第51.5話(閑話) 公式供給過多につき、王女卒倒
俺がサキルに奴隷紋を刻んでいれば、あいつがカラクムルの間者だと気づいていた――。
いや、ないな。
そもそも、サキルがティカルへ奴隷として売られてきたのは、あいつが十二歳の頃だ。
その時、俺はまだ王ではなかった。先代がこの国を治めていた頃の話である。
当然、俺が直接奴隷紋を刻むこともなかった。
仮に俺自身がサキルの肌へ紋を刻んでいたとしても、間者だとは見抜けなかっただろう。
それほどまでに、サキルの「ムトゥル人化」は完璧だった。
初めてサキルを見たのは、シャクを王宮へ召し上げてから、三月ほど経った頃だった。
シャクを迎えに行ったチャーク・ツィブから、土木課にいる家事奴隷を一人、シャク付きとして直轄へ移したいという伺いが上がっていた。
ホームシックだの、コスパ最強だの、相変わらず意味の分からぬ言葉をシャクが口にしていたらしい。
だが、シャクが望むのであれば構わぬ。
当時の俺は、その程度に軽く考えていた。
まさか、その家事奴隷が、のちにカラクムルの王女になるなど、誰が想像できただろうか。
シャクをパルとして召し上げた。
それにくっついて、土木課の家事奴隷が王宮へ入った。
その家事奴隷が、実はカラクムルの間者だった。
しかし顔にはジャガーの刺青があり、言葉も所作も、どこからどう見てもムトゥル人だった。
シャクから、サキルが間者だと告げられた。
おまけに、サキルが忠誠を誓っている相手は国家ではなく、シャク個人だった。
シャクの護衛としてカラクムルへ送り出したら、その行き先はサキルの実の両親だった。
その両親が新国王夫妻となり、流れでサキルも王女になった。
シャクとの別れ際、額へ口づけされて卒倒した。
大干ばつの折、ティカルから食糧支援を申し出れば、「もっと困っている国へ向けてください」と断った。
シンヤ誕生の報せをクロへ託したら、クロと一緒にサキルまで帰ってきた。
もちろん先触れはない。
国境を越えた記録もない。
シンヤを抱くシャクを見て、また卒倒した。
その直後、ティカルとカラクムルの双方へ外交官を常駐させる、大使館なる制度を提案した。
情報量が多すぎる。
◇
サキルが外交儀礼のすべてを無視し、クロを従えて国境を突破してきた日。
俺は大使館構想について話を聞くついでに、長年抱えていた疑問をぶつけることにした。
「サキルよ」
「何でしょう、陛下」
王宮の小会議室で、サキルは背筋を伸ばして座っていた。
王女らしい整った姿勢である。
もっとも、先ほどまでクロとともにジャングルを駆け抜けて来た女だ。威厳というものを、どこまで信じてよいかは分からない。
「お前は、ティカルからどのような情報をカラクムルへ流していたのだ」
サキルは少し考え、指を一本立てた。
「水路の整備状況です」
二本目。
「厨房で耳にした役人たちの噂話です」
「他には?」
「特にありません」
「シャクのことは?」
その瞬間、サキルの笑顔が消えた。
代わりに、氷のように冷たい目が現れる。
「流すわけないじゃないですか」
低い声だった。
「神聖にして崇高なる我が主の御姿を、あのクソ王朝どもの耳になど、一片たりとも入れてやるものですか」
「ずいぶん形容詞が増えたな」
「これでもまだ控えています」
「そうか。相変わらず重い忠誠だな」
「重いなんてもんじゃありません。激重です」
そう言い切ったサキルの顔は、「激重」という語からは想像もできないほど明るかった。
頬はわずかに紅潮し、目は朝露を受けた翡翠のように輝いている。
己の忠誠心の重さを、心底誇らしく思っている顔だ。
「しかしだな」
俺は腕を組み、椅子の背へ体を預けた。
「顔から言葉から、すべてを偽造したのだろう。それだけの手間をかけて得た情報が、そこらの商人と大差ないというのは、あまりに費用対効果が悪すぎるのではないか?」
「そうなんです!」
サキルが勢いよく机へ両手をついた。
乾いた音が室内に響く。
「クソ王朝どもは、最初から私を情報源として活用する気などなかったんです!」
「王女らしからぬ言葉遣いだな」
「我が主の前ではもっとひどいです」
「それなら納得だ」
サキルは勝ち誇ったように頷いた。
「王女になった後、旧王朝の記録庫を調べたんです。そうしたら、私に関する記録が見つかりました」
サキルの指が、無意識に頬のジャガー紋をなぞる。
「そこでは、私は名前ではなく『被検体』と呼ばれていました。頭の形を変え、刺青を施し、ムトゥルの言葉と所作を叩き込んだ経過が、事細かに記録されていました」
声は平静だった。
だが、机の上に置かれた指先がわずかに白くなっている。
「目的は?」
「父上の領地を奪い取るためです。はっきり、そう書かれていました」
「その目的であれば、誘拐した時点で殺せば済む話ではないか」
