第十二話 8はたくさん
都会の片隅にあるフラグ家の朝は静かだった。
ヘシオール兄さんとオレナイちゃんが並んで朝食を食べている。オレナイちゃんが味噌汁のようなものをふうふうしている横で、兄さんが黙々とパンをちぎっている。会話はほとんどない。ときどきオレナイちゃんがパンの籠を押しやって、兄さんが小さく頷く。それだけなのに、二人の間の空気が妙に柔らかかった。
「じゃあ、行ってくるわね」
タッタ姉さんがエプロンを外して玄関に向かう。異世界レストランの早番シフトだ。
「タッタお姉ちゃん、行ってらっしゃい。それと店長さんに『そろそろウナギの季節だね』って言っておいて」
「了解。……ウナギって何かしら?」
「……まあ、言えば伝わるから」
タテル兄さんは今朝も出かけていた。聞くところによるとヨメさんが出産するらしく、村の療養所に付き添っている。
普通の朝だった。幸せな朝だった。
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食器を片付けて、私は縁側に出た。
空が青かった。この世界の空は、いつだって無遠慮に青い。
——終わった、と思った。
オレナイちゃんは助かった。村もできた。結婚もした。家族は七人になった。
こういうときって、だいたい——。
声が降ってきた。
『よう』
「……出た」
『ひどい挨拶だな。神のお告げに対して』
翻訳神だった。頭の中に直接響く、低い声。
「用件は? 業務連絡?」
『…………いや』
間があった。いつもの語彙を探す沈黙ではない。言葉はあるのに、口に出すのをためらう沈黙だった。
『今回のお前の働きは、翻訳神の俺も冷や汗ものの越権行為だ。システムを理解して無理やり運命を変えるギリギリの行為だ。運命神よりも上位の神にバレたらまずいかもしれない』
「だって見えるんだから仕方ないじゃない……それで?」
『まあ、お前の非を責める話じゃない。個人的な話だ。聞いてくれ』
翻訳神が「個人的な話」をするのは初めてだった。
私は縁側に座り直した。
「……聞くわ」
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『まず、お前たち兄弟の村がなぜフラグ村なのか、という事だが』
「フラグって名前の土地神がいたんでしょ」
『俺の事だ』
「うん、知ってる」
『だが俺の元の名前はフラグじゃない。お前と同じテクニックを思いついて、わざと改名した』
息が止まった。
同じテクニック。村の名前を変えて、住民の姓を変えて、運命の範囲を変える——オレナイちゃんを救ったあの手法を、翻訳神はレンアイフラグ村が生まれるよりずっと前にやっていた。
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『次に、お前がなぜミエルという名前になったか、だが』
「命名神のお告げがあったって……聞いたけど……まさか」
『あれも俺だ。お前をどうしてもフラグガ・ミエルの運命にしたかった』
お告げは命名神の権限だ。翻訳神には資格がない。それを偽装した。
私の名前は——両親が神の導きだと信じて付けた名前は——越権行為だった。
胸の奥が冷たくなった。
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『最後に、どうしてお前がこの世界に転生したか、だが……』
「転移ゲートの事故でしょ?」
自分の声が震えていた。
「……違うの?」
翻訳神が答えない。
「そうじゃ……ない?」
『俺が事故に見せかけて、わざとお前を召喚した』
空が無遠慮に青かった。
『フラグ村の翻訳精度は最低だった。俺一人じゃ処理しきれなかった。俺は——翻訳を手伝える人間が欲しかった。日本語が読めて、校正ができる人間が』
前世で出版社に勤めていた、二十八歳のOLの私のことだ。
『だから村の名前を変え、お告げを偽装し、お前を召喚した。全部、俺がやった』
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
前世の人生があった。友達がいた。行きつけのカフェがあった。それを奪われた。
この世界の家族は好きだ。赤ペンの仕事にやりがいも感じている。でもそれは選んだのではなく、選ばされたのだ。
