訳され、好きな人に素直になれない女の子は「性格が悪い」としか思われない。
でも、今日からそれが変わる。
私は赤ペンを握った。パフェのクリームがちょっとついた。
……まずはこのパフェを食べ終わってからね。




