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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第九章 生きるためのデスマーチ
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第48話 新米王女、シャクロス症候群にかかる

「――イシュ・カカヴ・サキル王女。行ってらっしゃいませ」


 侍女たちが一斉に頭を下げる中、私は玉座の間の扉が閉まるまで、必死に平静を装っていた。


 閉まった。


「……無理」


 その場にへなへなと座り込む。


 つい最近まで、あそこにいたのだ。我が主が。あの、私の最推しが。


「我が主がいなくなった王宮、ただの石の箱だ……」


 侍女の一人が、遠巻きに私を見ている。


「王女様、また……」


「またじゃない、いつもだから。重症なの」


 ◇


 我が主は、密約の締結と両親との再会という、私の人生における最大の奇跡をもたらしてから、数日間この宮に滞在してくれていた。だが、任務は終わった。国に帰らねばならない。当然のことだ。分かっている。分かっているのに。


 別れ際、我が主は私の額に、そっと口づけを落として言った。


「──たとえ離れていても、私はサキルさんの主です」


 無理……


 その瞬間、私の意識は白く飛んだ。


 気づいたら床に転がっていたらしい。両親が慌てて介抱してくれたと聞いたが、記憶がない。至福すぎて記憶が飛ぶという現象を、初めて体験した。


「我が主の温もりが、まだここに……」


 額を押さえたまま、私はしばらく動けなかった。


 ◇


 しかし、王女としての仕事は、私のシャクロス症候群など一切考慮してくれない。


「王女様、地方領主からの陳情でございます」

「王女様、隣の州との水利権について、ご裁定を」

「王女様、婚礼の儀への出席依頼状が三十七通」


 侍女や役人たちが、次から次へと樹皮紙の束を運んでくる。


「……分かりました。順番に見ます」


 シャクロスに浸っている暇は、どうやら与えられないらしい。私は涙を拭って、樹皮紙を手に取った。


 ◇


 そして、それから数ヶ月後。


 大干ばつが来た。


「――報告いたします。北部の穀倉地帯、地下水脈のおかげで農地への影響は最小限に留まっております」


「そう、よかった」


 私は執務室で、報告書に目を通しながら頷いた。ティカルから伝わってきていた「大干ばつが来る」という情報は、本当だった。さすが先読みの聖女様である。さすがすぎる。


「王女様。ティカルより、食糧支援の申し出が届いております」


 役人の一人が、恭しく樹皮紙を差し出した。


(我が主……。私たちのことまで気にかけて……)


 本来であれば、ここはヤシュ・バラム陛下のご高配に感謝すべきところなのだが、私の中での優先順位が逆転しているので許して欲しい。

 胸が熱くなるのを感じつつも、私は冷静に報告書と見比べた。


「――お断りしましょう」


「よろしいのですか」


「うちは北部の地下水で持ちこたえられます。その分の支援は、他の、もっと困っている国に回してあげてください」


「かしこまりました」


 役人が下がっていく。


(我が主にはいつも助けてもらってばかりだから、たまには、こっちが誰かを助けましょう)


 そう思うと、少しだけ、王女という肩書きにも意味がある気がした。


 ◇


 干ばつが落ち着いた頃、父上――ア・サカン・バラム王――から、思わぬ命令が下った。


「サキル。お前に、諜報部隊の統括を任せる」


「――は?」


 執務室で、思わず声が裏返った。


「お前ほど、この分野に精通した者はおらぬ。厳しいことは分かっている。だが……」


 父の目が、少しだけ揺れる。


「お前になら、あの子らを、正しく導けると思うのだ」


 その言葉に、私は一瞬、返答に詰まった。


 かつて、私自身が受けた仕打ち。顔にジャガーの紋を刻まれ、名前も出自も奪われ、道具として育てられた、あの日々。


「――絶対に、私と同じことはさせません」


 気づけば、そう口にしていた。


「私のような、本人の尊厳を踏みにじるような諜報活動は、絶対に、二度と、この国ではやらせません」


 父上は、静かに頷いた。


 ◇


 だが、いざ統括の座についてみると、途方に暮れた。


「尊厳を踏みにじらない諜報活動って、何……?」


 執務机に突っ伏して唸る。


 これまでの手法は、幼い子供を誘拐同然に連れ去り、頭の形も、顔の紋様も、言葉すらも偽装させ、敵国の一部として長年潜入させるというものだった。それを禁じるなら、残る手段は限られる。


