第6話 独房でのOJT! 異世界初の名刺交換
「ほら、今日の分のエサだよ。……って、あんた本当に毎日美味そうに食うね」
夕暮れ時、ピラミッドの陰に作られた私の社宅(個室という名の独房)の前に、カランと小気味よい音を立てて木製のお盆が置かれた。声をかけてきたのは、朝晩の配膳を担当してくれているデリバリースタッフ(家事奴隷)の女の子だ。
「うん! だってほら、ここの社食のお粥、最初はちょっと味が薄いなあって思ったけど、慣れるとトウモロコシの自然な甘みがほんのり口の中に広がって、すっごくおいしいのよ!」
檻の丸太をガシッと掴み、私が満面のビジネス笑顔で(もちろん日本語で)返すと、彼女は呆れ果てたように腰に手を当てて仁王立ちした。
歳の頃でいえば、前世の私より少し下――十代後半くらいだろうか。この世界の人々は頭の形を長く矯正している上に、独特の切れ長な目をしているので年齢の相関がイマイチ掴みにくいのだが、彼女のキビキビとした無駄のない動作からは、優秀な若手社員のようなオーラが漂っている。
彼女は、顔にヒョウ柄のようなタトゥーが彫られている。そういえば、ここの人たちは、みんな同じような柄のタトゥーを顔に彫っている。
これはあれか、民族とか国が分かるようになってるんじゃないだろうか。
運ばれてきたお粥には、スプーンやフォークといった現代的なカトラリーは一切付いていない。
それどころか、初日に役人から「エサを食べるとき、手を使ってはならん(※ジェスチャーからの推測)」と厳しく言われていた。
そのため、私はお盆を前にして地べたに這いつくばり、土下座するような姿勢で器に盛られたドロドロのお粥を直接口だけで啜り上げる。
客観的に見れば、檻の中で犬のようにエサを貪る哀れな奴隷の姿だ。
だが、限界OLのメンタルを甘く見てもらっては困る。
「郷に入っては郷に従え」って言うし、前世の修羅場(デスクで片手にマック、片手でキーボード)に比べれば、姿勢なんて些細な問題だ。むしろ、みんながこのルールでやってるなら、こっちのプロトコルとして「犬食い」だって別段気にならない。
ズズ、ズズズと綺麗に完食し、私は器をペロリと舐め上げた。
「ごちそうさまでした!」
空になった器を檻の外に差し出し、私は再び床に額を擦りつけて全力の土下座でお礼をする。
これは誰に教わったわけでもない。二十四年間、日本社会で生きてきた私なりの感謝のプレゼンテーションだ。
いくら奴隷の身分とはいえ、タダ飯(福利厚生)をもらっておきながら感謝の気持ちも表さないなんて、日本人の矜持が許さない。一宿一飯の恩義は絶対に忘れちゃならねえんだ。
初めてこれをやったとき、デリバリーの女の子は「ヒッ」と短く悲鳴を上げて引きつった顔でたじろいだ。
周囲の奴隷たちが私を「呪われた白いバケモノ」と恐れる中で、バケモノが突然目の前で五体投地(土下座)をしてきたのだから無理もない。
そのまま彼女はぷいっと顔を逸らし、逃げるように立ち去ってしまった。
けれど、私は諦めなかった。毎日の配膳のたびに、欠かさず「あざっす!」の精神で土下座を繰り返した。
すると何日か経ったある日、彼女はお盆を回収する際、軽く片手を挙げて「あ、ああ……」と、小さくぶっきらぼうな返事をしてくれたのだ。
(よしっ、顧客エンゲージメント獲得! コミュニケーション成立ね!)
