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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第十一章 最終決戦――世界史への宣戦布告
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第53話 地球規模の迷子

 ――エルナン・デ・ソリス隊長の手記より


 神の御名において、この手記を記す。

 我がカスティーリャ王国の栄光と、我が指揮下にある三百二十七名の兵士たちの勇敢なる記録として。

 もっとも、今の私に「勇敢」という言葉を使う資格があるかどうかは、神のみぞ知るところではあるが。


 出港から百十二日目の記録

 セビリャを出港したのは、もう遠い昔のことのように感じる。

 国王陛下より拝命した使命は明快だった。


 西回り航路で『インド』へ到達し、香辛料の交易路を確立せよ。

 神の栄光を新たな土地に広め、王国の版図を広げよ。


 帆を張った三隻の船に三百二十七名。出港の朝、埠頭に集まった群衆の歓声を、私は今でも覚えている。男たちの目は輝き、誰もが栄光を夢見ていた。


 しかし大西洋は、そんな夢想を一週間も待たずに打ち砕いた。

 まず、船酔いだ。

 百戦錬磨の兵士が、甲板で這いつくばって嘔吐する。プロの船乗りですら青い顔をする揺れが、何日も何日も続く。食欲が失せ、水の摂取も儘ならなくなった者から順番に、ゆっくりと弱っていく。


 次に、食料の問題だ。

 出港前に積み込んだパンは、三週間も経たないうちに黴だらけになった。塩漬けの肉は腐臭を放ち始め、それでも食わないと死ぬから食った。水樽の水は緑色に濁り、飲むたびに腹を壊した。


 壊血病が出始めたのは、出港から六週間後だった。

 歯茎から血が滲み、歯が抜け落ちる。皮膚に青紫色の斑点が浮かぶ。関節が腫れ上がって歩けなくなる。これが何かは分かっていた。長い航海では必ず出る。しかし分かっていても、止める手立てがない。


「神父様、何故神は我々をお見捨てになるのですか」


 若い兵士がそう問うたとき、神父は答えられなかった。私も、答えを持っていなかった。

 出港から九十日が過ぎた頃には、すでに十七名が海に沈んでいた。


 上陸当日の記録

 陸地を見たとき、甲板に出ていた男たちが泣いた。

 歴戦の猛者が、子どものように声を上げて泣いた。私自身も、目が潤むのを止められなかった。緑の陸地がそこにあるというだけで、あれほど人間が泣けるものだとは思わなかった。


「インドだ」と誰かが叫んだ。「ついにインドに着いたぞ」と。


 私もそう信じた。計算上、距離は合う。香辛料が取れる熱帯の土地。肌の色の濃い人々。これがインドでなくて、何だというのか。


 ボートで浜辺に降り立ったとき、砂の感触が、靴越しにも分かった。固い、本物の地面だ。私は思わず膝をついて、砂を一掴み握りしめた。

 兵士たちの状態は、お世辞にも良いとは言えなかった。

 三百二十七名のうち、二十名近くが船内に寝たきりで、自力では上陸できなかった。歩ける者の多くも、長期の航海で足腰が弱り切っており、砂浜を歩くだけで息が上がった。鎧の重さが、普段の何倍にも感じられる。


「インドの民はどこにいる」


 副官のバルデスが問うた。

 浜辺には確かに人の気配があった。粗末な漁の道具、焚火の跡。しかし人間の姿は見えない。

「警戒しているだけだろう。歩み寄れば話ができる」

 私は通訳として連れてきたペドロ――前の航海で捕らえて言語を仕込んだ現地の男――を前に出した。ペドロが声を張り上げて何かを叫ぶ。

 茂みが揺れた。

 次の瞬間、茂みの奥から人影が走り出た。一人ではない。十人、二十人、それ以上。全員が、こちらに背を向けて、脱兎のごとく内陸へと逃げていく。


「待て、待て! 我々は友好を求めているだけだ!」


 しかし誰も振り返らなかった。あっという間に、人の気配は消えた。

 バルデスが苦い顔をした。

「歓迎されていないようですな、隊長」

「臆病なだけだ。慣れれば話ができる。まずはキャンプを設営しろ」

 私はそう言ったが、正直なところ、胸の奥に小さな棘が刺さった。

 彼らが逃げたのは、我々の鎧のせいかもしれない。馬のせいかもしれない。あるいは――我々の顔色のせいかもしれない。

 鏡を持ち合わせていなかったが、ここ数日で自分がどれほどひどい顔をしているか、仲間の顔を見れば想像がついた。


 上陸から五日目の記録

 ジャングルは、地獄だった。

 インドの内陸部へ向けて行軍を開始した初日から、私はその判断を後悔し始めた。

 まず、道がない。

 地図上では、内陸に都市があるはずだった。香辛料の産地があるはずだった。しかし目の前に広がるのは、頭上で光を遮る巨木の天蓋と、足元に絡みつく根と泥と、どこから現れるのか絶え間なく降ってくる虫だけだった。


