第52話 赤い豆
大干ばつという地球規模の大災害をなんとかかんとか乗り越え、やっくんとの間に男の子が生まれ、幸せな日々を過ごしていた、ある日のことである。
私はといえば、以前は、王宮の執務室で、やっくん所有のオブジェになっていたのが、今では王宮中を縦横に走り回るシンヤをクロと一緒になって追いかけている。
シンヤがお昼寝に入ると、やっくんの隣でかぼちゃの種をぽりぽりと頬ばるのも日常風景だ。
そんなのんびりした午後、神官長が執務室に転がり込んできた。本当に物理的に転がっている。おじいちゃん大丈夫?
その様子から、なにか特大のインシデントが発生したのだろうということは推測できた。
また、クロがマントウをつまみ食いしたという苦情だろうか。
「がう?」
足元で丸くなっているクロが「知らんし」というように頭を左右に振っている。絶対言葉を理解してるよね、この子。
「陛下。海岸線を監視している神殿ネットワークの観測者から、緊急の報せが入っております」
執務室で書簡を広げていたやっくんが、無言で顎をしゃくった。神官長が、手にした樹皮紙を広げる。
「……海の上に、巨大な『白い翼』を持つ島のような物体が複数、確認されたとのことです」
「白い翼?」
私は思わず聞き返した。
「はい。これまで観測者たちが見てきたいかなる生き物とも異なる、と。大きさは、神殿の基壇ほどもあろうかという巨大さで、水の上を滑るように動いているとのことです」
その報告を聞いた瞬間、私の背筋にゾクッと冷たい刃が突き立てられたような衝撃が走った。
(――来た。ついに、歴史の強制イベント(スペイン人による侵攻)がロードされちゃったんだ……!)
「……船、ですね」
「シャク、知っているのか」
やっくんの金色の瞳が、静かに私を見た。
「知っています。たぶん」
私は一度だけ目を閉じた。
来た。とうとう、来た。
世界史の授業で何度も見た、あの挿絵が脳裏に浮かぶ。白い帆を張った巨大な帆船。甲冑を着た男たち。そして、その後に続く、あまりにも一方的な歴史の記述。
「やっくん、続きの報告を全部聞かせてください。私も同席します」
二日後。
観測者からの第二報が届いた。
「船から、人間が降りてきました」
神官長の声が、わずかに上ずっていた。マントウに感激したとき以来か。
「その……観測者によれば、彼らの見た目が、非常に異様であると。まず、全身を白い岩のようなもので覆っています。頭も、胸も、足も。さらに、顔の色が――」
「白い」
私が先に言うと、神官長が目を丸くした。
「は、はい。仰る通りで。顔の色が白く、毛の色も、目の色も、我々とは全く異なると。さらに――顔じゅうに、毛が生えているとのことです」
「ひげ、ですね。長いやつ」
「シャクは、やはりこの者たちを知っているのか?」
神官長の目がますます見開かれる。
「少しだけ」
少しだけ、どころではないが、今は余計なことを言わないほうがいい。
「観測者の報告には続きがあります」
神官長が、樹皮紙を繰った。
「上陸した彼らは、最初、浜辺にいた漁村の民と接触しました。言葉が通じないようで、身振りで何かを伝えようとしていたようです。しかし――」
「しかし?」
「その後、何が起きたのか詳細は不明ですが、漁村の民が一斉に逃げ出しました。山の方へ、ジャングルの方へ、とにかく内陸へ向かって、着の身着のままで逃げたと」
重い沈黙が、執務室に落ちた。
「逃げた理由は?」
やっくんが静かに問う。
「観測者の見解によれば――彼らが連れていた動物が、原因ではないかと。我々の世界には存在しない、巨大な獣を複数連れており、その獣の上に乗って移動しているとのことです。足が四本あって、走る速度が非常に速い」
「馬、ですね」
「……シャクよ」
「ごめんなさい、続けてください」
三日後。
