第十話 大いなる言葉
南方山岳地帯の道は、道と呼ぶにはあまりに不親切だった。
岩肌を爪で引っかいたような段差がひたすら続いて、三歩ごとに足首が悲鳴を上げる。前世でヒールを履いて丸の内を歩き回った経験が役に立っているかは怪しいけれど、少なくとも足首の可動域だけは鍛えられている。
登りきった先に、小さな集落があった。家屋は二十もない。いくつかは黒く焼けていて、数日前までの魔王軍の占領の跡が残っている。けれど人々はもう修繕を始めていた。焼け残った梁を運ぶ男たち。壁の隙間を泥で埋める女たち。その足元を子どもたちが駆け回る。
——山の民は、止まらないのだ。
長老は集落の奥、岩壁を刳り抜いた洞穴にいた。小柄な老人。顔中に刺青がある。額から顎まで、部族の古い文字で隙間なく覆われている。
私は、ごくりと唾をのんで尋ねてみた。
「あの——『レンアイ』って言葉、ご存知ですか」
長い沈黙のあと、長老は言った。
「使う」
「ほんとですか!?」
「山の名前に残っておる」
長老が指さしたのは、村の背後にそびえる一番高い山だった。尖った頂が雲を突き刺している。
「あの山を、我らは『レンアイ・タカネ』と呼ぶ。——『大いなる高嶺』という意味だ」
私は息を呑んだ。
「かつてはもっと広く使われておった。大いなる川、大いなる森、大いなる火。全ての偉大なものの前に置く言葉だ」
レンアイは——「大いなる」だった。恋でも、愛でもなく。偉大なるもの全てに冠する、根源的な言葉。
「だが平地の人間どもが来てから、我らの言葉は使われなくなった。お前たちの辞書には載っておらんだろう」
「……載ってないです。でも、載せたいんです」
「何のために」
「大切な人を、守るために」
言ってから、企画書もエビデンスもない自分に気づいた。新しい村の村人になってもらうのに、どうやってこの人たちを説得するのかさえ、考えていなかった。
でも長老は、初めて笑った。刺青に覆われた顔の筋肉がわずかに動いて、目尻に深い皺が寄った。
「ならば証をやろう」
取り出されたのは、革に包まれた巻物。部族の公式記録——鑑定魔法のステータスを代々書き写したものだった。そこには、「レンアイ」の使用例が数百年分、びっしりと記されていた。
「レンアイ・チカラ」——大いなる力。「レンアイ・イノチ」——大いなる命。「レンアイ・キズナ」——大いなる絆。
この地域の翻訳神は、「レンアイ」を当たり前のように使っていたのだ。
「この言葉を使う者がまた現れるとは。……大いなる、か。忘れられるには惜しい」
「ありがとうございます。あの——もうひとつ」
私は、本題を切り出した。北の地に新しい村を作ること。住みたい人がいれば来てほしいこと。
長い沈黙。洞穴の外から子どもたちの笑い声が聞こえた。
「我らの言葉を名前にする村か。……面白い。ただし条件がある」
「条件?」
「村の子どもたちに、我らの言葉を教えること。忘れられた言葉を、次の世代に伝えること」
村には子ども達がいた。好奇心いっぱいの目。泥だらけの頬。あの子たちが新しい村で言葉を教わり、使い、次に渡していく。
——言葉は、使う人がいなければ死ぬ。使い続ける人がいる限り、生き続ける。
私は、しっかりと頷いた。忘れない。
「約束します」
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南方への旅を終えて、私たちはようやく町へと帰還した。
タテル兄さんとヨメさんもすでに戻って来ていて、妖精王の妙薬を飲ませてくれたらしい。
どんな病にも効くという触れ込みだったが、それでもフラグガ・オレナイのフラグは決して折れない。
相変わらず浮かぶ死亡フラグ。
残り、150日。
私はその日、家族を集めて緊急会議を開いた。
フラグ家のテーブルに、文献が二つ並んでいた。
実はオムそば国王は、村の名前を公に認めるためには、三つの証拠が必要だと言っていた。
まずは『語源の証明』。ヘシオール兄さんの学術書に「レンアイ」がどうして生まれたのか、詳しく書かれている。
そして『現用の証明』。口承で使われていることの証明。長老の巻物の写しがその証拠だ。
残るは、『文化的定着の証明』。この言葉を使っている物語などの出版物があること。あいにく、南方でその物語を見つけることはできなかった。
村民を移住させればそれで済むと思っていたのだけれど、三つ目の関門がまだ残っていた。複数の問題を一人で解決させることはできない。どうしても家族の力が必要だった。
私はまず、自分の目的をみんなに伝えた。
今のオレナイの名前は「フラグガ・オレナイ」。運命は「フラグが折れない」——恋愛も死亡も、全てのフラグが折れない。
でもレンアイフラグ村に籍を移せば、姓は「レンアイフラグガ」になる。運命は「恋愛フラグが折れない」に限定される。死亡フラグは対象外となり、ヘシオール兄さんの力で折れるようになる。
フラグの文字は、私にしか読めないし、人の名前を日本語で解釈できるのも私だけだ。名前を変えると運命が変わるなんて話を、簡単に信じてもらえるとは思わなかった。けれども、みんな真剣に聞いてくれた。