私は床に額を伏せたまま、心の中でガッツポーズをキメた。
◇
そうこうしていると、彼女の態度にさらなる変化が現れた。
「ごちそうさまでした!」
いつものようにワンセットの土下座を終えて顔を上げたとき、ふと、彼女の足元に置かれた土製の水差しに目が留まった。
そういえば、今日のドブさらいはいつもよりハードだった。喉がカラカラに渇いている。
「あ、すみません。そのお水、一口いただいてもいいですか?」
私は彼女とまっすぐ目を合わせ、水差しを指さしてから、ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲むジェスチャーをしてみせた。
「ハ?」
彼女がこてんと首をかしげた。黒髪をきっちり結い上げた彼女のその仕草は、マスコットキャラクターみたいで地味に可愛い。
ちなみに、この「ハ」は日本語的な「はぁ?(何言ってんの?)」という聞き返しではない。彼女の視線は私の手元に注がれている。
「うんうん、そうそう。その『ハ』をください」
私が指さしとジェスチャーを繰り返すと、彼女は「ああ、分かった、分かった」というように小さく頷いた。そして、お盆の上に乗せた小ぶりのカップに、水差しからトトト……と透明な水を注ぎ、私の前に差し出してきた。
「ん」
カップを私の前に置いたあと、彼女はなぜかくるっと後ろを向き、檻に背中を向けたのだ。
「……? どういうこと?」
彼女の意図が読み取れず、私はカップを前にしたまま固まった。
この国では、飲食の際に手を使ってはいけないと厳格に教わった。実際、お粥は口だけで食べた。
なのに、いま彼女はわざわざ手で持てるカップに水を注ぎ、それを飲むような仕草をして見せた。
背中を向けた彼女の肩が、心なしか「早くしなよ」と急かしているように見える。
「あ……! もしかして、水分補給(水)のときは手を使って飲んでいいルールなの? ……それとも、『私は見てないから、今のうちに手を使ってサッと飲んじゃいなよ』ってこと!?」
どちらにしても、目の前のデリバリースタッフが、私に手を使った飲水を「黙認」してくれたことだけは確かだ。
私はありがたくカップを両手で掴み、丸太の隙間から一気に口へ流し込んだ。
「ぷはーっ! 生き返るーーー!」
現代のミネラルウォーターに比べれば少し生臭くて土の匂いがするけれど、贅沢を言わなければ十分に許容範囲内だ。
実はこっちに転生したばかりの頃、生水を飲んで何度か激しいデトックス(下痢)を経験した。
病院もない世界での腹痛と嘔吐は死を覚悟したが、最近はすっかりこの水に胃腸がアジャストしたのか、ビクともしなくなった。
人間、追い詰められれば環境に秒速で順応する生き物なのだなぁと、しみじみ実感する。
「ごちそうさまでした。スタッフさん、ありがとう!」
声をかけると、彼女がゆっくりとこちらを振り返った。
私は土下座から頭を上げ、泥まみれの顔いっぱいに輝くような笑顔を浮かべてお礼を言った。
「ん……」
彼女は小さく咳払いをすると、今度は私を避けるように立ち去るのをやめ、檻の前にすとんとしゃがみ込んだ。太い木格子の隙間越しに、私とまっすぐ目を合わせる。
彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど深い、黒に近い茶色だった。
バケモノ扱いばかりされる中で、そのアジア人によく似た落ち着いた色彩の瞳に見つめられると、元日本人としてなんだか無性にホッとする。
「ん、ん。……シャク」
彼女は細い指で私の胸元を指さし、現地の役人が私につけた奴隷名を呼んだ。
次に、彼女は自分の胸をトントンと軽く叩き、はっきりとした口調でこう言った。
「ネーン・サキル」
(あ、これ……自己紹介(名刺交換)だっ!!)