第三報は、観測者の筆跡が、明らかに乱れていた。
「……観測者が直接確認したわけではなく、逃げてきた沿岸部の民からの聞き取りになりますが」
そう前置きして神官長が、一度息を吸った。
「黒く長い棒から、雷のような轟音と煙が出て、離れた場所にいた人間が倒れた、と」
誰も、すぐには声を発しなかった。
銃だ、と私は思った。火縄銃。この世界の人間が、これまで一度も見たことのない、火薬と鉛玉で人を殺す道具。
「……どれほどの数が上陸しているか、把握できているか」
やっくんの声は、いつも通り静かだった。それがかえって、場の緊張を高めていた。
「現時点では、数百人程度かと。ただし、沖合にはまだ複数の巨大な島が見えており、さらに増える可能性があります」
「装備は」
「全員が白い石のようなものを着用、これまた白いの刃物と、例の雷の棒を所持しています。ただ――」
神官長が、少し声のトーンを変えた。
「ただ?」
「観測者の報告によれば、彼らの様子が……その、見た目ほど元気ではないとのことです」
「どういうことだ」
「理由はよく分かりませんが、上陸した時点ですでに顔色が悪く、歩き方がふらついている者が多数いると。食料も水も、かなり消耗しているようで、浜辺に倒れ込んでいる兵士も見受けられると報告されています」
私は、その言葉を反芻した。
長期航海。壊血病。栄養失調。慣れない気候。それだけでも、彼らはすでにかなりのダメージを抱えてこの土地に来ているはずだ。
(でも、だからといって、油断はできない。歴史がそれを証明している)
「やっくん、もう一つ確認したいことがあります」
「言え」
「上陸した兵士たちの、肌の様子を詳しく観測してほしいんです。特に、顔や腕に――赤い、豆粒のような発疹が出ていないか」
神官長が、怪訝な顔をした。やっくんも、一瞬だけ目を細めた。
「……それは、何を意味する」
「まだ確認できていないので、何とも言えません。ただ、もしそれが見つかったなら、白い岩の防具より、雷の棒より、はるかに危険なものを、彼らは一緒に運んできているかもしれません」
やっくんが私を見た。問い返さなかった。ただ、神官長に向かって静かに言った。
「観測者に伝えろ。彼らに近づくな。遠距離から目視できる範囲で、肌の状態を確認し次第、最速で報告せよ」
「御意に」
神官長が下がると、執務室に私とやっくんだけが残った。
「シャク」
「はい」
「最悪の場合、何が起きる」
私はしばらく黙った。
「……今は、まだそのときではありません――」
「そうか」
やっくんは、それ以上何も言わなかった。
翌朝、第四報が届いた。
「シャクよ」
神官長の顔が、蒼白だった。
「上陸した兵士のうち、複数名の腕と顔に――燃えるように赤い、豆粒が確認された」
私は思わず立ち上がり、持っていたお皿を派手に落とした。かぼちゃの種が盛大にとっちらかった。もったいない。三秒以内に拾い上げればOKだろうか。こっちの世界でも三秒ルールは適用になりますか?
「かーちゃん、どうしたん?」
散らばったかぼちゃの種をシンヤが拾い集めてくれている。ええ子や。
そんな呑気なことを考えている場合ではない。
脳裏には、前世の高校の世界史の授業が、凄まじい解像度でフラッシュバックしていた。
(違う……! 呪いなんかじゃない! あれは――天然痘だ!!)
授業で聞いた。これこそが、数千万と言われたマヤの先住民を、戦争の被害を遥かに超える規模で、実に「人口の約九割」を全滅させて滅亡へと一直線に叩き落とした、歴史上最悪の意図せぬバイオテロの正体だ。
免疫を持たないこの世界の人々にとって、それは文字通りの「一発で国を消滅させる戦略級兵器」だった。
私は目を閉じた。
一秒だけ。
それから開けて、やっくんを見た。
「やっくん。作戦会議を始めましょう」