「商人や神官に扮して市場の噂を集める……くらいしか、まともなやり方が思いつかない」


 でも、それだと、得られる情報のレベルが、どうしても浅くなる。市場の噂話と、王宮の中枢で交わされる密談とでは、価値が天と地ほど違う。


 腕を組んで唸っていると、ふと、あることに気づいた。


「――待って。ティカルは、もう、敵国なんかじゃない!」


 私は、がばりと顔を上げた。


「友好国、っていうか、それ以上の関係よね……我が主もいるし……」


 だったら、こそこそ隠れて盗み見る必要なんて、そもそもないのではないか。


「堂々と、お互いに、人を送り込めばいいんじゃない?」


 我ながら、天才だと思った。


「潜入させて情報を盗むんじゃなくて、正式な立場で交換するの。役人を相互に駐在させて、公式な窓口として、堂々と情報をやり取りする」


 そうすれば、隠れて集める噂話より、はるかに質の高い、国家間の直接の情報が得られるはずだ。しかも、誰も傷つかない。


「これよ、これしかない!」


 私は勢いよく立ち上がり、机の上の樹皮紙をひっくり返しそうになった。


「諜報部隊、改め――『外交部』!」


 我ながら、名案だと思った。


 誰か褒めて欲しい。


 ◇


 だが、新しい制度を作るには、まず、これまでの体制がどうなっていたかを、正確に把握する必要がある。


「旧王朝の記録を、すべて出してください」


 古びた書庫の奥、埃をかぶった樹皮紙の束が、山のように積み上げられていた。私は一つ一つ、丹念に目を通していく。


 そして、ある一束を手に取ったとき、私の指が止まった。


「――イシュ・カカヴ・サキル、ティカルへ送致後の処遇について」


 自分の、記録だった。


 震える手で読み進める。


『被験体を送致後、監督役夫婦は任務完了に伴い、無価値の駒として、ア・サカン・バラム邸の家事奴隷へ配属』


『監督役 夫チャン・クチ 妻イシュ・チェル・カブ』


「――は?」


 私は、二度、三度と、その一文を読み返した。


「先生……夫婦が……?」


 私を育ててくれた、あの二人。物心ついた頃から、言葉も所作も、ティカル人としての生活のすべてを叩き込んでくれた、あの「先生」。


 彼らが、私が送り出されたあと、用済みとして、私の――実の両親の屋敷の、家事奴隷に落とされていた。


「そんな……」


 さらに読み進めると、もっとひどい事実が出てきた。


『監督役夫婦には、被験体の出自について一切開示せず。「貴族の娘」とのみ通達』


 つまり――先生夫婦は、自分たちが育てていた子供が、まさか自分たちが仕える屋敷の、本当の娘だとは、知らなかった。


 そして両親も、自分の屋敷で働く奴隷夫婦が、まさか、遠く離れた場所で自分の娘を育てていた張本人だとは、知らなかった。


 十年近く、同じ屋敷の中で、互いにその事実を知らないまま、暮らしていたのだ。


「……とことん、ひどい」


 樹皮紙を握りしめる手が、震えた。


 ◇


 その夜、私は両親と、そして「先生」夫婦を、一つの部屋に呼び出した。


「――これを」


 私が差し出した記録を、母上が最初に読んだ。読み進めるうちに、その顔から血の気が引いていく。


「まさか……あなた方が……」


 母上が、震える声で、部屋の隅で控える疲れた男女を見た。


「先生」夫婦は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、既に涙が滲んでいる。


「……申し訳、ございません」


 先生――「お父さん」と、かつて心の中でだけ呼んでいたあの人が、深く頭を下げた。


「私たちは、あなたを育てる任務を、ただの仕事として受けました。……いえ、違います。最初はそうでした。でも」


 声が、震えていた。


「途中から、本当に、あなたのことが、我が子のように――」

「たかが諜報のために、なぜこんな幼子が犠牲にならなければならないのかと、心が張り裂けそうな毎日でした」


 先生夫婦が、胸の内を明かした。


「いつか、謝りたいと、ずっと思っていました。……あなたを、道具として育ててしまったことを」


 私は、しばらく何も言えなかった。

 それから、静かに立ち上がり、二人の前に膝をついた。


「先生。……いえ、もう、その呼び方はやめます」

「チャン・クチ、イシュ・チェル・カブ」


「王女様……」


「あなた方を、今この瞬間をもって、奴隷の身分から解放します。そして――外交部預かりの、正式な職員として、これからも私の側にいてください」


 先生夫婦が、声を上げて泣き崩れた。


 母上と父上も、静かに涙を流していた。


(我が主が教えてくれた。過去は変えられなくても、これからの扱いは、自分たちで選び直せるって)


 私は、そっと目元を拭った。


「これから忙しくなりますよ。外交部、本格的に立ち上げますから」


 先生――もう先生ではなく、これからは同志と呼ぶべき人が、涙を拭いながら、力強く頷いた。


「「御意のままに!」」


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