第48話 新米王女、シャクロス症候群にかかる
「――イシュ・カカヴ・サキル王女。行ってらっしゃいませ」
侍女たちが一斉に頭を下げる中、私は玉座の間の扉が閉まるまで、必死に平静を装っていた。
閉まった。
「……無理」
その場にへなへなと座り込む。
つい最近まで、あそこにいたのだ。我が主が。あの、私の最推しが。
「我が主がいなくなった王宮、ただの石の箱だ……」
侍女の一人が、遠巻きに私を見ている。
「王女様、また……」
「またじゃない、いつもだから。重症なの」
◇
我が主は、密約の締結と両親との再会という、私の人生における最大の奇跡をもたらしてから、数日間この宮に滞在してくれていた。だが、任務は終わった。国に帰らねばならない。当然のことだ。分かっている。分かっているのに。
別れ際、我が主は私の額に、そっと口づけを落として言った。
「──たとえ離れていても、私はサキルさんの主です」
無理……
その瞬間、私の意識は白く飛んだ。
気づいたら床に転がっていたらしい。両親が慌てて介抱してくれたと聞いたが、記憶がない。至福すぎて記憶が飛ぶという現象を、初めて体験した。
「我が主の温もりが、まだここに……」
額を押さえたまま、私はしばらく動けなかった。
◇
しかし、王女としての仕事は、私のシャクロス症候群など一切考慮してくれない。
「王女様、地方領主からの陳情でございます」
「王女様、隣の州との水利権について、ご裁定を」
「王女様、婚礼の儀への出席依頼状が三十七通」
侍女や役人たちが、次から次へと樹皮紙の束を運んでくる。
「……分かりました。順番に見ます」
シャクロスに浸っている暇は、どうやら与えられないらしい。私は涙を拭って、樹皮紙を手に取った。
◇
そして、それから数ヶ月後。
大干ばつが来た。
「――報告いたします。北部の穀倉地帯、地下水脈のおかげで農地への影響は最小限に留まっております」
「そう、よかった」
私は執務室で、報告書に目を通しながら頷いた。ティカルから伝わってきていた「大干ばつが来る」という情報は、本当だった。さすが先読みの聖女様である。さすがすぎる。
「王女様。ティカルより、食糧支援の申し出が届いております」
役人の一人が、恭しく樹皮紙を差し出した。
(我が主……。私たちのことまで気にかけて……)
本来であれば、ここはヤシュ・バラム陛下のご高配に感謝すべきところなのだが、私の中での優先順位が逆転しているので許して欲しい。
胸が熱くなるのを感じつつも、私は冷静に報告書と見比べた。
「――お断りしましょう」
「よろしいのですか」
「うちは北部の地下水で持ちこたえられます。その分の支援は、他の、もっと困っている国に回してあげてください」
「かしこまりました」
役人が下がっていく。
(我が主にはいつも助けてもらってばかりだから、たまには、こっちが誰かを助けましょう)
そう思うと、少しだけ、王女という肩書きにも意味がある気がした。
◇
干ばつが落ち着いた頃、父上――ア・サカン・バラム王――から、思わぬ命令が下った。
「サキル。お前に、諜報部隊の統括を任せる」
「――は?」
執務室で、思わず声が裏返った。
「お前ほど、この分野に精通した者はおらぬ。厳しいことは分かっている。だが……」
父の目が、少しだけ揺れる。
「お前になら、あの子らを、正しく導けると思うのだ」
その言葉に、私は一瞬、返答に詰まった。
かつて、私自身が受けた仕打ち。顔にジャガーの紋を刻まれ、名前も出自も奪われ、道具として育てられた、あの日々。
「――絶対に、私と同じことはさせません」
気づけば、そう口にしていた。
「私のような、本人の尊厳を踏みにじるような諜報活動は、絶対に、二度と、この国ではやらせません」
父上は、静かに頷いた。
◇
だが、いざ統括の座についてみると、途方に暮れた。
「尊厳を踏みにじらない諜報活動って、何……?」
執務机に突っ伏して唸る。
これまでの手法は、幼い子供を誘拐同然に連れ去り、頭の形も、顔の紋様も、言葉すらも偽装させ、敵国の一部として長年潜入させるというものだった。それを禁じるなら、残る手段は限られる。
「商人や神官に扮して市場の噂を集める……くらいしか、まともなやり方が思いつかない」
でも、それだと、得られる情報のレベルが、どうしても浅くなる。市場の噂話と、王宮の中枢で交わされる密談とでは、価値が天と地ほど違う。
腕を組んで唸っていると、ふと、あることに気づいた。
