第55話 私は知っている
防疫対策の説明を言い切ったあと、私の中で、ゆっくりとひとつの決心が動き始めていた。
ずっと、迷っていた。
言うべきか。黙るべきか。
転生してからずっと、この秘密を胸の奥に鍵をかけてしまっていた。
話せるはずがなかった。
誰が信じるのか。
信じてもらえたとして、その後どうなるのか。
歴史を知っている人間がここにいると分かったとき、この世界の人々はどう動くのか。私には制御できない。
それに――怖かった。
ティカルが滅亡するという歴史を知っている。
スペインが何をするかも知っている。でもそれは、
私が介入しなかった場合の話だ。私がここで動けば、歴史は変わる。変わった歴史の先に何があるか、私には分からない。千年後の世界がどうなるか、誰が生まれて誰が死ぬか、どんな文明が栄えてどんな文化が消えるか――全部、分からなくなる。
その責任を、私が負えるのか。
ずっと、その問いに答えが出なかった。
でも今、目が合った。
やっくんの切れ長の金色の瞳が、静かにこちらを見ていた。感情を読み取りにくい、冷静な目だ。いつもそうだ。このひとの目は、いつも何かを計算しているような、遠くを見ているような、そういう目をしている。
なのに今、その奥に確かに何かが見えた。
言葉ではない。でも確実にそこにあった。
――お前が何者であれ、俺は信じる。
その目が、そう言っていた。
(……よし)
私は、大きく息を吐いた。
腹をくくるというのは、こういうことだ。震えていても、答えが出ていなくても、それでも口を開く。それが腹をくくるということだ。
「私は――」
背筋を伸ばした。
口の中がからからに乾く。
「――この外国からの侵攻によって、ティカルだけでなく、周辺国すべてが数百年以内に『滅亡』することを、知っています」
大広間の空気が、今度こそ完全に凍りついた。
誰も動かなかった。専務のペンが止まった。神官長が息を呑む音が、やけにはっきりと聞こえた。軍の司令官たちが、互いの顔を見合わせるでもなく、ただそれぞれに固まっていた。
私はやっくんの目だけを見て、続けた。
「なぜ知っているのか。――私は、今から約千年後の未来の世界から、生まれ変わった人間だからです」
長い沈黙が落ちた。
誰かが小さく息を吸う音がした。
それ以外、何も聞こえなかった。
「千年後の世界には、この周辺の歴史が本として残されていました。学校で習う歴史の記録として。その記録によると、今回海から侵攻してきた者たちは『スペイン』という国の人間です。スペインが持ち込む病気と武力によって、この大陸の周辺国はすべて滅ぼされます」
声が、思いがけず平坦に出た。事実を述べているから平坦なのではない。震えないように、全力で抑えているから、平坦になっていた。
ここにいる人、それだけではない。ティカルの民、周辺国、サキル、全員に対する死刑宣告に等しい重さを持つ発言だから。
「皆さんが今、誇らしく見上げているあのティカルのピラミッドも、千年後には誰も住んでいない、ジャングルに埋もれた遺跡として残っていました。私はその遺跡の写真を、教科書で見ました。観光地として紹介されているページで」
そこで一度、声が止まった。
教科書のあのページが、脳裏に浮かんだ。白黒の写真。草に半分飲み込まれた石の塔。「かつて栄えたマヤ文明の遺跡」という説明文。試験に出るかもしれないからと、蛍光ペンでラインを引いた記憶がある。
あの写真の中にいる人間は、誰もいなかった。
この広間にいる人たちの子孫が、いなかった。
「私がスペインの侵攻に対抗する策を講じることは、本来の歴史を強引に捻じ曲げる行為です。その結果、千年後の未来がどうなるか、私には分かりません」
ここが、ずっと怖かったところだった。
「歴史が変われば、千年後に生まれるはずだった人間が生まれなくなるかもしれない。逆に、生まれないはずだった人間が生まれるかもしれない。どんな文明が栄えて、どんな戦争が起きて、どんな発明がされて、どんな人が死ぬか――全部、変わります。私にはその責任を取る方法がありません。どう変わったかを確認する方法も、ありません。何かを守れば、何かが失われるかもしれない。でも何を失うかは、私には分からない」