言った後で、さすがに言葉を選ぶべきだったかと思った。
「いや、お前には酷な言い方だが」
「ええ、本当に!」
サキルはあっさり頷いた。
「私もそう思いました。バカですよね、あいつら」
「ああ」
俺も頷く。
「バカといえばシャクだが」
「我が主とあの者どもを同列にしないでください」
即座に睨まれた。
「シャクも大概であろう」
「我が主の無謀は神聖な無謀です」
「無謀に神聖も何もない」
「あります」
「ない」
しばらく睨み合った後、俺は本題へ戻した。
「お前は、いつからシャクを主として従うようになったのだ」
サキルの目から、ふっと鋭さが消えた。
代わりに、遠いものを見るような柔らかな光が宿る。
「あれは、我が主が土木課へ来られて、初めて迎えたワイェブの時です」
サキルは胸の前で両手を組んだ。
「この世とシバルバーの境がなくなるとされる、不吉な五日間。誰もが息を潜めていた静寂の中、我が主の胸に、我が血脈の祖神であるカーンが現れたのです」
「例の蛇だな」
「翡翠のような光を放つ、美しく神々しい蛇でした」
うっとりと目を細める。
「その御姿を見れば、平伏する以外に何ができます?」
「そういえば」
俺は眉を寄せた。
「シャクの胸の蛇が輝くところを、まだ俺は見たことがない」
「まあ」
サキルが目を瞬かせる。
サキルは、しばし無言で俺を見つめた。
やがて、口元へゆっくりと笑みが浮かぶ。
勝者の笑みだった。
嫌な予感がする。
「ふっ」
「何だ」
「私は」
サキルは己の右手を持ち上げ、指先を慈しむように左手でそっと撫でた。
「この右手で、じかに触れることさえ許されたのですよ」
「何だと?」
俺は思わず身を起こした。
椅子の脚が石床を擦り、耳障りな音を立てる。
「お前、シャクの胸に触れたのか!?」
「ええ」
サキルは頬へ手を添え、陶然と天井を見上げた。
「あのふくよかで、命そのものを包み込むかのような、柔らかい乳房……。ああ、思い出すだけで、なんと神々しい」
「やめろ! やめろ!」
俺は机を叩いた。
「何だ、その淫靡な顔と表現は!」
「事実ですから仕方ありませんでしょう?」
サキルは涼しい顔で首を傾げる。
「私は、陛下が我が主をパルとして召し上げるより前から、特別な関係だったのです」
「なにを!」
腹の奥に、理由の分からぬ熱が込み上げた。
「少し胸に触れた程度で、特別を名乗るな!」
「陛下は光る蛇を見たことすらないのでしょう?」
「見たことはないが、俺だって毎晩のように触っている! 右手だけではないぞ、左手でもだ!」
言い返した瞬間、サキルの眉がぴくりと動いた。
「それだけではないぞ」
ここで引くわけにはいかない。
「俺など、シャクの太ももへ頭を乗せてくつろぐことを許されている」
「は?」
「時折、シャクの胸が顔に触れることもある」
「は?」
「髪からも、肌からも、良い匂いがする」
「ちょ、ちょっと待ってください」
先ほどまでの余裕が、サキルの顔から一瞬で消えた。
両手をこちらへ突き出し、呼吸を整えようとしている。
「いきなり公式から、そのような情報を供給しないでください」
「公式?」
「心の準備が必要なんです!」
「何のだ」
「いえ、でも、ありがとうございます。もっとしてください」
「どちらなのだ」
サキルは胸元を押さえ、荒く息を吐いた。
目の焦点が怪しい。
だが、俺にも王として、夫として、譲れぬものがある。
「まだあるぞ」
「まだあるんですか」
「俺は、シャクから『やっくん』と呼ばれている」
サキルが固まった。
「お前は、相変わらず『サキルさん』ではないか?」
俺は腕を組み、勝利を確信して顎を上げた。
「どうだ。俺の方が特別であろう」
「やっくん……」
サキルの唇から、掠れた声が漏れる。
「おい?」
「我が主が……陛下を……やっくん……」
頬がみるみる赤くなる。
両手が震えた。
「無理……」
そう呟いた次の瞬間、サキルの体が椅子からずるりと崩れ落ちた。
「あ」
卒倒した。
またか。
床へ倒れ込む寸前、かろうじて肩を掴む。
ぐったりとしたサキルの顔には、なぜか満足そうな笑みが浮かんでいた。
「おい、サキル。起きろ」
返事はない。
「まだ、シャクが寝ぼけて俺の服を掴んで離さなかった話もあるのだが」
サキルの指先が、ぴくりと動いた。
聞こえているらしい。
「陛下……」
「何だ」
「それは……目覚めてから……詳しく……」
「都合のよい気絶だな」
結局、どちらがシャクにとって特別なのか。
その日の論争に、決着はつかなかった。
ただ一つ分かったことがある。
サキルにシャクとの夫婦生活を語る時は、寝台と侍女を先に用意しておくべきだ。
外交上、極めて重要な知見である。
「なにやってるんですか、まったく」
それまで黙っていたシャクがシンヤを抱いたまま侍女を呼びに行った。




