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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第九章 生きるためのデスマーチ
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第47話 ティカルの水は枯れず

 結局、ティカルの全リソースの作業効率は、当初予測の実に五百パーセント増し(当社比)というキチガイのような数値を叩き出した。


 いや、あれは数字では足りない。


 あの日あの場所で起きたのは、効率の話ではなかった。奴隷も平民も役人も神官も商人も、それぞれの矜持と感情と覚悟を、全部まとめてヘドロの中に放り込んで、ひとつの熱狂になった。そういう話だった。

 スコップが唸り続ける限り、誰も止まらなかった。途中でリタイアした私を除いては。


 そして、泥を全て排出し終えたその翌日、私はもう一つの提案をした。


「やっくん、泥を上げても、乾季が来たら強い太陽光で水がどんどん蒸発しちゃいます。だから、貯水池の大部分に、切り出した軽い木材や巨大なパームの葉を編んだ『巨大な蓋』を浮かべましょう。日光を遮って、水の蒸発スピードを遅らせるんです」


「なるほど。すぐに職人たちを動かそう」


 やっくんはこういうとき、余計なことを言わない。それが好きだ。

 かくして「貯水池のフタ作戦」が追加実施され、水のロスを最小限に抑えるリスク管理が完成した。

 あとは、待つだけだった。


 一週間後。

 空の色が、少し変わり始めていた。


 雲の流れが薄くなり、日差しが鋭さを増す。神官たちが星を読み、口々に「異変がある」とつぶやき始めた。農民たちの間でも、不安のざわめきが広がりつつあった。

 しかし、貯水池には水がある。まだ、十分にある。


「先読みの聖女様が言っていた通りだ」


 誰かがそう言うのを、私は市場の片隅で聞いた。聞こえないふりをして、ひっそりとその言葉を胸にしまった。


 ◇


 一ヶ月後。

 雨が、降らなくなった。


 一滴も、降らなかった。


 周辺の小国から、最初の難民が出たという報告が届いたのはこの頃だ。

 畑が干上がり始め、小さな貯水池が底を見せ始めた村々から、人々が水を求めて移動し始めているという。

 ティカルの国境では、難民の受け入れをどうするかという議論が始まった。

「受け入れる。ただし、順序立てて。チャーク・ツィブ、受け入れ体制の設計を」

「御意に」

 やっくんの判断は、いつも早い。

 そしてティカルの貯水池には、まだ、水があった。フタが、じりじりと照りつける太陽から水面を守り続けていた。


 ◇


 三ヶ月後。

 大干ばつ、という言葉が、もはや誰の口からも疑いなく出るようになった。

 周辺国の農地が次々と枯れていった。

 カカオの木が葉を落とし、トウモロコシの茎がひからびた。

 川の水位が下がり、枯れた川底が白く晒されている――そんな報告が、毎日のように王宮に届く。

「神の怒りだ」と言って、生贄の儀式を繰り返す国が出始めた。人を捧げれば雨が来ると信じて。

 私はその報告を聞くたびに、胸の奥が重くなった。

 でも、ティカルには水があった。もちろん生贄の儀式なんて行っていない。神官長は、マントウを捧げておやつ三昧だ。

 カラクムル北部の新王ア・サカン・バラム陛下からは、約束通り、干ばつに強いトウモロコシが定期便でどっさりと届き続けていた。

 カラクムルからトウモロコシを運ぶルートは、繰り返し踏み固められ、いつしか「マサの道」として整備されることとなる。

「水がある……」

 市場で、平民の老人がつぶやくのを聞いた。

「本当に、ある」

 その声は、祈りのようだった。


 ◇


 半年後。

 隣国が、崩壊した。


 正確には「国家としての機能を失った」という表現が正しいだろうが、現実として起きたことは崩壊だった。水がなく、食料がなく、民が離散し、権力の中枢が機能しなくなった。

 指導者たちは「天罰だ」と言い続けたまま、何もできずに終わった。


 カラクムル旧中央の、かつて蛇の王家が治めていた地域も同様だった。すでに権力の座から引きずり落とされた彼らの旧領では、新しい統治体制が整う前に干ばつが直撃し、民が路頭に迷い始めていた。

 その人々に向けて、やっくんはポーターたちにトウモロコシを積ませ、静かに国境を越えさせた。

「なぜそこまで?」

 私が聞くと、やっくんはあの意地悪な顔で言った。

「カラクムルにはシャクの臣下がいるであろう。ならばカラクムルは俺が守るべき土地でもある」

「……かっこいいこと言いますね」

「事実を言っているだけだ」


 ◇


 そして、ティカルは、生きていた。


 極限まで有効ボリュームを拡張され、私発案のフタで守られた貯水池には、まだ澄んだ水が並々と蓄えられていた。

 カラクムルからのトウモロコシは止まらない。

 難民として流れ込んできた他国の人々が、ティカルの労働力として静かに組み込まれ、国の底力がじわじわと厚みを増していた。


「水がある……っ! トウモロコシもある……っ!」

「本当に、聖女様と陛下の言った通りだ……! ティカルは、干ばつに勝ったんだ!」


 国中で、平民たちの歓喜の声が上がった。

 約束通り、泥さらいを生き抜いた奴隷たちは全員が平民へと解放され、ティカルの労働市場はかつてないほどの活気に満ち溢れていた。一部の奴隷は「誇りある奴隷」の道を自ら選び、ホワイト奴隷ライフを謳歌しているらしい。謳歌できる環境になったこと自体が、たぶん大事なのだ。


 ◇


 国民が力を合わせて耐えに耐え、ついに次の雨季が来た!


 ティカルは、未曾有の大天災を、事前のデータ分析と、王族総出の泥まみれの現場力で、完全にクリアしてみせた。


「ふぅ……これでひとまず、干ばつの生存戦略は納品完了・検収ね」


 王宮の涼しい回廊で、私はすっかり綺麗になった王妃用ウイピルを着て、冷たいカカオをすすっていた。

 聖女用のものに王妃の刺繍を追加しただけという、ある意味正直すぎる一着だ。


 言うまでもないが、首にはしっかりと奴隷の首輪が嵌まっている。


 これがないと、なんとなく落ち着かない。たぶん私は、死ぬまでこれを外さない。


 足元では、泥をきれいに洗い流してふわふわになったクロが、満足そうに「ふにゃあ」と喉を鳴らしながら眠っていた。神獣、熟睡中。


「本当によくやった、シャク。お前は名実ともに、この国の絶望を書き換えた、偉大なる我が王妃だ」


 後ろから歩いてきたやっくんが、愛おしそうに私の肩を抱き寄せ、やわらかく口づけを落とした。

 頬が、じわりと熱くなる。

 王妃になってからも、このひとはずるい。全くもって、ずるい。


(次の生き残り戦略は……確か世界史で習ったあれ――)


 脳内ですでに次の課題のピースが動き始めていた。性分というやつだ。どうしようもない。


 くそっ。王妃(役員)になったから、残業代も有給もなくなってしまったではないか。


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