第57話 王妃の不当要求対応マニュアル・後編
決定的な一手は、翌朝に打つことにした。
交渉は一日では終わらなかった。隊長のプライドが、簡単に白旗を揚げることを許さなかったからだ。日が暮れるまで押し問答が続いた末、「明日、改めて協議する」という形で、その日は双方が引いた。
スペイン軍は、ティカルの防衛線の外側にキャンプを張った。
私はやっくんの執務室に戻り、いつもの丸椅子にぽすんと腰を下した。
「どうだ」
「半分まで来ています。あの若い兵士が崩れたのは大きかった。でも、隊長がまだ諦めていない」
「隊長が折れれば、全体が折れる」
「そうです。だから明日、最後の一手を打ちます」
「日食か」
「はい」
やっくんがしばらく黙った。
「……お前は、怖くないのか」
「何がですか」
「本当に日食が起きるのか。確信があるのか」
私は少し考えてから、答えた。
「ドレスデン絵文書の計算式は、現代の天文学と照しても誤差ゼロといわれています。日食は、明日の昼過ぎに必ず起きます」
「そういう意味ではない」
やっくんの金色の瞳が、静かに私を見ていた。
「万が一、計算が外れたら。日食が起きなかったら。その場合、お前はどうする」
「……その場合は」
私は一瞬、答えに詰まった。
「その場合は、私の持てる全語彙を尽くして、隊長を言い負かします。あの人、口は達者ですが論理が甘いので」
「……お前という奴は」
やっくんが、珍しくわずかに笑った。
「分かった。任せる」
「はい。――あと、やっくん」
「なんだ」
「明日は、私の隣で一番かっこいい顔でいてください。それも作戦の一部なので」
「……王への不敬もほどほどにしろ」
でも、嫌そうな顔は、していなかった。
「それから、シンヤ! あなた、明日はぜーーーったいに静かにしてなさいよ! いい!?」
「はいはーい」
なんて生意気な子!
◇
翌朝のスペイン軍のキャンプは、昨日より明らかに静かだった。
観測者の報告によれば、夜通し眠れなかった兵士が多数いたという。あの若い兵士の言葉が、夜の間にキャンプ中に広がったのだろう。
「イシュ・アハウ。隊長が、再び交渉を求めています」
「分かりました。出ます」
防衛線の前に立つと、昨日より顔色の悪い隊長が、それでも精いっぱいの威圧を纏って立っていた。
「昨日の言葉を撤回する気はないか」
「ありません」
「ならば、力尽くでも」
「お試しください。ただ、その前に少しだけ時間をください」
「何のためだ」
「我が国の神が、あなた方に直接、メッセージをお伝えしたいそうです」
隊長が、眉を寄せた。
「……何を企んでいる」
「企んでいません。ただ、もう少し待っていてください」
私はやっくんの横に並び、スコップを両手でしっかりと握った。
時間を確認する。
天文学チームとの計算では、あと十分で始まるはずだ。
スペイン軍は、不審そうにこちらを見ていた。ティカルの兵士たちは、微動だにしない。クロが、私の足元で低く、長く、喉を鳴らしていた。
五分が過ぎた。
スコップを握る手がじっとりと汗ばむ。
呼吸が浅くなる。
隊長が「もういい、進め」と言いかけた、その瞬間だった。
「がう」
シンヤを背に乗せたクロが天を見上げて一声だけ吠えた。
その声を聞いた誰かが、空を見上げる。
太陽の縁に、欠けが生じ始めていた。
最初は、ほんのわずかだった。見間違いかと思うほどの、小さな欠け。しかしそれは、じわじわと、確実に、広がっていった。
「……あれは」
スペイン兵の誰かが、声を上げた。
「太陽が……欠けていく……」
(ここだ)
私は深く息を吸った。
腹の底から声を出す。やっくんに教わった、広間全体に響く発声法で。
「セニョーレス!」
全員の視線が、私に向いた。
「我が夫たるクフ・アハウ、神聖なる王の警告を無視したあなた方に、これより神の審判を執行します」
私は、ヘドロ用スコップを、天に向かって、高く、高く、掲げた。ちんちくりんな私ができる精いっぱいの背伸びとともに。
「――ヨハネの黙示録に書かれた、『終わりの時』を。とくとご覧あれ!」
その瞬間から、世界が変わっていった。
じわじわと、しかし確実に、光が失われていく。
青い空が紫に変わり、紫が藍に変わり、藍が漆黒へと変貌する。
ジャングルの鳥たちが、夜と勘違いして一斉に寝床へと飛び立った。
虫たちが夜の声で鳴き始める。
昼間の満天の星空が、ティカルの上に広がった。
「ひ、光が消えた……!」
「太陽が、死んだ……っ!」
スペイン兵の隊列が、悲鳴とともに音を立てて崩れた。
一人が膝をついた。それが連鎖した。屈強な男たちが、鉄の鎧のまま泥の中に膝をつき、胸の前で十字を切る。唇が震えている。涙が頬を伝っている。
「本当に……黙示録の時が……!」
「神の怒りだ……我々は、してはいけないことをしてしまった……!」
私は胸元のタトゥーを、暗闇の中で静かに光らせた。
蛍光インクの蛇が、漆黒の空の下で妖しく輝く。
このために露出の多いドレスを用意したのだ。
効果は、バツグンだ。
「かーちゃん、すげえな!」
空気ーっ!
いま、一番の盛り上がりなの!
かあちゃん言ったよね? 昨日。
今日は、絶対静かにしてろって!
日本語だからスペインの皆さんには通じないけれども、そういう問題じゃない。
まったく、誰に似たのかしら……
「こほん」
シンヤの乱入でゆるんでしまった場の空気を咳払い一つで元に戻す。
隊長の目が、私を見た。
膝をつかず、十字も切らず、ただ真っ青な顔で、まっすぐに私を見ていた。
プライドが、まだそこにあった。崩れかけながらも、まだ立っている。
私は、隊長に向かって、静かに歩み寄った。
一対一で話せる距離まで。
そして、声を落とした。スペイン語で。周りの兵士たちには聞こえない、小さな声で。
「隊長。あなたは賢い人だと思います」
隊長が、わずかに目を細めた。
「ここに来るまでの苦難を、あなたは全員を見捨てずに率いてきた。それは本物の力です。私は、それを知っています」
「……何が言いたい」
「生きて帰ってください」
隊長の目が、揺れた。
「あなたが率いてきた兵士たちを、生きて帰らせてください。もちろん、あなたもです。彼らには家族がいます。あなたにも、いるはずです」
「……お前は、なぜそんなことを」
「私は、この国に攻め込んできた『人間』を憎んでいません。あなた方は、王に命じられてここに来た。命令に従っただけです。その人間たちを、ここ、異国の地で死なせたくない」
空が、少しずつ、明るさを取り戻し始めていた。
短い日食が、終わろうとしている。
「今なら、引き返せます。終わりの時が明ける前に、決めてください」
長い沈黙だった。
ジャングルの鳥たちが、また朝の声で鳴き始めた。星が、一つずつ消えていく。太陽の光が、少しずつ、この世界に戻ってきた。
隊長は、空を見上げた。
それから、腰の剣の柄に手をかけた。
私の背中が、一瞬だけ緊張した。
しかし隊長は、剣を抜かなかった。
ゆっくりと、その剣を、鞘ごと腰から外した。そして、泥の上に、そっと置いた。
「……撤退する」
くぐもった、低い声だった。
ティカルの防衛線は、一滴の血も流れないまま、静かに陥落した。
相手の陣地が。
精神が。




