エピローグ――やっぱり残業かよ!
(あ、あそこの排水溝、ちょっと詰まってるじゃん)
地理の授業中。私は、明るい窓際で頬杖をついていた。机の脇にひっかけたカバンには、小さな木製のスプーンと黒猫のチャームがぷらんぷらんと眠たげに揺れている。
私の名前は、釈 真莉愛。カトリック系の女子高「聖フォンス女子学園」に通う十七歳だ。
「――このように、現在のマヤ王国は立憲君主制でありながら、非常に高度で独自の発展を遂げた最先端科学を有し、宇宙開発やITの分野において世界のリーダー(トップシェア)として君臨しています」
教壇の上でチョークを走らせる、担任で社会科(地歴公民担当)の八洲先生の授業はいつも面白くて、クラスの誰もが眠らずに聞き入ってしまう。
「マヤ王国の特徴は、緑豊かな深いジャングルの合間に、最先端の鉄とガラス、そして伝統的なマヤ建築が完璧に融合した、美しい超高層ビル群です。国連の調査でも世界一クリーンな観光都市として栄えていますね。現代のマヤの人々は、伝統的な民族衣装『ウイピル』をルーツにした洗練されたスマートウェアを身にまとい、スマートフォンで高度な数式やマクロを操りながら、今でも古代から連綿と続く星の運行、日食や月食に合わせたお祭りを盛大に行っています。まさに、『最先端科学』と『古代の精神』が完璧に調和した、世界でも稀な超・文明国です。また、『シャチク教』という、他のどの宗教とも系譜を共にしない独特の宗教が信仰されている国でもあります」
「ちなみに、マヤ王国の主要交易国がスペインと我が国であることは有名な事実です」
先生が黒板にマヤ王国の首都ティカルの輝かしいホログラム写真を映し出す。
窓の外を眺めながら、私は、ひとりため息をついた。
「さて、これは地理の教科書からは少し離れますが」
八洲先生が、ふっと悪戯っぽく微笑んで眼鏡の奥の目を光らせた。
「マヤ王国には、歴史を揺るがす興味深い『謎』やロマンがたくさん残されていることでも有名です。その中でも、特に私が個人的に気に入っている碑文をご紹介しましょう。それは、古代ティカルの全盛期を築いた若き絶対君主『ヤシュ・バラム』が、神殿の最も重要な石碑に刻ませた、以下の一文です」
八洲先生が、朗々とした、どこか低く色気のある声でそれを読み上げる。
『我が最愛の妻、唯一の正室にして奴隷たる神聖なる王妃シャク・マヤ。彼女は今日も、王宮の裏で嬉々としてドブをさらっている。その気高き泥まみれの姿こそ、我がティカルの至宝なり』
「なぜ奴隷の『シャク』が、国のトップである王妃、そして民を救った『先読みの聖女』として崇められているのか。そして、なぜ絶対的な王がその女性をこれほどまでに『愛おしい』と碑文に残したのか。これは、現代の考古学界においては未だに解明されていないミステリーとされています」
「そして、もうひとつの大きなミステリーがあります。これは、我が国にも関係があるかもしれないことです。マヤ王国に残されている樹皮紙や泥板のうち、特定の年代のものにだけ日本語と酷似した文字列をみることができます。この文字がどこからもたらされたのか、何を意味しているのかも未解明の謎です」
(ぴくっ)
私の眉が、かすかに痙攣した。
(恥ずか死ぬ!)
机に突っ伏して悶絶する私。すると……
「ここは、重要なところだからテスト対策として覚えておくように」
普段、テスト対策のことなんて言わない八洲先生にしては珍しい。
「ねえねえ真莉愛、この伝説の王妃の名前『シャク』だって。あんたの苗字と一緒だし、なんか親近感湧かない?」
前の席の佐々木瑠奈が、くるりと振り返って私の頭をつついてきた。
「そ、そうね。まあ……歴史のよくある偶然でしょ。あはは……」
引き攣った笑みを浮かべながら、私は制服のカーディガンの下、左の二の腕にある痣をそっと撫てた。
この痣は生まれながらにあるもので、はっきりした形はないけれど、なんとなくヒョウ柄のように見えなくもない。不思議なことに、痣の部分は今でも少しだけ盛り上がっている。それがなんだか愛おしくて、つい触ってしまうのだ。
「おーい、そこの窓際の釈」
「は、はいっ!?」
不意に低い声で名前を呼ばれ、はっとして顔を上げる。
気がつくと、教壇の片付けを終えた八洲先生が、いつの間にか私の席のすぐ目の前にまで歩み寄ってきていた。
先生は、出席簿を片手に私のノートを覗き込むと、その切れ長の美しい瞳を悪戯っぽく細めてクールに囁いた。
「オブジェみたいな虚無な目をしてるぞ。お前、今日は残業だ」
「解せぬ」
「ねえねえ、八洲先生ってかっこいいよね。私も残業に混ざっちゃおうかな」
佐々木瑠奈は、薬指のくぼみをさすりながら妖しげな笑いを浮かべた。
(こつん……) (第一部 完)




