第56話 王妃の不当要求対応マニュアル・前編
東の海にスペイン軍が上陸してから、約二ヶ月。
私たちは、与えられた猶予のすべてを使い切った。
全国民の布マスク着用。
ソーシャルディスタンスの徹底。
マヤ式高温サウナによる衣類の熱殺菌ルーティンの構築と、綿密なシミュレーション。
周辺国もティカルの要請に応じてくれた。特にカラクムルの強力なアシストが大きかった。サキル、ありがとう。
そして私も、その間にしっかりと「副業」をこなしていた。
天文観測を専門とする役人たちと、最先端の天文学共同研究だ。断じて遊んでいたわけではない。断じて。
こちらの天文学は、日食や月食の周期を、おどろくべき精度で予測することができていた。ドレスデン絵文書、マジで頭がおかしい。最大級の褒め言葉だ。
これは、タイミングさえ合えば、銃剣など比べ物にならない最強の精神攻撃兵器になる。
専務にお願いして私の舞台衣装としてローブデコルテ風のドレスも作ってもらった。ちょっと露出過多だったかもしれないけど、まあいいか。
準備は整っていた。あとは、敵が来るだけだった。
「シャク、設置完了との報告が入ったぞ」
専務の声に、私は「はい」と短く返した。
王妃になってもみんなは私をそれまでと同じように雑に扱ってくれる。この距離感が好きだ。結局、私は自分が社畜であることに甘んじる性格なのだろう。
猶予期間中にひそかに仕込んでおいた、最初の一手。
国境線の随所に、スペイン語で聖書の一節を美しく刻んだ、巨大な石の立て看板を設置してある。
デザインはシンプルに。しかし威圧感は最大限に。
文言はこうだ。
『主の怒りは激しく燃え上がり、この地を襲う。
呪いのすべてが彼らの上にロードされるであろう。
――申命記 第二十九章』
神官長が「これは本当に神の言葉なのか?」と怪訝な顔をしていたが、「これから来るスペイン人にとっては神の言葉です」と答えておいた。
「ロードされる、という言葉は、スペイン語に存在するのか?」
「しません。私が現代語から引っ張ってきたので」
「……」
神官長が黙った。私のやることだ。深く考えないでほしい。
◇
そして、ついにその日が来た。
ジャングルを切り開き、天然痘の蔓延で進軍速度がガタ落ちしながら、それでも諦めずにやってきたスペインの遠征隊が、ティカルの最終防衛線に姿を現した。
……遅い。二ヶ月も待たせて。
だが、まあいい。
先頭の兵士が看板を見つけたのは、昼過ぎのことだった。
神殿ネットワークの観測者からの報告が、リアルタイムで私のもとに届いてくる。
「先頭の兵士が看板の前で止まりました」
「後続が追いついて、全員が看板を見ています」
「……隊長が、看板を指差して、何かを叫んでいます」
なるほど、なるほど。
「その後、スペイン軍は、どうしましたか?」
「しばらく現場で話し込んでいたようですが、再び進軍を始めました」
まあそうよね。予想の範囲内。
看板一枚で引き返すような優しい相手なら、二ヶ月かけてジャングルを踏破してここまで来ない。
「ただし」と観測者が続けた。
「看板の前で、兵士の一人が膝をついて祈り始めたところ、隊長に怒鳴りつけられて立たされました。その後も、後ろの方の兵士たちが、隊列を歩きながら小声で何かを唱えています。おそらく祈りの言葉かと」
「分かりました。ありがとうございます」
私は頷いた。
看板の目的は、引き返させることではない。
恐怖心の種を、蒔くことだ。
――あれは何だ。なぜ自分たちの言葉が書いてある。聖書の言葉だ。なぜここに聖書の言葉が。神の警告か。偶然か。気のせいか。気のせいだと言い聞かせろ。でも、でも……。
その「でも」の感情を、心の底に澱のように沈殿させる。それだけでいい。
今はまだ、その程度でいい。
「進軍を続けていますが、速度は、かなり落ちています」