『分かってくれとは言わない、ただ——』
翻訳神の声が揺れた。
『分かってほしい』
——語彙力。
私は黙って立ち上がり、拳を握り、体重を乗せた。
ボディブロー。
『ぐおふっ……!?』
前のめりに倒れる翻訳神。
私は煙をあげる拳を払って、この最低の同僚に一瞥をくれてやった。
「これでチャラってことにしてあげる」
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それから暫く、翻訳神は連絡をしてこなくなった。
赤ペンで朱入れをすると、ちゃんと訂正されている。相変わらず語彙は少ないし辺境の翻訳はまだ怪しいが、仕事はしている。
生きてはいるらしい。
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ある明け方、足音で目が覚めた。
玄関の扉が勢いよく開いて、タテル兄さんが立っていた。目が真っ赤だった。
「生まれた」
家中がひっくり返った。
ヘシオール兄さんがしおりも挟まずに本を閉じた。オレナイちゃんが毛布を掴んで飛び出した。タッタ姉さんは早番のはずなのに、なぜかもう玄関にいた。
「行くわよ!」と私が叫ぶと、ワッタラが布団から半身を起こして言った。
「おう、この見舞いが終わったら——」
口を塞いだ。両手で。全力で。
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療養所のベッドで、ヨメさんが赤ん坊を抱いていた。フェンリルの耳がぴんと立って、尻尾がゆっくり揺れている。
赤ん坊は小さかった。鑑定したら戦闘力が既に12あった。さすがフェンリルの血だ。
タテル兄さんがベッドの横に膝をつき、赤ん坊の頬にそっと触れた。ストレージ∞に何でも放り込む大きな手が、この上なく慎重だった。
「名前はヨメルにしよう。ヨメと俺の名前を取ったんだ」
【フラグガ・ヨメル(運命:「フラグが読める」フラグの文字を読むことができる)】
私には分かる。この子はきっと、賢い子になる。
ヨメさんの尻尾の揺れが、少しだけ速くなった。
「タテル兄さん。これから大変よ。8まで数えられるようにならなきゃ」
「8まで?」
タテル兄さんの能力、アイテムストレージ∞——辺境の翻訳では「8」と誤訳された能力。
兄さんは、本当の8がどんな数字かも知らないまま半生を過ごしていた。
兄さんは赤ん坊を見下ろしたまま、家族の顔を見渡していた。
「俺」
「タッタ」
「ヘシオール」
「ミエル」
「ヨメ」
「オレナイ」
「ワッタラ」
七人。兄さんは腕の中の小さな命を見下ろした。
「ヨメル」
周りの家族の顔をぼうぜんと見つめて、兄さんはぽつりと言った。
「知らなかった。8って、こんなにたくさんだったのか」
タッタ姉さんが後ろから兄さんを抱きしめた。姉さんの目が赤いのは初めて見た。
姉さんはフラグ家が2人だったときから、兄さんを支えてきた。きっと私たちの知らない苦労をしてきたんだろう。
兄さんは手を広げて、みんなを抱きしめた。
ヨメさんの尻尾がぱたぱた揺れていた。
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夕暮れ。縁側に座って、赤ペンを手の中で転がしていた。
ワッタラが隣に座った。
「ねえ、ワッタラ」
「おう」
「私、学校が終わったら、やりたい事があるの」
「ミエルやめろ、それ死亡フラグだぞ」
私は、笑った。
「学校を始めるんだ」
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フラグガ・ミエルはその後、北部の新村に最初の学校を建てた。
教えたのは文字の読み方、数の数え方、ステータス表示の読み解き方。
「3以上=たくさん」で止まっていた子どもたちが、4を知り、5を知り、やがて100を数えられるようになった。
彼女が教えた土地では翻訳の語彙が増え、伏字が一つずつ消えていった。
人々は彼女を「未来視の大賢者」と呼んだ。
本人は「校正者」の方がしっくりくると言っていたが、辺境には「校正」という言葉がまだなかったので、誰にも伝わらなかった。
翻訳神が「校正」を訳せるようになるのは、もう少し先の話である。




