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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第十一章 最終決戦――世界史への宣戦布告
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第54話 使えるリソースはなんでも使え。それがおじいちゃんの教え

 神殿の大広間に、ティカルの重臣たちが集まっていた。

 普段は儀式や祝宴に使われるこの空間が、今日ばかりは別の空気をまとっていた。柱の影に揺れる松明の炎が、居並ぶ顔々を鋭く照らし出す。神官長、チャーク・ツィブ専務、軍の司令官たち、各地方の代表者、神殿のネットワークを束ねる観測長。全員が、一様に硬い表情をしていた。


 やっくんが玉座に座り、金色の瞳で静かに広間を見渡している。

 私はその隣に、王妃として立っていた。まだ少し、この場所に慣れない。でも今は、慣れていないなどと言っている場合ではなかった。


「観測者からの最新報告を確認した」


 やっくんの声が、広間の石天井に吸い込まれていく。


「上陸した軍勢は現在、東海岸のジャングルを西へ向けて行軍中。数は三百名前後と見られる。装備は未知のものが多いが、中に『赤い豆』の発疹が確認された者が複数いる。シャク、続きを話せ」


「はい」


 私は一歩前に出た。

 広間の視線が、一斉にこちらへ向いた。神官長の白髪が、松明の光の中で揺れた。専務のペンが、すでに構えられている。軍の司令官たちが、腕を組んで待っている。


「まず、皆さんに落ち着いてほしいのですが」


 ざわめきが、一瞬止まった。


「事態は深刻です。でも、時間はあります」


 シンヤを抱いた私は専務へ視線を向けた。


「専務、東の海岸線からティカルまで、通常の行軍でどれくらいかかりますか」

「そうだな。我らのようにジャングルに慣れた軍であれば、まあ二十日もあれば到達するだろう。シャクのように途中でひーひー泣き言を漏らす軍であれば、うーむ、三十日といったところか」


 ……いま、さりげなく私のことをDisったよね、この人。


 でも、それが欲しかった答えだった。通常で二十日。ジャングルに慣れた私たちでさえそれだけかかる。

 ジャングルの行軍がどれほど過酷なものかは経験済みだ。全く土地勘のないスペイン軍が、あの底なしのぬかるみと湿度百パーセントのサウナ地獄を、重い金属の甲冑を着込んで行軍する。それだけで死ぬほど大変なことだ。それに加えて、途中の地方都市の戦士たちが、黙って通過させるはずもない。あちこちでゲリラ的な小競り合いが起きるはずだ。


 計算すると、ティカルへの到達まで、短く見積もっても四十日前後はある。


 私はゆっくりと息を吸った。


「大丈夫です。万全の体制を構築して迎え撃てます」


 青ざめていた重臣たちの顔に、わずかに血の気が戻った。


「これから実行するプロジェクトは、国家完全閉鎖――作戦名『ロックダウン』です」


 専務のペンが走り始めた。


「今回の侵攻で、最も警戒が必要なのは、未知の兵器でも馬という動物に乗った兵士でも、雷のような音を出す棒でもありません。あの『赤い豆』です」


 広間がしんと静まり返った。


「これは、発症した人に触れるだけ、あるいは同じ空気を吸うだけで全自動でうつる病気です。神や悪魔の呪いではない。目に見えないほど小さな生き物が、人の体の中に入り込んで暴れるものです。対策を怠れば、国を数週間で滅ぼす勢いで爆発的な感染が起きます」


 私は、神官長へ目を向けた。目だけで、強く、圧をかけた。


(生贄とか余計な祈祷タスクを増やすなよ)


 神官長がビクッと震えた。


「この病気、一度発症したら――半数が死にます」


 ヒッ、という声が広間のあちこちから漏れた。

 盛った。

 実際の致死率は三割程度だと知識では分かっていたが、ここは盛った。

 この人たちがソーシャルディスタンスを守ってくれるためには、それくらいの数字が必要だと思った。

 嘘をついているわけではない。もっと丁寧に言えば、「最悪の場合は半数が死ぬ可能性がある」ということだ。


「でも、大丈夫です」


 私は意識的に声を明るくした。


「この先読みの聖女シャクにお任せください。これまで幾度となく国難を乗り越えてきた、安心と信頼の実績をご覧ください」


 わざとらしく胸を張って、ドヤ顔を決める。

 やっくんが、金色の瞳を鋭く光らせた。


「わかった。お前の言葉だ、全面的に信頼する。何をすればいい?」


 それだけでよかった。やっくんが頷けば、この場の全員が動く。私の言葉はここから王の言葉になる。

 一度、深く息を吸った。

 前世のパンデミックの記憶を、全力で引き出す。あのとき人類が学んだこと。やらかしたこと。泣きながら積み上げた知恵。それを、古代マヤの現場リソースで実装可能な形に落とし込む。

 種痘が使えれば最強だが、この世界に医療技術はない。第一、牛がいない。だから牛痘ウイルスなんてものも存在しない。

 ならば、手持ちのカードで戦う。それが、おじいちゃんの教えだ。


「第一の対策。全国民への『マスクのようなもの』の無償配給と着用義務化です」

「国内の織物職人を今すぐ全員フル稼働させてください。目の細かい綿布を何層にも重ねて縫い合わせた、口と鼻を完全に覆う布を大量生産します。これをティカルの全国民へ無償配給。そして王命を出してください。――王族から奴隷に至るまで、外出時は常時着用。違反者は厳罰、と」

