第58話 サンタ・マリア――すべての起源
精神を完全に刈り取ったところで、私の声はもう一度、変わった。
クレーム対応の声でも、審判の声でもない。ただの、人間の声だ。
「皆さん、お疲れでしょう」
私はあらかじめ用意しておいた「マヤ特製の塩」と、水に塩とハチミツを溶かした特製ドリンクを、兵士たちの前に静かに差し出させた。
経口補水液もどき、である。
「これは神の恵みです。飲めば、喉の渇きが癒され、腹の痛みが和らぐでしょう」
兵士たちは、恐る恐る口をつけた。
敵から差し出された正体不明の液体を無防備に受け取るなど、セキュリティリスク的にどう考えても失格なのだが、そんなロジックも回らないくらい、彼らは消耗し、疲弊していたのだろう。
塩分とミネラルが、ゆっくりと体内に染み渡っていく。
熱中症と栄養失調で霞んでいた意識が、ひとつひとつ、灯りをともすように再起動していく。
「……おいしい」
誰かが、ぽつりと言った。
「体に、力が戻ってくる……」
「呪われた悪魔の地と聞いていたのに……こんな慈悲の水を、敵である私たちに……」
戦意は、完全に消えていた。
いや、消えたというより、最初からそんなものを持ち続ける体力が、とっくに尽きていたのだろう。
私は、彼らの顔を一人ずつ、順番に見回した。
鉄の鎧の下にいるのは、王の命令でやってきた、疲れ果てた人間たちだ。侵略者であることは変わらない。許すつもりも毛頭ない。だが、必要以上に傷つけることも、私の望みじゃない。
だから最後に、「お土産」を用意していた。
「これを持って帰ってください」
大量のサツマイモを詰め込んだタンプラインを、ポーターに運んでもらった。
「イース(サツマイモ)といいます。これから何ヶ月も船で帰るんでしょう? 毎日食べるといいですよ。ビタミンCが豊富だから、航海中の壊血病を完璧に予防できます」
隊長が、震える手でタンプラインを受け取った。
その目から、涙がこぼれた。
音もなく、静かに流れる涙だった。ジャングルを二ヶ月かけて踏破してきた男の、疲弊と、安堵と、恥と、そのすべてが混ざり合った涙だった。
いつのまにか、兵士たちも全員、声を殺して泣いていた。
武器を投げ捨てた男たちが、泥の中にひれ伏して、私に向かって祈りを捧げている。
「ああ……!」
隊長が、嗚咽まじりに顔を上げた。
目が、真っ赤だった。頬が、涙でぐしゃぐしゃだった。あれほど威圧的だった顔が、今は子どものように歪んでいた。
「あなたは……! この不浄な我らを救うために、天から舞い降りた……! 聖母マリア様だ……! おお、サンタ・マリア……っ!」
涙ながらに「マリア」と連呼して、額を地面に擦りつけて、嗚咽しながら拝み倒してくる。
後ろの兵士たちも一斉に唱和した。
「サンタ・マリア……!」
「おお、聖母様……!」
「お許しください……っ!」
私は三秒、その光景を眺めた。
三秒、静かに眺めた。
うーん。
どうしようかな。
いや。
これは、看過できない。
私はお気に入りのスコップを、地面に、ガンッ、と思い切り叩きつけた。
布マスクを、引き剥がした。
仁王立ちになって、腹の底から、やっくんに教わった発声法で、声を出した。
「誰がマリアやねん!」
鳥が飛び立った。ジャングルが揺れた。クロが「がうっ」と飛び上がった。
「マリアじゃねーし! 真夜だし! 聖母マリアじゃなくて『マヤ』!」
私は人差し指を突きつけ、全人生の中で最高のドヤ顔を決めて、言い放った。
「ここ、次のテストに出るから。絶対に覚えとけ、このクソ客どもっ!」
広場が、静まり返った。
「ま、マヤ……」
隊長が、涙でぐしゃぐしゃの顔で、呆然と復唱した。
その目が、ゆっくりと瞬いた。何かが、その瞳の奥で書き換えられていく気配がした。
「……おお、神聖なるマヤ様……!」
そのまま、また泥の中に額をこすりつけて拝み始めた。
もういい。もう好きにしてくれ。
私は盛大にため息をついてから、最後の仕上げに入った。
「ああ、そうそう」
わざとらしいくらい思い出したふうを装って、慈愛に満ちたビジネススマイルを顔に貼り付ける。表情筋がつりそうだった。
「もう来なくてもいいんですけど、もし、また来ることがあるなら、そのときは『銑鉄』を持ってきてくれないかしら? 対価として、こちらからはカカオとトウガラシをご提供します。どう? 悪い取引じゃないでしょ? せっかくお知り合いになれたのですから、末永くよいお取引ができるといいですね」
隊長が、泥だらけの顔のまま、ぱちぱちと目を瞬かせた。
さっきまで神の審判を下していた存在が、いきなり貿易交渉を始めたことへの困惑が、顔全体に滲み出ていた。
「は……はっ、必ずや本国にその旨復命いたします!」
ぐしゃぐしゃに泣きながら、何度も何度も感謝の祈りを捧げながら、スペインの遠征隊は、カリブ海の方角へと歩み始めた。
経口補水液の味を口の中に残したまま。サツマイモのカゴを大事に抱えて――それ、抱えるものじゃなくて頭で支えるものですよ――「マヤ」という名前を、心臓に刻みつけて。
「あの……それ、抱えるんじゃなくて頭にかけて運ぶんですよ」
私の声が彼らに届いたかどうかは分からない。
(……どうか、道中が安全なものでありますように)
その背中が見えなくなるまで見送ってから、私はふう、と長く息を吐いた。
肩の力が抜けていく感じがした。
コンキスタドールの上陸報告を初めて聞いたあの朝から、ずっと張り詰めていた心が、ようやく緩んでいく。
「……終わったな」
やっくんが、隣で静かに言った。
「終わりましたね」
「がう~」
クロが足元で、のんびりと大あくびをした。
やっくんと私は、どちらから言うともなく、自然に拳を突き出していた。
やっくんのごつくて大きな拳と、私のちんちくりんな拳が、「こつん」と合わさった。
ただそれだけだった。言葉は、もういらなかった。
ティカルの空は、日食が明けて、また燦然と輝いていた。
さて、濃厚接触者の私は、一週間ほど隔離されてくるとしますか。
◇
後日談がある。
命からがら本国スペインへと帰還した遠征隊は、国王への報告書の冒頭に、最大級の畏怖を込めてこう記したという。
『あの東の海の奥地には、我々のすべての武力を無効化し、疫病を退け、壊血病の呪いさえも打ち破る、偉大なる聖女が支配する地があった。その地、およびその一帯を、彼女の御名を取って、「マヤ(Maya)」と呼ぶ――』
現在のメキシコ南東部から中央アメリカにかけての地域で、世界史をひっくり返し、悠久の繁栄を続けることになる偉大な文明は、こうして「マヤ」と呼ばれるようになった。
その名の起源は、聖母マリアでも、神秘の予言でも、英雄の武勲でもない。
元社畜の転生者が、スコップで地面をぶっ叩いて、全力でツッコミを入れた、あの一言だ。
歴史とは、そういうものなのかもしれない。
――「真夜」の名とともに




