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第二話 図書室の少年と、折れないフラグ

図書室の隅に、いつもの少年がいた。


フラグオ・ヘシオールは壁際の椅子に座り、膝の上に本を開いていた。


午後の光が埃を金色に照らしている。その光を避けるように、彼はいつも壁側にいる。


友達がいない。


ヘシオールの半径三歩以内に入った者は、持っていた幸運のフラグを片端から折られる。パン屋の息子は成功フラグを粉砕されて黒焦げのパンを持って泣いた。仕立て屋の娘は期待フラグを折られてリボンが風に飛んだ。


だから図書室が定位置になった。本はフラグを持たない。文字だけが、彼のそばにいることを許された。


今日は南方山岳民族の言語についての古い学術書。背表紙の金箔は剥がれ、誰の指紋もついていない本。ヘシオールはそういう本ばかり選ぶ。誰も借りない本はいつでもそこにある。似た者同士だった。


ページをめくる指が止まった。


「レンアイ」——古語。意味:「大いなる」「偉大な」「全てを包む」。南方山岳民族の最上級の接頭辞。現在は死語とされ、使用例は確認されていない。


きれいな言葉だな、と思った。


死語。使う人がいないから、意味だけが本の中に眠っている。


窓の外で、誰かの笑い声がした。ヘシオールは顔を上げなかった。


もう一度その行を読み返して、次のページをめくった。


---


ヘシオール兄さんは恋愛を知らない。


この世界にも恋愛という言葉はあるけれど、辺境では刺激の強い、センシティブな表現として規制されている。


感情に関するステータス表示は「好意」「敵意」「無関心」の三種類だけ。

けれども兄さんはその三色すらまともに使えていない。


もしも冒険に連れていったら、オレコノーガの死亡フラグが立っても、簡単に折ってくれるだろう。

でもその前に出発フラグが折れて天候が崩れてしまう。

柱に宝の地図が書かれていても「汚れだ」と思って拭き取ってしまう。

ヘシオール兄さんは冒険ができない。何も終わらないし、何も始まらない。


「兄さんは、学校に行きたくない?」


夕暮れの帰り道で訊いた。


「いい。本があるから」


この世界では、兄さんと同じくらいの年齢の子が当たり前のように働いている。

けれども、前世の私の感覚からすれば、兄さんはまだまだ学校に行っていなくてはならない年頃だった。


なんとかならないだろうか。


---


なんとかなった。ただし、なんとかしたのは私ではなかった。


「ヘシオール、学校に行ってきなさい」


その晩の食卓で、タッタ姉さんがびしっとパンフレットを突きつけた。


フラグガ・タッタ。長女。自分にはフラグが立たないが、周囲の人々にフラグを立てていく。

料理を出せば客に「また来よう」が立ち、笑顔で送り出せば「いい一日になりそう」が立つ。


「お客さんが紹介状を書いてくれたの。村の偉い人が子どもを学校に行かせたいんだって」


「村の偉い人って誰?」


「フラグ神とか言ってたけど」


またとんでもない所とゲートが繋がったな。

タッタ姉さんの職場は異世界レストランなので、人間も来れば魔族も来る。たまに神も来る。


「どう? ヘシオール。学校なら、もっと色んな本が読めると思うけど」


しばらく黙って、兄さんは言った。


「ミエルと一緒じゃないと嫌だ」


可愛すぎんか、うちの兄は。


「もー、しょうがないなー。いいよー、一緒に行こう」


「たまにミエルの方がお姉ちゃんに見えることがあるわね」


今思えば、これはあの神の計画のうちだったのかもしれない。

でもそのときの私は、兄さんが図書室の隅から出てくれることが、ただ嬉しかった。


---


いざ学園に入ると、ヘシオール兄さんは入学試験で首席を取った。


どんな試験かというと、複数の異なる鑑定魔法の結果を見くらべて、それが一体何を言い表しているのかを答える、というものである。


翻訳神ごとにいろんな特性があって、たとえばスライム一匹を鑑定しても、戦士の神からは戦い方や有効な武器に関する情報が得られ、魔法使いの神ならばドロップする魔法素材に関する情報が得られたりする。