「隊長、道が見つかりません」

「獣道を探せ。北へ進め」

「北がどちらか……太陽が見えません」


 見えなかった。ジャングルの天蓋は厚く、空の欠片も見せない。

 水は、最初の二日で底をついた。

 川を探せと命じたが、見つかるのは泥水の溜まりばかりで、それを飲んだ兵士から順番に腹を壊した。腹を壊した兵士は行軍速度を落とし、速度が落ちれば水を消費する時間が延び、さらに弱る。悪循環だった。

 食料も、ない。

 ジャングルには確かに鳥や小動物がいる。しかし我々がどれほど銃の引き金を引こうとしても、湿気でやられた火薬が不発になる。これが一番堪えた。


 火縄銃は、我々の切り札だ。あの轟音と煙が、現地の民を恐怖させ、交渉を有利に進める最大の武器だ。しかし連日降り続けるスコールと、肌に纏わりつくような湿気の前には、どれほど丁寧に油で手入れをしようとも、一晩で銃身が錆に侵される。


「隊長、また不発です」

「また錆びたか、磨き直せ」

「磨いています、毎晩磨いています、それでもダメなんです」


 若い兵士の目に、涙が光っていた。情けないと叱ろうとして、やめた。私自身も、限界に近い。

 スコールは毎日午後に来た。

 バケツをひっくり返したような雨が、何の前触れもなく一時間ほど降り注ぎ、全員をずぶ濡れにして去っていく。鎧の内側まで水が入り込み、皮膚が蒸れて爛れた。革のブーツが腐り始め、足の皮が靴下ごと剥がれた兵士が出た。


「隊長。モレノが歩けません」

「担げ」

「担いでいます。ただ、担いでいる側も、もう限界で」


 上陸前から病気がちだったモレノ伍長が、ついに動けなくなった。しかし問題はモレノだけではなかった。発熱している者が、昨日より増えている。食料が尽きかけている。士気が、日に日に削られていく。

 その夜、バルデスが私の横に座った。


「隊長。率直に申し上げてよろしいですか」

「言え」

「ここは、インドではないかもしれません」


 私は答えなかった。


「インドなら、もっと文明的な都市があるはずです。香辛料の集積地があり、交易商人がいるはずです。しかしここには、何もない。ジャングルしかない。民は我々を見て逃げる。言葉が全く通じない。ペドロも、この地の言葉は知らないと言っています」

「ペドロは別の地域で仕込んだ。言葉が違うのは当然だ」

「それほど違うものですか。インドの中で」

「……」

「もしここが、我々の知らない、全く別の土地だとしたら」


 私は夜空を見上げた。ジャングルの切れ間から見た星の配置に違和感を覚えた。航海中に何度も確認した星の位置が、微妙にずれている気がした。


「続きは明日考える。今は寝ろ」

「はい」


 バルデスが離れていった後、私は一人で手記を広げた。

 ランプの灯りが、じりじりと揺れた。

 胸の奥に、小さな疑念が芽生えていた。押しつぶそうとしても、押しつぶせなかった。

 これは、本当にインドなのか。

 そして今朝、衛生担当のフアンが私のところに来て、ひそひそと耳打ちした。


「隊長。ルイスの腕に、赤い発疹が出ています。豆粒のような」

「……他には」

「今のところ、二名です。ただ」

「ただ?」


 フアンは少し間を置いた。


「船の中で似たような発疹を出していた者が、航海の途中で二名おりました。熱を出して、最後は」

「分かった」

「隊長、これは――」

「分かった、と言った」


 私はフアンを下がらせ、ランプの前で一人、手記を閉じた。

 神の御加護を祈った。

 しかし正直なところ、今夜の私には、その祈りが届く自信が、あまりなかった。

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