私の社畜脳がピピッと反応した。
「なるほど、ネーン・サキルさんね! 覚えました!」
嬉しくなった私は、満面の笑みを彼女に向けた。
一瞬、彼女はきょとんと大きな眼を見開いたが、すぐに「違う違う」というようにぶんぶんと首を振った。
「ネーン」
彼女はもう一度、自分の胸を指さす。
「ネッチ」
次に、格子越しに私の鼻先をビシッと指さした。
「ネッチ・シャク」
「ネーン・サキル」
彼女は自分と私を交互に指さしながら、何度も繰り返した。
その丁寧なOJT(教育)のおかげで、私の脳内翻訳機がガチッと噛み合った。完全に理解したわ。
「ネーン」は『わたし』で、「ネッチ」が『あなた』だ。これが記念すべき、私の初めての「正しい異世界言語の習得」だった。
「ネッチ・サキル!」
テンションが跳ね上がった私は、ぐいっと檻の隙間に顔を寄せ、格子の間から手を伸ばしてサキルの手をがっしりと握りしめた。
サキルは一瞬ビクッとしたものの、手を振り払うことはせず、何度も深くうなずいて私の言葉を肯定してくれた。
神の呪いだの何だのと騒ぎ立てる現地のロングヘッドたちの中で、彼女だけは驚くほどフラットに私を「一人の人間」として見てくれている。
「ねえねえ、サキルさん。じゃあ、さっきの『水を飲む』って、どう言うんですか?」
私はもう一度、カップを傾けて水を飲むジェスチャーをして、彼女の顔を覗き込んだ。
「ウク・ハ」
サキルは自分の口元に手を当てて飲む仕草をしながら「ウク」と言い、次に手元の水差しを指さして「ハ」と発音して見せた。
なるほど、水が「ハ」で、「飲む」が「ウク」。
こっちの言葉の基本構造は、日本語の「~を〜する」じゃなくて、英語の「Drink water」と同じ【動詞 + 目的語】の並びなのかな?
文法のアタリさえ引ければ、あとは単語のパズルだ。文系大卒の意地を見せて、この調子でどんどん基本名詞と動詞(ビジネス用語)をインプットしていくぞ!
その日から、独房のVIPルームを舞台にした、サキルと私による怒涛の「新入社員(奴隷)言語研修」が始まった。
とはいえ、ド底辺ドブさらい専門の私と、厨房のデスマをワンオペで回しているサキルが顔を合わせられるのは、朝夕の短い配膳時のみだ。
それでも、その数分間のタイムアタックの中で、私は貪欲にこっちの単語や動詞、数字を教わっていった。
前世で理不尽なカタカナビジネス用語や、クライアントのややこしい役職名を暗記させられてきた社畜の記憶容量が、ここに来て大爆発している。
研修が進むにつれて、私はこの世界の驚くべき側面に気がつき始めた。
どうやら、この国の人々は「二十進法(手足の指の数)」を使って数を数えているらしい。
それだけならまだしも、サキルが地面の泥に描いた数字の羅列には、なんと、何もない空位を意味する「ゼロ」の概念が明確に存在していたのだ。
(……あ、そういえば、学生時代の世界史の授業でやったっけ。マヤ文明って、当時のヨーロッパすら持っていなかった超高度な数学と天文学を操ってたんだよね?)
パズルのピースが、次々と頭の中で繋がっていく。
蛍光タトゥーが神の呪いと誤解されたピラミッド。
頭が長い不思議な群衆。
そして、この世界最高峰の数学システム。
(ってことは、やっぱりここは……ガチの『古代マヤ文明』の国なんだ……!)
「ねえサキルさん、この国は『マヤ』っていうんですか?」
かなりブロークンな現地語で配膳に来たサキルに質問してみた。
「ううん、違うよ。この国は『ティカル』っていうんだ。マヤなんていう国の名前は聞いたことがないなあ」
サキルが人差し指を口元に当てて遠くを見る仕草で記憶のインデックスを引いてくれた。
「そうなんだ。ごめんなさい、変なことを聞いて」
「全然構わないよ」
おそらく時代は、今から約千年以上前の古典期。
まさか過労死した果てに、えらく昔のメソアメリカの密林にタイムスリップして転生してしまったものだ。
「……でも、まあいっか! スマホもPCもないし、理不尽な仕様変更を言ってくるクライアントもいない! 千年前の定時退勤、マジで最高!」
独房の藁のベッドにひっくり返りながら、私は左上腕に刻まれた漆黒の「社員証(刺青)」を愛おしそうになぞった。針で刺されたところがモコモコと盛り上がっていて、ちょっと楽しいのだ。
言葉さえ手に入れば、私の奴隷ライフはさらに快適になる。明日も朝から、愛しのドブ(現場)が私を待っている。私は脳汁を心地よく溢れさせながら、泥のように深い眠りへと落ちていくのだった。