それぞれの神に専門性があって、専門用語があって、すべてを読み解くには膨大な知識が必要だった。


兄は、普段から本を読みこんでいて、あっさりと読み解くことができたのだ。

教師陣が「問題が簡単すぎたのでは」と試験を疑うほどの圧倒的首席だった。


対する私は、目立たない成績で入学した。

私は最初から日本語でステータスの全文が読めるし、教師が「鑑定不能領域です」と言うたびに(読めてるけどな)と思っていた。


ただ、この世界の翻訳精度が、村や都会の地域神だけでなく、様々な職業神にも依存している仕組みは本当に勉強になった。


オレコノーガも同じ学園に通えるようになったし、私の学園生活は問題ない。

問題は兄や、それ以外の生徒の方だった。


「あなた、入学試験の首席だったそうね?」


金髪のドリルが揺れた。従者を連れた煌びやかなお嬢様が、スカートの裾を翻しながら近づいてくる。周囲の生徒が自然と道を開けた。


私の目には、彼女のステータスがはっきり見える。


【ハーメ・ツエンド(運命:「破滅エンド」最後には破滅を迎える)】

【性格:ツンデレ】


『破滅エンド』などという物騒な名前フラグを、私は生まれて初めて見た。

しかもツンデレだ。前世の日本語で言うところの、あのツンデレ。


なのに、周りの生徒たちは嫌そうな顔をしている。

金髪ドリルお嬢様でツンデレなんて、どう考えても面白いのにどうして、と思ったが、この世界にツンデレの概念がないからだ。


人々が鑑定魔法をのぞくとき、この世界の翻訳神は、持っている語彙から最も近い言葉を選ぶ。

「ツンデレ」に最も近い既存語——「高慢」。ツンだけが拡大され、デレは翻訳から脱落している。


この子は、翻訳に殺されている。


「学のある者は嫌いではないわ。わたくしの従者になって、鑑定魔法を使わせてもよろしくってよ?」


「いえ、結構です」


バキッ。


二人の間に芽生えかけた何かが折れた。ハーメの唇が一瞬だけ震えて、すぐに笑みに戻った。


「……っ、そう。残念だわ」


くるりとドリルを翻して去る背中を、私は目で追った。


ハーメは辺境出身の従者を連れていて、その人に鑑定魔法を使わせていた。

自分で鑑定魔法を使った方が、ちゃんとした情報が読めるのにどうして、と思ったことがある。


ハーメの出身地である帝国は、鑑定の翻訳精度も非常に高かった。

数字は1から1000まで完全に表示され、パーセンテージや四則演算のような数学的概念も表示される。

さらに『死亡』や『破滅』といった文字も、伏字にされることなくはっきりと見える。


だからだろう、自分の鑑定で「破滅」が見えるのが怖いのだ。


けれども周囲には、高慢な貴族が人をこき使っているようにしか受け取られなかった。

ツンデレの概念がないのだ、この世界には。

「高慢」というたった二文字の誤訳が、あの子の人生を別の物語に書き換えている。


---


兄さんはフラグを折り続けた。


「ヘシオール君、ノート見せてくれない?」「ふつーに嫌だけど」バキッ。


「このお弁当、よかったら食べて……」「ミエル、はい、あーんして」バキッ。


悪気がない。まったくない。それが一番たちが悪い。

恋愛という概念が希薄なこの世界で、フラグを片端から折る体質の兄に、どうやってまともな人間関係を築かせようと言うのか。


「兄さん、もう少し他の子と仲良くした方がいいよ」


「いいよ、僕は。みんなのフラグを折っちゃうから」


昼休み。学食の隅で、ヘシオールと二人で食事をしていた。


テーブルの周囲は無人。半径三メートルが孤島になっている。いつもの光景だ。


「隣いいかしら」


声がした。


少女が一人、トレイを持って立っていた。フラグ村の制服。肩までの淡い茶色の髪。穏やかだけど芯の強そうな目。


私はステータスを見た。


【フラグガ・オレナイ】(運命:「フラグが折れない」どんなフラグも決して折れない)


「……別にいいけど」


オレナイはヘシオールの隣に座った。


何も折れなかった。


——何も、折れなかった?


ヘシオールの隣に座ると、必ず何かが折れる。

ぱきっとか、ぽきっとか。

なのに今、何も起きていない。

「フラグをへし折る」運命と「フラグが折れない」運命。


「あなたがヘシオール君ね。首席だって聞いたわ」


何でもない口調だった。


「……ああ」


沈黙が流れた。でもいつもの「誰もいない沈黙」とは違う。「誰かがいる沈黙」だった。


ヘシオール兄さんの隣に座って、フラグが折れない人間を、私は初めて見た。


何のフラグも立っていない。折れてもいない。ただ隣に座っている。それだけのことが、奇跡みたいに見えた。

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