「――待って。ティカルは、もう、敵国なんかじゃない!」
私は、がばりと顔を上げた。
「友好国、っていうか、それ以上の関係よね……我が主もいるし……」
だったら、こそこそ隠れて盗み見る必要なんて、そもそもないのではないか。
「堂々と、お互いに、人を送り込めばいいんじゃない?」
我ながら、天才だと思った。
「潜入させて情報を盗むんじゃなくて、正式な立場で交換するの。役人を相互に駐在させて、公式な窓口として、堂々と情報をやり取りする」
そうすれば、隠れて集める噂話より、はるかに質の高い、国家間の直接の情報が得られるはずだ。しかも、誰も傷つかない。
「これよ、これしかない!」
私は勢いよく立ち上がり、机の上の樹皮紙をひっくり返しそうになった。
「諜報部隊、改め――『外交部』!」
我ながら、名案だと思った。
誰か褒めて欲しい。
◇
だが、新しい制度を作るには、まず、これまでの体制がどうなっていたかを、正確に把握する必要がある。
「旧王朝の記録を、すべて出してください」
古びた書庫の奥、埃をかぶった樹皮紙の束が、山のように積み上げられていた。私は一つ一つ、丹念に目を通していく。
そして、ある一束を手に取ったとき、私の指が止まった。
「――イシュ・カカヴ・サキル、ティカルへ送致後の処遇について」
自分の、記録だった。
震える手で読み進める。
『被験体を送致後、監督役夫婦は任務完了に伴い、無価値の駒として、ア・サカン・バラム邸の家事奴隷へ配属』
『監督役 夫チャン・クチ 妻イシュ・チェル・カブ』
「――は?」
私は、二度、三度と、その一文を読み返した。
「先生……夫婦が……?」
私を育ててくれた、あの二人。物心ついた頃から、言葉も所作も、ティカル人としての生活のすべてを叩き込んでくれた、あの「先生」。
彼らが、私が送り出されたあと、用済みとして、私の――実の両親の屋敷の、家事奴隷に落とされていた。
「そんな……」
さらに読み進めると、もっとひどい事実が出てきた。
『監督役夫婦には、被験体の出自について一切開示せず。「貴族の娘」とのみ通達』
つまり――先生夫婦は、自分たちが育てていた子供が、まさか自分たちが仕える屋敷の、本当の娘だとは、知らなかった。
そして両親も、自分の屋敷で働く奴隷夫婦が、まさか、遠く離れた場所で自分の娘を育てていた張本人だとは、知らなかった。
十年近く、同じ屋敷の中で、互いにその事実を知らないまま、暮らしていたのだ。
「……とことん、ひどい」
樹皮紙を握りしめる手が、震えた。
◇
その夜、私は両親と、そして「先生」夫婦を、一つの部屋に呼び出した。
「――これを」
私が差し出した記録を、母上が最初に読んだ。読み進めるうちに、その顔から血の気が引いていく。
「まさか……あなた方が……」
母上が、震える声で、部屋の隅で控える疲れた男女を見た。
「先生」夫婦は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、既に涙が滲んでいる。
「……申し訳、ございません」
先生――「お父さん」と、かつて心の中でだけ呼んでいたあの人が、深く頭を下げた。
「私たちは、あなたを育てる任務を、ただの仕事として受けました。……いえ、違います。最初はそうでした。でも」
声が、震えていた。
「途中から、本当に、あなたのことが、我が子のように――」
「たかが諜報のために、なぜこんな幼子が犠牲にならなければならないのかと、心が張り裂けそうな毎日でした」
先生夫婦が、胸の内を明かした。
「いつか、謝りたいと、ずっと思っていました。……あなたを、道具として育ててしまったことを」
私は、しばらく何も言えなかった。
それから、静かに立ち上がり、二人の前に膝をついた。
「先生。……いえ、もう、その呼び方はやめます」
「チャン・クチ、イシュ・チェル・カブ」
「王女様……」
「あなた方を、今この瞬間をもって、奴隷の身分から解放します。そして――外交部預かりの、正式な職員として、これからも私の側にいてください」
先生夫婦が、声を上げて泣き崩れた。
母上と父上も、静かに涙を流していた。
(我が主が教えてくれた。過去は変えられなくても、これからの扱いは、自分たちで選び直せるって)
私は、そっと目元を拭った。
「これから忙しくなりますよ。外交部、本格的に立ち上げますから」
先生――もう先生ではなく、これからは同志と呼ぶべき人が、涙を拭いながら、力強く頷いた。
「「御意のままに!」」




