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エピローグ 恋愛小説エンド

馬車が揺れている。


ツエンドは窓の外を見つめていた。帝都の街並みはとうに消え、辺境の緑ばかりが続いている。手元には小さな鞄一つ。没落した令嬢に許された荷物は、それだけだった。


行き先はショーセ家。


それしか知らされていない。


これから彼女はショーセ・ツエンドになる。


——ショーセツ・ツエンド。


——小説の終わり、ですわね。


——……ふさわしいじゃありませんの。


——わたくしの物語は、ここで終わる。


金髪ドリルの巻きが、馬車の振動でほどけかけていた。直す気にもなれなかった。


馬車が止まる。


---


屋敷は思ったより質素だった。


帝都の邸宅を知る目には、田舎の旧家に過ぎない。ただ、門から玄関までの短い道の両側に、低い本棚が並んでいた。雨除けの庇つきで、誰でも手に取れるようになっている。辺境では見たことのない光景だった。


出迎えたのは四人。


ツボンは威厳のある老人だった。壁一面の本棚を背に、静かに立っている。帝都の書店流通の二割以上に関与する人物とは思えないほど穏やかな佇まいだが、目だけが鋭い。本の背表紙を読むように、ツエンドを見ていた。


ツサッカは柔らかく微笑む婦人だった。


「まあ、あなたがツエンドちゃんね」


母のような温かさ。——ただし、その目の奥に、何か期待のようなものが光っていた。


ツノムシは廊下の奥からこちらを窺っていた。目が合うと逸らす。何を考えているのか分からない。ただ、両手に抱えた本の山だけがやたらと存在感を主張していた。


そして——ツカ。


「君がツエンド?」


「ハーメ・ツエンドですわ。以後お見知りおきを——」


「荷物、それだけ? 身軽だな、没落令嬢は」


「——は?」


第一印象、最悪。


---


ツボンが咳払いをした。


「ゆっくりしていくといい」


「……ショーセ家の名誉を傷つけぬよう、励んでまいります」


「そうか」


一拍おいて、ツボンは言った。


「一つ伝えておこう。まだ聞いていなかったかね」


「……何をですの?」


「我々ショーセ家は、小説の流通を通じてこの国の鑑定魔法文化の発展に寄与した功績により、新たに『レンアイ』の名を冠することを許された」


「レンアイ……?」


「『偉大なる』という意味の古い言葉だそうだ」


穏やかな声だった。


「今後我々は——レンアイショーセ家を名乗ることになる」


レンアイショーセ。


ツエンドはその響きを、まだ何も知らずに聞いている。


帝都の学術辞書には載っていない言葉だった。権威ある文献しか読んでこなかったツエンドには、それが何を意味するのか分からない。

——かつて王子が〝ツンデレ〟を〝ツンドラ〟と誤読したように、権威ある辞書だけでは読み解けない言葉が、この世界には増え始めている。


「立派なお名前ですわね」


「そうだな」


ツボンは穏やかに笑った。本当の意味は、まだ教えなかった。


---


その夜、あてがわれた部屋で荷を解いた。


小さな鞄の中身は、着替えが二組と、ハンカチと、髪留めが一つ。帝都の屋敷にあった宝飾品も、調度品も、家紋入りのドレスも、すべて債権者に持っていかれた。


部屋は狭いが清潔だった。窓の外に、庭の緑が見える。


ふと、昼間通りかかったツボンの書斎を思い出す。


棚に並んでいた本の背表紙。古今東西の——恋愛小説。


壁の一面がまるごと、それだった。学術書でも歴史書でもなく、恋愛小説。帝都の名家の書斎にはあり得ない光景だ。


それから、ツサッカの、あの目の輝き。


あれは母の温かさではなかった。


恋愛小説作家が、面白いネタの到来を予感するまなざしだった。


ツンデレの概念を世界に広めた、女流怪奇小説作家。あの人がツエンドを見つめていたのは、慈愛ではなく——取材だ。


そして廊下ですれ違ったツノムシ。大衆流通担当の『恋愛小説の虫』は、ツエンドとツカを交互に見て、そわそわしていた。


——…………この家、何かがおかしくありませんこと?


