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第十一話 おはよう

──残り百十日。


ショーセ家のツノムシが動いていた。


ショーセ家の流通網──帝都の書店だけではない。各地のギルド待合室、宿場町の掲示板、辺境の行商ルート。その末端の隅々にまで、薄い小冊子が置かれた。


ヘシオールの書いた、たった数ページの物語。


冒険者たちが暇つぶしに手に取る。


「レンアイって何だ?」


「大いなる、って意味らしいぜ」


「聞いたことねえな。南の山岳民族の言葉だとよ」


首をひねる者、鼻で笑う者、黙って読み返す者──反応はさまざまだった。


だがその日の夕方、ある冒険者がステータス鑑定を使ったとき、見慣れない表示が一瞬だけ点滅した。


文字がちらついて、すぐに消えたが。

翻訳神のシステムが、新しい語彙の候補を認識し始めていたのだ。


言葉が、動き始めていた。


---


──残り九十日。


タテル兄さんが二ヶ月かけて開拓したルートを辿り、大移動が始まった。南方山岳部族の人々、家財道具、古い巻物──そのすべてを、タテル兄さんのアイテムストレージが飲み込んだ。


なんせ無限だ、いくらでも入る。

部族の子どもたちが、ストレージの入口を恐る恐る覗き込んでいた。


「くらい!」


「大丈夫だぞ、中は広い。たくさん入る」


「たくさんって、いくつ?」


「えーと……八……いや、もっとだな。たくさんだ」


子どもたちが笑う。タテル兄さんも笑う。


私はその光景を少し離れたところから見ながら思った。この子たちが新しい村で育つのだ。

村長との約束を守るために、彼らの学校を建てる必要があるかもしれない。

けど、学校を建ててくれそうな人は、今のところ見つからなかった。


---


──残り五十日。


新天地にたどり着いた。


北国の冷たい空気。南方育ちの部族の人々は寒さに顔をしかめたが、空の広さには目を見開いた。山のない地平線を、誰もが黙って見上げていた。


部族の代表がタテル兄さんの前に立った。


「あなたの名は」


「フラグオ・タテル。ただの行商人だ」


代表は空を見上げ、土を踏み、風の匂いを嗅いだ。


「この村を『レンアイフラグ村』と呼びましょう。大いなるフラグの御業を讃えて」


---


同時刻、帝都。


私は国王オムそばさんの前に立っていた。テーブルの上に三つの証拠が並んでいる。


ヘシオール兄さんが発見した古語辞書──学術。長老の巻物──口承。ヘシオールの小冊子──文学。


「以上の三つの文脈により、『レンアイ』という語が文化的に定着していることを証明いたします。つきましては──北部新領に『レンアイフラグ村』の名称での領土認可をお願いいたします」


国王は三つの証拠を順に手に取った。辞書を開き、巻物を広げ、最後にヘシオールの小冊子を開いた。


しばらく読んでいた。ページをめくる指が、途中からゆっくりになった。


「…………これを書いたのは、お前の兄か」


「はい」


「…………良い話だな」


印が押された。


こうして、『レンアイフラグ村』が正式に成立し、北の王国の地図にその名が載った。


---


──残り十日。


オレナイの籍をレンアイフラグ村に移す手続きが完了した知らせは、夜明け前に届いた。


オレナイは眠っていた。妖精の霊薬の効果が切れたのか、また具合が悪くなってしまったのだ。呼吸が浅い。医者が言うには、霊薬を使っても助かる見込みは半々だそうだ。


それは死亡フラグとは別の、ただの肉体の限界の話だった。

たとえ死亡は免れても、身体が一生動かないようなことも、十分に起こりうる。


私はステータス鑑定を使った。


名前が変わっている。


---


【レンアイフラグガ・オレナイ】


運命:「恋愛フラグが折れない」

   どんなフラグが立とうとも、恋愛フラグだけは折れない


死亡フラグカウントダウン:残り十日間──


---


姓が「フラグガ」から「レンアイフラグガ」に変わっていた。


彼女の死亡フラグは──もう「折れないフラグ」ではない。


ヘシオール兄さんが椅子から立ち上がった。顔は痩せ、目の下に隈があった。それでも、目だけはまっすぐだった。


兄さんがオレナイの手を握った。


ぱきん。ぽきん。ぺきん。


死亡フラグが折れた。

失敗フラグが折れた。

成功フラグが折れた。


次々とフラグが折れていく。

フラグの欄には、恋愛フラグだけが残っていた。


オレナイの指が動いた。兄さんの手を握っている指が、ほんの少しだけ力を込めた。


オレナイがゆっくり目を開けた。天井を見て、窓を見て、私を見て──兄さんを見た。


握り返した。


「おはよう」


兄さんは何か言おうとして、声が出なくて、もう一度口を開けて、また出なかった。ただオレナイの手を両手で包んだ。


廊下で、タッタ姉さんが天井を向いて長く息を吐いた。


---


その夜、フラグ家の食卓にはいつもより椅子が多く並んでいた。誰が並べたのかは分からない。たぶんタッタ姉さんだ。


タテル兄さんが指を折って数えていた。


「オレナイがこのまま家にいるんだったら、兄ちゃん、六まで数えられるようにならなきゃな。お土産の数が分からなくなる」


「タテル兄さん、七までよ」


「あれ、五の次って七だったっけ?」


オレコノーガが、ぺこりと頭を下げた。


「ご報告があります。ミエルさんと結婚しました」


「結婚したのか!?」


「魔王城で」


「しかも魔王城で!? うわー、兄ちゃんも見たかったなー!」


タテル兄さんにはちょっと報告が遅れてしまったけれど、私たちは正式に結婚した。

ヨメさんがすごく反応して、尻尾をぶんぶん振りながらタテル兄さんにひっついているのが可愛かった。


「じゃあ、今日は二人のお祝いね!」


タッタ姉さんが、張り切って料理を作ってくれた。

こんなに優しくて頼りがいのある姉さんなのに、どうして一番結婚が遅いんだろう。

姉さんを救う方法はまだ思いつかない。


オレナイが、ヘシオールの隣に座っている。まだ顔色は悪い。スープを半分飲んだだけでフォークを置いてしまった。


でも、座っていた。兄さんの隣に。椅子が七つ並んだ食卓で。


四人だった家族が五人になり、六人になり、七人になった。一人ひとりに名前があって、運命があって、椅子がある。


タテル兄さんは今日、七まで数えた。


いつか八まで数えなきゃいけない日が来るかもしれない。その日が来たら、また椅子を増やそう。

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