広間が、静かなままだった。
やっくんも、まだ何も言わなかった。ただ聞いていた。
「それが……ずっと、怖かったんです」
声が、ここで初めて、わずかに揺れた。
「転生してからずっと、言えなかった理由は、それです。自分が知っていることを使えば歴史が変わる。変わった歴史の責任は誰が取るのか。答えが出なかった。今も、正直、出ていません」
息を吸った。
「でも」
私は、広間を見渡した。神官長の白髪。専務のペンを持つ手。司令官たちの強張った顔。松明の炎。石の天井。
そして、やっくん。
「私がこの世界に奴隷として転生したこと自体が、すでに歴史の特異点なんです。本来ここにいるはずのない人間が、いる。だとしたら――最初からもう、歴史は変わり始めていたのかもしれない。私が何もしなくても、私がここにいる時点で、千年後の未来は本来のものとは違っている可能性がある」
「だから」と言いかけて、止まった。
本当のことを、言わなければいけないと思った。綺麗にまとめるのではなく、本当のことを。
「……理屈はそうですが、正直に言うと、理屈じゃないんです。私が動こうと決めた理由は」
やっくんを、見た。
「市場で見かける子どもたちの顔が、頭から離れないから、です。神殿の階段で笑っていたおばあさん。早朝から貯水池で働いていた若い男たち。監督官。サキルさん。マントウをむさぼる神官長。専務。――あなた。そしてシンヤ」
声が、最後だけ小さくなった。
「その人たちが、千年後の教科書の白黒写真の中に消えることを、私は受け入れられない。未来がどうなるかは分からない。歴史改変の責任が取れるかも分からない。怖いまま、答えのないまま――それでも、私はティカルを守ります。この文化を守ります。今ここで生きている人たちを守ります。私の愛する人を、私は決して見捨てない」
言い切った。
胸の奥の何かが、ぼろっと剥がれ落ちたような気がした。ずっと鍵をかけていたものが、ようやく外れた音がした。
「…………」
重い静寂が続いた。
専務が、ゆっくりとペンを置いた。神官長が、静かに目を閉じた。司令官たちが、それぞれ小さく息を吐いた。
やっくんは、まだ何も言わなかった。
言わないまま、ゆっくりと立ち上がった。
その動きだけで、広間の空気が変わった。
私はなんとなく、このままでは泣きそうだと思ったので、やっくんの後頭部をぽんぽんと軽く叩いた。
「おい、王への暴力反対だ」
「さーせん、つい」
やっくんが、ため息をついた。長い、深いため息だった。怒っているのではなく、何か別のものを、そのため息に乗せて吐き出しているようだった。
「これより我が国は、聖女シャクの指針に基づき、未知の疫病に対するロックダウンの陣を敷く」
声が、広間の石天井を震わせた。
「敵がどれだけ攻め込もうと――このティカルの防疫線は、一歩も通さぬ!!」
「「「御意に!」」」
複数の声が、一つになって広間に響いた。
私は、その声の震動を全身で受けながら、ぎゅっと拳を握った。
怖かった。今もまだ、怖い。
でも、腹は決まっていた。
千年後の教科書の中のティカルは、誰もいない遺跡だった。
今度は、違う終わり方にしてみせる。それだけでいい。それだけが、今の私の答えだった。
「あ、もう一つ言い忘れていました」
重い空気が少し動いて、全員が私を見た。
「スペイン軍との交渉窓口は私がやります。大学の第二外国語の単位の関係で、ちょっとだけスペイン語が話せるので」
一瞬の間があった。
専務が、額に手を当てた。神官長が、口をぽかんと開けた。
やっくんが、小さく、しかし確かに、吹き出した。
「……お前は、本当に」
「凡人です。万能な神様じゃないので、奇跡はあまり期待しないでください。ちょっとだけ先を知っているだけの、どこにでもいる元社畜です」
「どこにでもはいない」
「そうですかね」
「絶対にいない」
やっくんが、私の頭にぽんと手を乗せた。