 専務のペンが、止まらずに走っている。

「この布が、敵の咳や息から飛んでくる見えない生き物を物理的に遮断します。これだけで感染率は大幅に落ちます。たかが布切れと思わないでください。布切れが国を救います」


「第二の対策。外国人との物理接触の完全禁止です」

「本日この瞬間から、いかなる理由があろうとも、外国人――特にあの白い肌の男たちとの物理的な接触を一切禁じます。握手も、抱擁も、二メートル以内に近づくことすら禁止。商人の往来も即座に凍結。国境の検問所には長距離の弓兵を配置します」

 私は一度、言葉を止めた。


 ここから先は、慎重に言わなければいけないと分かっていた。でも、慎重になりすぎても伝わらない。


「警告を無視して近づく者は――その場で、『射殺』してください」


 広間が、静まり返った。


「シャク」


 やっくんの声が、静かに割り込んだ。確認するような、低い声だった。


「躊躇なく、理由も訊かずにか」


「はい」


 私は、やっくんの目をまっすぐに見た。

 その目の奥にあるものを、私は知っていた。やっくんは残酷な人間ではない。むしろその逆だ。だからこそ、今この瞬間、このひとは私に確認している。本当にそれが必要なのか、と。


「たった一人の討ち漏らしが、ティカルを全滅させます。一人でも、です。国境を越えてくる、顔も名前も知らない、たった一人の感染者が、この国の全員を道連れにする可能性があります」


 私は一度、下を向いた。


 何かが、胸の奥でぎりぎりと締め付けてくるような感覚があった。前世でパンデミックが起きたとき、私はただの会社員だった。ニュースを見て、マスクを買いに走って、在宅勤務をして、遠くで起きていることとして処理していた。誰かがどこかで恐ろしい判断をして、恐ろしい命令を出していたことを、私はあのとき何も考えていなかった。

 でも今は、その判断を出す側に立っている。


「国境に近づいてくる人間が、感染者かどうかは、近づいてみなければ分からない。だから全員を止めなければいけない。止まらなければ、撃たなければいけない。それが、残酷に見えても、結果として一番多くの命を守る方法です」


 声が掠れる。

 広間の誰も、声を発しなかった。


「後世、私はきっと『殺戮の王妃』と呼ばれるかもしれません。ティカルの民が生き残るためならば、それでいい」


(専務には、碑文に余計なことを刻まないようにお願いしとかなきゃ)


 やっくんは、しばらく私を見ていた。

 それから、静かに頷いた。


「わかった」


 それだけだった。それだけのことが、私の両肩に乗っていた何かを、半分だけ持っていってくれた気がした。


「第三の対策。発症者の徹底隔離と観察です」

「万が一、国内で一人でも『赤い豆』や急な高熱を出した者が現れたら、即座に専用の隔離小屋へ収容し、完全に外界から遮断してください。この一ヶ月の猶予の間に、郊外に隔離小屋を大量に建てておきましょう。看護に当たる者はマスクを二重着用。触れた後は必ず手を洗うこと。強いお酒があれば手に振りかけるだけでも、殺菌効果があります」

 神官長が、おずおずと手を上げた。

「……神殿の浄化の儀式では、灰汁で手を清める作法がございますが、あれでは足りませんか」

「十分です。むしろ、ありがとうございます。神殿の浄化作法を全国に広めてください。それは正しいことです」

 神官長がほっとした顔をした。おじいちゃん、かわいいか。かわいいな。


 そこで、ふと、記憶が蘇った。

 王宮に連れてこられたばかりの、まだ右も左も分からなかった私が、いきなり放り込まれた、死ぬほど熱いあのサウナ。熱した石に水をかけて凄まじい蒸気を起こす、あの空間。

「……待って、あれ、使える」

「シャク?」

「ズハ・ピブです」

 私は顔を上げた。

「ティカルには、すでに最高の消毒システムがある。伝統の蒸し風呂を、フル稼働させてください」

 神官長が目を丸くした。


「第四の対策。ティカル式高温サウナによるウイルス熱殺菌です。発症者が使った衣類、寝具、その家族が身につけているものをすべて、ズハ・ピブの超高温の蒸気の中に放り込んで、限界まで蒸し上げてください。目に見えない病の原因は、熱に弱い性質があります。徹底的に蒸して、殺す。それだけでいいんです」

 おじいちゃんが、背筋をぴんと伸ばした。

「神殿の全サウナ施設を、今すぐ稼働させましょう。これは、神殿の仕事です」

「お願いします。頼りにしています」

 今度は私が、心から言った。


 私が熱弁を振るい切ったとき、チャーク・ツィブ専務がペンを置いた。

「完璧な体制構築だな。ただちに実行しよう」

「やっくん、もうひとつ、お願いがあります」

「なんだ」


「これらの防疫対策を、カラクムルをはじめとするすべての周辺国にも伝えてください」


 広間が、少しざわめいた。


「ティカル一国だけが実行しても、効果は限定的です。周りの国で感染が爆発したら、それがいずれティカルにも波及します。その悪循環が限りなく続く。国を跨いだ広域での防疫が行われてこそ、初めて本当の意味を持ちます」


 やっくんが、細く息を吐いた。


「カラクムルには、サキルがいる。それに、今は両国に大使館もあって協力関係は盤石だ」


 ティカルの「ロックダウン」方針が確定した。


 私には、もうひとつどうしてもやらなければならないことがある。

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