「分かったわ、事情を話して、オムそばさんに掛け合ってみる。ひょっとすると、二つだけでも十分かもしれないし」
「タッタ姉さん、経験上、私の事情を理解してくれる人はとてもまれだと思う。それに3つあったら確実に議会を通せると言う意味だと思うの。またショーセ家に会いたいんだけど、いつお店に来るかわかる?」
「分からないけど、会ったら伝えておくわ。いつ呼ばれても行ける準備をしておきなさい」
ヘシオール兄さんは黙っていた。視線が巻物の写し、学術書、それから自分の手をさまよう。本を持つために生まれたような長い指。
椅子が鳴った。
「僕も……ショーセ家に会いに行きたい」
全員がヘシオール兄さんを見た。いつもの、世界を少し遠くから見ている目ではなかった。焦点が合っている。ここに、今に。
「僕は『レンアイ』という言葉について、少しは勉強している。資料探しでも、他の手伝いでも、なんでもする……だから」
「ヘシオール兄さん、けどオレナイの看病は……」
「今はタテル兄さんが持ってきた薬が効いているから、大丈夫。一人で歩けるぐらいにはなっている」
ヘシオール兄さんの目は、少し揺らいでいた。兄さんは、オレナイの死亡フラグを正確に読むことができないはずだ。けれども、オレナイが倒れた日から、彼女にずっと何かのフラグが立っていて、今も折れていないことを理解している。
「何が出来るかは分からない。でも、オレナイのために、僕にできることは——」
兄さんが自分の右手を見た。フラグを折る手。
「なんでもする。なんでもしたいんだ。フラグを折る以外の、全部だ」
空気が変わった。タッタ姉さんが最初に動いた。
「店長にも聞いてみるわ。他のお客さんにも、ツボンさんの知り合いがいるかもしれない。お店に来るまで待っていられないもの」
タテル兄さんが続く。
「まかせろヘシオール。兄ちゃん本は読めないけど、たくさん配ることはできるぞ」
「あ、タテル兄さんには、これから南方の人たちを新しい村まで送ってもらいたいんだけど……」
「そうか、じゃあ本の宣伝だけしておく」
ヘシオール兄さんが小さく笑った。
「…………ありがとう」
——初めて、兄さんが自分から家族の輪に入った瞬間だった。
窓の外で太陽が沈んでいく。赤ペンをポケットの中で握り直した。冷たい金属の感触が、指先に残った。
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その翌日。私たちはショーセ家に直接会うことになった。
ショーセ家の書斎は、壁そのものが本でできていた。天井まで届く書架。古い紙とインクの匂い。前世で通った古書店を思い出す、時間が凝縮されたような空気。ヘシオール兄さんの目が書架に吸い寄せられるのを、私は横目で見ていた。
タッタ姉さんの紹介でここまで来た。姉さんは「あとはあなたたち次第よ、がんばって」とだけ言って、連絡先の書かれたメモを渡してくれた。
窓際の執務机に座る男——ショーセ・ツボン。五十代半ば、白髪交じりの髪、仕立てのいい上着の袖口にインクの染み。帝都の書店流通の二割以上に関与するパトロンであり、自らも書く人間だった。
「話は聞いている。『レンアイ』という古語を復活させたいと」
「はい」私が一歩前に出た。「この言葉を使った作品を出版して、文化的定着の三つ目の証拠にしたいんです。国王への認可申請に使います」
ツボンのペンが止まった。ようやく顔を上げる。
「——面白い」
椅子を回し、背後の書架を見上げた。
「我が家は代々、言葉を世界に定着させてきた。鑑定魔法で表示されるステータスで『死亡』という概念が帝都で伏字化されなくなったのは、曾祖父が書いた戦記小説のおかげだ」
ツボンが振り返った。
「だが、それには二十年かかった。お前たちには百五十日もない」
「……はい」ヘシオール兄さんが唇を引き結んだ。
「『ツンデレ』の件もあったが、今から原稿にかかったとして、出版までは数ヶ月みてもらわなければならない。とても間に合わん」
私の胃が縮んだ。ここで断られたら終わりだ。
だがツボンは、断る代わりに——ヘシオール兄さんの目をじっと見た。
「お前、本を読む目をしているな。書いてみろ」
兄さんが瞬いた。
「でも——ただ書くだけじゃなくて、文化的定着が必要で……それには、たくさんの人に読まれないと——」
「あら。たくさんの人に読まれる必要はないはずよ」
書斎の隅から声がした。本棚に寄りかかった女が一人。インクの染みだらけのエプロン、目の下に隈。ショーセ・ツサッカ——ショーセ家の女流怪奇小説作家。いつからそこにいたのか。
「言葉の定着の定義は『複数の独立した文脈で同じ言葉が使用されていること』。だから一冊の大ベストセラーよりも、三つの異なる文脈で使われている方が証拠として強いわ」
私の脳が回転した。前世OLの監査対応スイッチが入る。
「三つの文脈——兄さんが見つけた古語辞書。部族の長老の証言と巻物。兄さんがこれから書く物語」
自分でも驚くほど、声に力が入っていた。
「学術・口承・文学。三つの独立した文脈で『レンアイ』が使用されていれば——」
「通るわよ、普通の審査なら」ツサッカがあっさりと肩をすくめた。