「引き続き観測をお願いします」
私はやっくんを見た。やっくんが小さく頷いた。
「さあ、お出迎えの準備をしましょう」
ティカルの最終防衛線に立ったとき、私はまず、相手を正面からよく見た。
三百名ほど。全員が金属の鎧を身につけ、金属の刃物を腰に下げ、例の雷の棒――火縄銃を手にしている。馬に乗った指揮官が数名。
しかし。
見れば見るほど、彼らの疲弊は明らかだった。
鎧の表面は、ジャングルの湿気と泥でびっしりと錆に覆われていた。隊列の端の方では、足を引きずっている者が複数いる。顔色の悪さは、もはや隠しようがない。前世の知識でいえば、栄養失調と熱中症と感染症が複合した状態だ。
それでもここまで来た根性は、素直に認めようじゃないか。私なんて三日で死にそうになったんだから。
私の後ろには、ティカルの最大戦力がマスクを着けて整然と整列していた。臨戦態勢で。その左右の木立の影に、弓兵が控えている。足元では、背中にシンヤを乗せたクロが低く喉を鳴らしながら、金色の目でスペイン兵たちを静かに見ていた。
さらに、クロがどこから連れてきたのか分からないジャガーが四頭、牙をむき出しにして今にも飛び掛からんばかりに威嚇している。
四頭のジャガーは、クロの統制下にあるようで、私たちに対して牙をむくことはなかった。
いやね、最前線にシンヤを連れて行くのはどうかと思ったのよ。
でも、やっくんが「王子として最前線を経験することは絶対に必要だ」とか言って譲らなかったから。
息子としてじゃなくて王子としてと言われたらさ、それ以上は突っ張れないじゃん。
先頭に立つ隊長が、私を見た。
私も、隊長を見た。
メンチ切りならやっくんとの勝負でやってきた。そう簡単には負けない。
「おい、そこな白い顔のインディオの小娘!」
顔を真っ赤にして、太い首の血管を浮かび上がらせながら、隊長が怒鳴り散らした。銃口が、こちらを向く。
(インドじゃねーし。メソアメリカだし)
「命が惜しくばこの地を差し出し、我らが王に跪け! さもなくばこの火を吹く筒で蜂の巣にしてくれるわ!」
前世のブラック企業で、毎日のように怒鳴り散らしていたクソ客の顔が、走馬灯のように蘇った。顔も、声も、主張の中身も、構造が完全に一致している。
嫌なことを思い出させてくれる。
「(もうやだ……)」
「(腹が痛い……)」
「(立っているのもしんどい……)」
隊長の後ろから、押し殺した小声が聞こえた。
スペイン語だった。こちらに理解できないと思っているのだろう、兵士たちが本音を漏らし合っている。
私は布マスクの奥で、静かに、深く、鼻で笑った。
このジャングルは湿度百パーセントの蒸し風呂だ。そんな環境に二ヶ月漬け込まれた火縄銃の黒色火薬が、まともに発火するはずがない。環境リスクを理解していないアマチュアの恫喝など、一ミリも怖くない。
深呼吸、一回。
背筋を伸ばして、布マスクの奥で唇の端を持ち上げる。
これは、ただの交渉だ。戦争は愚策だとやっくんも言っていた。ならば、やっくんの意向を寸分違わず実現してみせる。
ブラック企業の受付カウンターで、今日も理不尽なクレーマーと向き合う、あの頃と何も変わらない。
「Hola, Hola~(あー、はいはい)」
私は、前世で叩き込まれた不当要求対応の基本フォームで口を開いた。
「そちらの不当な要求ですが、我が国の国家主権に反するため、一切受け付けられかねます。あ、銃はどうぞお好きに撃ってください。発火できればの話ですけどねー」
沈黙が落ちた。
「な……!?」
隊長の顔が、真っ赤から真っ青に変わった。
「なぜこのような未開人が、我々の言葉を話せる……!?」
驚愕のあまり、声が裏返っている。それはそうだろう。猛獣のつもりで威嚇したら、相手が流暢(?)な母国語で「お気持ちはわかります」と返してきたようなものだ。