答えてくれる者はいなかった。


---


翌日から下働きが始まった。


没落令嬢に与えられるのは、客人の椅子ではない。帝都で使用人に任せていたことを、自分の手でやる。洗濯。掃除。食事の支度の手伝い。


指先に水ぶくれができた。爪の間に洗剤が沁みた。背中が痛い。腰が痛い。金髪ドリルが邪魔で、三日目にひとつ結びにした。


ツカは顔を合わせるたびに一言多かった。


「皿の持ち方も知らないのか、帝都の令嬢は」


「知っていますわ! こう——」


ガシャン。


「…………」


「…………」


「……掃除道具、持ってくる」


「結構ですわ、自分でやりますから!」


「破片で手を切るだろ。動くな」


——ありえませんわ。


——どうしてわたくしがあのような無礼な男と同じ屋根の下で暮らさねばなりませんの。


——しかも——掃除道具だけは、すぐに持ってくるのが腹立たしいですわ。


---


一週間が過ぎた。


二週間が過ぎた。


ツエンドは少しずつ、この家の空気に慣れていった。


朝はツサッカと一緒に台所に立つ。婦人は料理をしながら小説のプロットを独り言のように呟いていて、ツエンドが「それ、聞いていてもよろしいの?」と訊くと、「聞いて聞いて、感想が欲しいの」と満面の笑みで答えた。


昼はツノムシの手伝いで本の仕分けをする。ギルドの待合室に届ける分、村の貸本屋に届ける分、帝都の書店に卸す分。辺境にも本を届けるネットワークの末端に、ツエンドはいつの間にか組み込まれていた。


夕方はツボンの書斎の掃除。棚の本に手を触れるたびに、背表紙の言葉がツエンドの中に積もっていく。


「読みたいなら読むといい」


「……よろしいの?」


「本は読まれるために在る。飾られるためではない」


一冊手に取った。やはり恋愛小説だった。

帝都では低俗とされていたジャンルで、自分でも読む機会があるとは思わなかった。


ページを開く。


読み始めたら、止まらなかった。


---


ある日、庭の草むしりを命じられた。


帝都では庭師がやることだ。しかし今のツエンドに選ぶ権利はない。

膝をつき、泥に手を汚し、一本一本抜いていく。


知らない草ばかりだった。どれが雑草でどれが花か、区別がつかない。

帝都の庭園は完璧に整えられていて、雑草など見たことがなかったのだ。


手を伸ばす。


「おい」


背後から声がした。


「その花に触るな。それは雑草じゃない」


振り返る前に、ツカの手が伸びてきた。


ツエンドの手を止めるために——


指先が、触れた。


泥のついた手と、インクの染みた手。


「…………」


「…………」


はっとして顔を上げる。目が合う。


庭の午後の光の中で、二人は初めて、まっすぐに見つめ合った。


ツカの目は、本の背表紙を見るときと同じだった。——いや、違う。もっと、怖がっている。


ツカが先に目を逸らした。


「……気をつけろ」


それだけ言って、背を向けて屋敷に戻っていく。


ツエンドは泥だらけの手を見つめた。


指先に、まだ温度が残っている。


——…………なんですの、今の。


胸が一つ、鳴った。


---


窓の奥で、ツノムシがこちらを見ていた。本を抱えたまま、目を輝かせている。


その隣で、ツサッカが微笑んでいた。あの目だ。取材の目。恋愛小説作家が、物語の始まりを目撃したときの目。


ツボンは書斎で恋愛小説を読んでいた。読み終えた本を棚に戻し、新しい一冊を手に取りながら、誰にともなく呟いた。


「存在しない感情を記録するのが小説だ。——だが、たまに現実が追いつくこともある」


---


こうして没落したハーメ・ツエンドは、レンアイショーセ・ツエンド(恋愛小説エンド)となった。


レンアイショーセ・ツカ(恋愛小説家)と恋に落ちるのは——この世界のお約束に従えば——必然だったのだ。


【レンアイショーセ・ツエンド(運命:「恋愛小説エンド」恋愛小説のような終わりを迎える運命)】

【性格:ツンデレ】

【称号:没落令嬢】

【備考:本人はまだ認めていない】



(小説エンド)

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