「通す。絶対に通す」
ツボンがゆっくりうなずいた。
「原稿を持ってこい。校正と出版は引き受ける。——ただし、一つ条件がある」
「条件?」
「嘘を書くな」
ヘシオール兄さんが黙った。
「お前が本当に感じたことを書け。お前の言葉で」
「あなたったら、またハードル上げて……」
「私が本を出すと言った以上、生半可なものは認めん」
ツボンが立ち上がり、書架の一冊に指を置いた。触れただけで、開きはしなかった。
「存在しない感情を記録するのが小説だ。だが、存在しない感情は——本物の感情からしか生まれない」
長い沈黙が書斎を満たした。
「——わかりました」
ヘシオール兄さんの声は、静かだった。
「書きます」
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——ヘシオール——
残り百三十八日。
深夜のフラグ家。タテル兄さんは移民の移動ルートの開拓に出かけていた。
食卓にランプが一つ。ヘシオールが一人、紙に向かっている。
机の横に、書き損じの紙が山になっていた。十日以上、こうしている。
何を書けばいい。
レンアイ。大いなる。全てを包む。図書室でその言葉を見つけたとき、ただ「きれいだ」と思っただけだった。
でも今は分かる。
大いなる、というのは——
顔が浮かんだ。
入学式の日。誰もヘシオールの隣に座らなかった教室で、一人だけ椅子を引いた少女がいた。
「ここ、空いてる?」
「——座らない方がいい。僕の近くにいると、フラグが折れる」
「知ってる。でも私のフラグは折れないから」
あの日から、ずっと隣にいてくれた。
僕の近くにいると不幸になると、誰もが離れていった中で、彼女だけが折れなかった。
レンアイという言葉の意味を、僕は辞書で知ったんじゃない。彼女に教わったんだ。
ペンが動き始めた。
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むかし、全てのフラグを壊す少年がいました。
少年の近くにいると、幸せのフラグが折れてしまうので、誰も少年に近づきませんでした。
ある日、一人の少女が少年の隣に座りました。
少年は言いました。「座らない方がいい」
少女は笑いました。「私のフラグは折れないから」
少年は不思議に思いました。
自分の手は何でも壊してしまうのに、なぜこの少女のフラグだけは折れないのか。
少年は怖くなって、何度も少女を遠ざけようとしました。
けれど少女のフラグは、そのたびに静かに、けれど確かに立ったままでした。
ずっと後になって、少年は知りました。
少女のフラグは「レンアイ」——大いなるフラグだったのです。
大いなるものは、折れません。
全てを包むものは、壊れません。
少年はようやく気づきました。
自分が壊してきたものは、小さなフラグばかりだったのだと。
本当に大切なものは、最初から折れなかったのだと。
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最後の一文字を書き終えたとき、涙が一滴、紙の上に落ちた。インクがにじんだ。
——下手くそだな、僕の文章。
——でもこれが、僕の本当のことだ。
背後で、足音がした。
振り返ると、オレナイが立っていた。寝間着のまま、眠そうな目をこすっている。
身寄りのなかったオレナイは、フラグ家で看病を受けていた。同じフラグ村の出身者として助け合うのは当然だという気風が辺境の村にはある。フラグの姓を名乗るもの同士、家族も同然なのだ。
「何してるの、こんな時間に」
「——なんでもない」
紙を隠そうとする。オレナイが覗き込む。
沈黙。
「ヘシオール」
「な、何」
「これ、私のこと?」
「ち、違う。架空の話だ。ツボンさんに嘘を書くなって言われたから、その——体験をもとに——」
「嘘を書くなと言われて、私のことを書いたの?」
「…………はい」
オレナイが笑った。入学式の日と同じ、眉が少しだけ下がる笑い方だった。
「じゃあ続きも書いて。ちゃんと最後まで」
「——最後って、どういう」
「少年と少女がどうなったか、まだ書いてないでしょ」
「……それは——まだ、起きてないから」
「じゃあ起こして。物語の中で」
「…………」
「——うん」
オレナイが隣の椅子を引いた。入学式の日と同じように、当然の顔で座った。
二人で一つのランプを囲む。
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——ミエル——
廊下の暗がりで、私は壁に背をつけて立っていた。
喉が渇いて水を飲みに起きたら、食卓のランプが灯っていた。兄さんの背中と、その隣に座る栗色の髪が見えた。
私は口元を両手で押さえた。
——兄さん。あなたは恋愛を知らないと思ってた。
——ごめん。とっくに知ってたんだね。
声は出さなかった。この時間を壊したくなかった。
——あとは私の仕事だ。
音を立てずに廊下を戻り、自分の部屋で複数の申請書類を引き寄せ、ペンを取った。
フラグ家の夜は、二つの灯りを抱えて更けていった。