「し、しかも……宮廷より洗練された、古風で美しい文法……!?」
ああ、それについては後で知ったのだが、私の前世の記憶から引き出した「現代スペイン語」は、この時代の人間には格式高い宮廷の雅語のように聞こえたらしい。たなぼたというやつだ。
私はしずしずと、しかし一歩一歩、確かな足取りで歩み出た。
──ずぶり
まっすぐこちらを狙っている銃口に、なんのためらいもなく人差し指を差し込んだ。
「撃ってみせてください、さあどうぞ」
ここで氷の微笑を出すか能面になるかは迷ったところだ。
結局、私は能面で通すことにした。
隊長の顔が引きつった。
「な、生意気な……! 撃てぃ!」
トリガーが引かれ、火ばさみが打ちおろされる。
「プシュー……」
湿り切った火薬が、虚しく白煙だけを吐き出した。
弾は、一発も、出なかった。
後ろの兵士たちが、次々と自分の銃のトリガーを引き始めた。結果は同じだった。白煙。白煙。白煙。音もなく、ただ白い煙だけが、ティカルの青空に溶けていく。
「ば、バカな……!? 火の神の筒が……全部、不発……!?」
スペイン兵たちが、死んだような目で自分の銃を見つめていた。
「はい、威嚇、無効化完了」
私は人差し指を銃口から抜き、軽く払って、隊長の目をまっすぐに見た。
「かーちゃん、すげー!」
後ろでシンヤが喜ぶ。
ちょっと黙ってなさい。
かあちゃん、いま盛り上げてるところなんだから。
「どうします? 銃も使えない状態で戦いますか? こちらはホームのジャングルで存分にやりあえますので、むしろ歓迎しますが」
わざとらしくこてんと小首をかしげて隊長の顔を見上げる。
隊長が、歯を食いしばった。
剣を抜こうとした手が、しかし止まった。
私の後ろに整然と並ぶティカルの兵士たちを、改めて見たのだろう。
木立の影に控える弓兵の気配を、感じ取ったのかもしれない。
あるいは、クロの金色の目が、静かに自分を見据えているのに気づいたのかもしれない。
隊長の手が、剣の柄から離れた。
だが、引き下がりもしなかった。
プライドが、邪魔をしている。引き返せない。ここで退いたら、すべてが終わる。そういう顔をしていた。
前世でも見た顔だ。追い詰められたクレーマーが、出口を探せずにその場に立ち尽くすときの顔だ。
私は少し、間を置いた。
こういうとき、追い打ちをかけてはいけない。相手が自分で出口を探せるように、少しだけ空白を作ってやる。それが、クレーム対応の鉄則だった。
「……一つ、聞かせてください」
私は声のトーンを落とした。
「あなた方は、ここに何をしに来ましたか」
隊長が、警戒するように眉を寄せた。
「金だ。香辛料だ。この大陸の資源だ。そして、神の栄光を広めるために」
「ふむ……まあ、どちらもありますね。でも、タダでは差し上げられませんよ?」
「な……神の栄光の前に捧げないと言うのか!?」
「当然のことです。お取引なら検討いたしますが、一方的な要求には応じかねます」
「……」
「神の栄光を広めることについては、お断りします。我々にはすでに、我々の神がいます」
隊長が、また口を開きかけた。
そのとき、後ろから声が上がった。
若い兵士の声だった。
「隊長……俺、もう限界です」
振り返った隊長を無視するように、その兵士は続けた。
「仲間が半分死にました。銃は使えない。食料も水もない。あの看板を見たときから、ずっと……ずっと、神に見捨てられた気がしてならないんです。ここは、俺たちが来ていい場所じゃないんじゃないか、と……」
静寂が落ちた。
その言葉が、隊列の中に、静かに広がっていくのが見えた。顔を伏せる者。目を閉じる者。唇を動かして、祈りの言葉を紡ぐ者。
あの看板で蒔いた種が、今、花を咲かせようとしていた。




