↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第十一章 最終決戦――世界史への宣戦布告
PR
60/67

第58話 サンタ・マリア――すべての起源

 精神を完全に刈り取ったところで、私の声はもう一度、変わった。

 クレーム対応の声でも、審判の声でもない。ただの、人間の声だ。


「皆さん、お疲れでしょう」


 私はあらかじめ用意しておいた「マヤ特製の塩」と、水に塩とハチミツを溶かした特製ドリンクを、兵士たちの前に静かに差し出させた。

 経口補水液もどき、である。


「これは神の恵みです。飲めば、喉の渇きが癒され、腹の痛みが和らぐでしょう」


 兵士たちは、恐る恐る口をつけた。

 敵から差し出された正体不明の液体を無防備に受け取るなど、セキュリティリスク的にどう考えても失格なのだが、そんなロジックも回らないくらい、彼らは消耗し、疲弊していたのだろう。

 塩分とミネラルが、ゆっくりと体内に染み渡っていく。

 熱中症と栄養失調で霞んでいた意識が、ひとつひとつ、灯りをともすように再起動していく。


「……おいしい」


 誰かが、ぽつりと言った。


「体に、力が戻ってくる……」

「呪われた悪魔の地と聞いていたのに……こんな慈悲の水を、敵である私たちに……」


 戦意は、完全に消えていた。

 いや、消えたというより、最初からそんなものを持ち続ける体力が、とっくに尽きていたのだろう。

 私は、彼らの顔を一人ずつ、順番に見回した。

 鉄の鎧の下にいるのは、王の命令でやってきた、疲れ果てた人間たちだ。侵略者であることは変わらない。許すつもりも毛頭ない。だが、必要以上に傷つけることも、私の望みじゃない。


 だから最後に、「お土産」を用意していた。


「これを持って帰ってください」


 大量のサツマイモを詰め込んだタンプラインを、ポーターに運んでもらった。


「イース(サツマイモ)といいます。これから何ヶ月も船で帰るんでしょう? 毎日食べるといいですよ。ビタミンCが豊富だから、航海中の壊血病を完璧に予防できます」


 隊長が、震える手でタンプラインを受け取った。

 その目から、涙がこぼれた。

 音もなく、静かに流れる涙だった。ジャングルを二ヶ月かけて踏破してきた男の、疲弊と、安堵と、恥と、そのすべてが混ざり合った涙だった。

 いつのまにか、兵士たちも全員、声を殺して泣いていた。

 武器を投げ捨てた男たちが、泥の中にひれ伏して、私に向かって祈りを捧げている。


「ああ……!」


 隊長が、嗚咽まじりに顔を上げた。

 目が、真っ赤だった。頬が、涙でぐしゃぐしゃだった。あれほど威圧的だった顔が、今は子どものように歪んでいた。


「あなたは……! この不浄な我らを救うために、天から舞い降りた……! 聖母マリア様だ……! おお、サンタ・マリア……っ!」


 涙ながらに「マリア」と連呼して、額を地面に擦りつけて、嗚咽しながら拝み倒してくる。

 後ろの兵士たちも一斉に唱和した。


「サンタ・マリア……!」

「おお、聖母様……!」

「お許しください……っ!」


 私は三秒、その光景を眺めた。

 三秒、静かに眺めた。


 うーん。

 どうしようかな。


 いや。

 これは、看過できない。


 私はお気に入りのスコップを、地面に、ガンッ、と思い切り叩きつけた。

 布マスクを、引き剥がした。

 仁王立ちになって、腹の底から、やっくんに教わった発声法で、声を出した。


「誰がマリアやねん!」


 鳥が飛び立った。ジャングルが揺れた。クロが「がうっ」と飛び上がった。


「マリアじゃねーし! 真夜だし! 聖母マリアじゃなくて『マヤ』!」


 私は人差し指を突きつけ、全人生の中で最高のドヤ顔を決めて、言い放った。


「ここ、次のテストに出るから。絶対に覚えとけ、このクソ客どもっ!」


 広場が、静まり返った。


「ま、マヤ……」


 隊長が、涙でぐしゃぐしゃの顔で、呆然と復唱した。

 その目が、ゆっくりと瞬いた。何かが、その瞳の奥で書き換えられていく気配がした。


「……おお、神聖なるマヤ様……!」


 そのまま、また泥の中に額をこすりつけて拝み始めた。

 もういい。もう好きにしてくれ。

 私は盛大にため息をついてから、最後の仕上げに入った。


「ああ、そうそう」


 わざとらしいくらい思い出したふうを装って、慈愛に満ちたビジネススマイルを顔に貼り付ける。表情筋がつりそうだった。


「もう来なくてもいいんですけど、もし、また来ることがあるなら、そのときは『銑鉄』を持ってきてくれないかしら? 対価として、こちらからはカカオとトウガラシをご提供します。どう? 悪い取引じゃないでしょ? せっかくお知り合いになれたのですから、末永くよいお取引ができるといいですね」


 隊長が、泥だらけの顔のまま、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 さっきまで神の審判を下していた存在が、いきなり貿易交渉を始めたことへの困惑が、顔全体に滲み出ていた。


「は……はっ、必ずや本国にその旨復命いたします!」


 ぐしゃぐしゃに泣きながら、何度も何度も感謝の祈りを捧げながら、スペインの遠征隊は、カリブ海の方角へと歩み始めた。

 経口補水液の味を口の中に残したまま。サツマイモのカゴを大事に抱えて――それ、抱えるものじゃなくて頭で支えるものですよ――「マヤ」という名前を、心臓に刻みつけて。


「あの……それ、抱えるんじゃなくて頭にかけて運ぶんですよ」


 私の声が彼らに届いたかどうかは分からない。


(……どうか、道中が安全なものでありますように)


 その背中が見えなくなるまで見送ってから、私はふう、と長く息を吐いた。

 肩の力が抜けていく感じがした。

 コンキスタドールの上陸報告を初めて聞いたあの朝から、ずっと張り詰めていた心が、ようやく緩んでいく。


「……終わったな」


 やっくんが、隣で静かに言った。


「終わりましたね」


「がう~」


 クロが足元で、のんびりと大あくびをした。


 やっくんと私は、どちらから言うともなく、自然に拳を突き出していた。


 やっくんのごつくて大きな拳と、私のちんちくりんな拳が、「こつん」と合わさった。


 ただそれだけだった。言葉は、もういらなかった。

 ティカルの空は、日食が明けて、また燦然と輝いていた。


 さて、濃厚接触者の私は、一週間ほど隔離されてくるとしますか。


 ◇


 後日談がある。

 命からがら本国スペインへと帰還した遠征隊は、国王への報告書の冒頭に、最大級の畏怖を込めてこう記したという。


『あの東の海の奥地には、我々のすべての武力を無効化し、疫病を退け、壊血病の呪いさえも打ち破る、偉大なる聖女が支配する地があった。その地、およびその一帯を、彼女の御名を取って、「マヤ(Maya)」と呼ぶ――』


 現在のメキシコ南東部から中央アメリカにかけての地域で、世界史をひっくり返し、悠久の繁栄を続けることになる偉大な文明は、こうして「マヤ」と呼ばれるようになった。

 その名の起源は、聖母マリアでも、神秘の予言でも、英雄の武勲でもない。

 元社畜の転生者が、スコップで地面をぶっ叩いて、全力でツッコミを入れた、あの一言だ。


 歴史とは、そういうものなのかもしれない。


 ――「真夜」の名とともに


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。