第49話 弾道ミサイル着弾
私は今、体調に異変をきたしている。
朝、目が覚めるたびに胃がひっくり返るような感覚があって、食事のにおいだけで顔をしかめてしまう。
宮殿の台所から漂うカカオの香りさえ、今だけは勘弁してほしいと思う。
体がだるく、昼過ぎには決まって眠気が押し寄せてくる。
あまり具体的に言いたくはないのだが、前回の生理から三ヶ月が経過しているのだ。
「解せぬ」
すみません。嘘です。
心当たりが……ある。おおいにある。バチバチに、ある。
そもそもの始まりを思い出すと、やっくんとの出会いがヘドロの弾道ミサイルだった。
あのときは私がやっくんに着弾させた。
どうやら今度は、私が被弾したらしい。
言わせんな。
つまりこれは何かというと、人生で割と大き目なプロジェクトが、何のキックオフMTGもなく(いや、ミーティングからのジャストミートはしたけど……)、気づいたら既に第一フェーズを突破していた案件だ。
◇
この世界というか、この時代。妊娠検査薬などというものは、当然、存在しない。
妊娠の確定は、お腹が目に見えて大きくなってきて初めて「そうだね、そうみたいだね」と皆が認識するという、なんとも大らかな方式だ。
現代に換算すると、陽性反応でなく現物納品をもって検収完了とするスタイルである。
だが問題は確定の方法ではなく、その先にある。
医療はあるものの、かなり荒っぽい。
彼らは、出産のときの痛みを和らげるために麻酔薬を使うという知識も持っている。
ほぼ医療の知識がない私よりずっと進んでいるのだ。
それでも現代の産科医療と比べてしまえば、お世辞にも万全とは言えない。
ティカルでの出産は、命がけだ。
正直、ちょっと……いや、かなり怖い。
でも、まあ。根拠はないが、なんとかなる気がしている。
この時代に流れ着いてからというもの、いくつかの「なんとかなった」を積み重ねてきた。
ゴミ扱いで廃棄処分されても、ヘドロをすくっても、王宮クーデターを乗り越えても、なんとかなってきた。
だから今回もきっと大丈夫。
そう思うことにする。
それより気になるのは別のことだ。
産前産後休暇とか、この国にあるんだろうか? あったとして、王妃という役職に適用されるのか?
社会保険労務士にでも相談するか。
◇
やっくんに妊娠を告げたのは、朝の執務が始まる前の静かな時間だった。
「えっと……たぶんなんですけど……赤ちゃんができました」
やっくんは筆を止めた。コデックスに向けていた視線が、ゆっくりとこちらに移ってくる。
「……なにっ!? それは本当か?」
「たぶん間違いないと思いますよ。これまで生理が遅れたことなんてなかったし、それに最近、朝がつらくて」
「そうか。だが、寝起きが悪いのは前からではないか?」
「そういう意味じゃありません!」
やっくんの後頭部を「ぺい!」と叩いてやった。
「おい、王への暴力は反逆だと何度言えば……」
一拍の沈黙。
「でかした……ではない。『うれしみ』だな」
少しずつ自分の気持ちを口にしてくれるようになった。
いつもは微動だにしない口の端が、かすかに、でも確かに上がっている。
結婚してから、やっくんの「ツン」がどこかへ消えてしまった。
もともと穏やかな人だったのに、王という立場が彼に厳しい仮面を要求していたのだと今はわかる。
威圧感や殺気は今でも健在で、謁見の間に立てば臣下が背筋を正すのは相変わらずだ。
けれど執務室の中では、普通に笑う。
ふとした拍子に私の話を聞いて、笑う。
その顔が好きだ。
王が穏やかになったことで、王宮全体の空気も変わった。
廊下に笑い声が増えた。
食事の場が和やかになった。
小さな変化だけれど、積み重なれば大きい。職場環境改善、KPI達成である。
あ、そうだ。専務にも報告しなくちゃ。
◇
専務──王の右腕にして、王妃となっても私を「シャク」と呼んでからかうことを生涯の娯楽としているかのような、あの人──に伝えると、彼は珍しく表情を正して跪いた。
「イシュ・アハウ、ありがとうございます! これで我が国も安泰です!」
この日ばかりは「シャク」ではなく、王妃の称号で呼んでくれた。
目の端が光っているように見えたのは、たぶん私の気のせいではないと思う。
またか。
こら、大の男が泣くんじゃない。
……あの専務が泣くとか、これ相当な重大報告案件だったのではと、今さらながらに気づいた。
◇
その後の六ヶ月は、長くもあり、あっという間でもあった。
お腹が丸みを帯びてくるにつれて、宮殿中の視線が私に集まるようになった。
呪術師の老婆が毎朝ハーブの蒸気を嗅がせにきて、パルたちが寄ってたかって食事の世話を焼き、やっくんは公務の合間を縫っては私の様子を見に来ていた。
来たからといって何をするでもなく、ただ隣に座っている。それで十分だった。
「暇なら仕事してください」
「これも仕事のうちだ」
「どの辺が」
「福利厚生だ」
屁理屈にも磨きがかかってきた。
◇
雨季が終わり、乾季の乾いた風がティカルに吹き始めた頃、私のお腹は限界まで大きくなっていた。
陣痛が始まったのは明け方だった。
老婆の呪術師と産婆が入れ替わり立ち替わり部屋に来て、私の手を握り、額を拭い、祈りの言葉を唱え続けた。
痛みは波のように来て、引いて、また来た。
「痛いよーっ! やっくんのバカーっ!」
八つ当たりもはなはだしかったが、製造物責任があるので甘受してほしい。
扉の外で、やっくんがずっとうろうろしているのが分かった。
柱の陰でこそこそ祈っていたのは専務だ。
神官長は、なぜかマントウ持参で扉越しに待っていた。誰か止めてあげて。
長い長い時間が過ぎて、朝の光が差し込んでくる頃、産声が部屋に響いた。
「男の御子です」
産婆の声を聞いた瞬間、扉の外で、何かがドタバタと転げる音がした。誰?
私はぐったりと横たわりながら、そんな音を、遠くのことのように聞いていた。
「……疲れた。もう二度と、あんな全力の腹筋運動やりたくない」
これが、我が子との初対面の直前における、私の偽らざる感想である。




