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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第九章 生きるためのデスマーチ
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第46話 三号貯水池――女性だけの現場

 三号貯水池は、比較的小規模だった。


 そしてそこで作業しているのは、全員が女性という特殊な現場だ。

 大規模な貯水池に男性の人手を優先的に割り振った結果だろう。合理的な判断だ。分かる。分かるが――。


「選択と集中、か」


 前世の嫌な記憶が、じわりとよみがえる。経営者が好んで使うこの言葉。割を食うのは、いつだって「選択されなかった人」と「集中から外された部署」だ。その人たちが消耗品として静かに削られていくのを、私は何度も見てきた。


(よし。この現場は、私が預かろう)


「やっくん、私はこの現場に残って作業を続けていいですか? ドブさらいのプロである私が、テコ入れします!」


 胸をとんと叩いて、ドヤ顔を決める。


「いいだろう。ここはお前に任せる。俺は他の貯水池を回ってくる」


 やっくんが私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 子供扱いか。私、一応王妃なんですけど。


「一緒にやりましょう!」


 私が現場に踏み込むと、作業中の女性たちが一斉に固まった。


「い、イシュ・アハウが一緒に!? そんな、畏れ多いです……!」


 強い日差しを受けて汗を滴らせながらも、泥を掻く手を止めずに恐縮している。その手が、疲労でかすかに震えているのが見えた。


「こう見えても、私、ドブさらいのプロなんですよ」


 言うが早いか、私は爆発気味に泥を掻き出し始めた。


「な、なに、あのスピード……! あの小さな体でどうやったら……」

「そういえば、ずいぶん前に陛下にヘドロをぶちまけた女奴隷がいたって話、聞いたことあるけど。もしかして……」


 三号貯水池がざわめく。


「はい! 私がその女奴隷です!」


 泥にまみれて妙なテンションになっている私は、満面の笑みで噂の真相を暴露した。

 しばしの沈黙の後。


「……ドブさらいを一所懸命やれば、王妃になれるチャンスもあるってこと……?」

「え、じゃあ、私たちだってここで頑張ればワンチャンあり?」


 いつの時代でも女性は夢見がちで、たくましい。

 私は、にっこり微笑むことで答えをごまかした。否定も肯定もしにくい。思った方向とは大きく違ってしまったが、三号貯水池のモチベーションが爆上がりしたので、まあよしとする。


 そのモチベーションにあてられた私も、どんどんペースを上げていった。


 それにしても、今日は暑い。

 ティカルは赤道直下ではないが、日本よりもずっと南にある。熱帯雨林の湿度は半端じゃない。普段だって十分すぎるほど暑いのだが、今日のこれは、何か違う気がした。


(なんか……顔が、いつになく火照るな)


 泥を掻き出すペースが、ほんの少し落ちた気がした。

 いや、これくらいでへばる私じゃない。土木課のときは、もっと働けていたんだ。

 自分に喝を入れて、もう一度スコップを深く差し込む。


(それにしても、暑い)


 ぎらつく太陽を見上げた瞬間だった。


「痛っ……!」


 ふくらはぎに、鋭い痙攣が走った。


「いたたたたた……っ!!」


 思わずうずくまる。スコップを支えにして堪えようとしたが、膝が笑っていた。


「イシュ・アハウ、大丈夫ですか!?」


 近くの女性が手を止めて駆け寄ってくれた。


「ありがとうございます。足がつっただけだから、大丈夫です」


 額に脂汗が滲んでいた。それを悟られないよう、無理やり笑顔を作る。

 少しして痙攣が収まると、また立ち上がった。スコップを握り直す。

 でも、おかしかった。

 ペースが上がらない。体が重い。いつもと違う。土木課で何時間でも掻き続けられたあの体が、今日に限って、言うことを聞いてくれない。


(おかしいな。これくらいで……)


 視界の端が、にじんだ気がした。


(あ)


 脳裏に一瞬だけ、前世の記憶が走った。

 気づいたら全部終わっていた、あの感覚。


(やばい。これは二回目の――)


 それきり、私の意識は途切れた。


 ◇


「シャク! 目が覚めたか!」

 次に目を開けたとき、見慣れた天井があった。

 やっくんの部屋だった。


 泥はきれいに洗い流され、柔らかい木綿の服に着替えさせられていた。ベッドの端に、やっくんが座っていた。その顔を見て、私は少し驚いた。

 いつも整っているこの人の顔が、今日だけは、どこか乱れていた。


「私……過労死したんじゃ……」

「していない!」


 珍しく、被せ気味に返ってきた。声が、わずかに上ずっていた。


「お前は、三号貯水池で倒れたのだ。クロがものすごい勢いで俺のところに来て、貫頭衣を咥えて三号貯水池に引っ張られたのだ。そうしたらどうだ、シャクが泥の中で倒れているではないか! 幸い、暑さに当てられただけだ。大事には至っていない」

「そうか……よかった」

「よくない!」


 やっくんの眉が、珍しい形に寄っていた。困っているのでも、怒っているのでも、たぶんない。ただ、何かを持て余しているような顔だった。


「お前は……倒れたと報告を受けたとき、俺は」


 そこで、やっくんは一度口を閉じた。

 言葉を選んでいるというより、感情を整理しているように見えた。このひとがそういう顔をするのを、私はあまり見たことがなかった。


「お前がいなくなってしまうかと思って、気が気でなかった」


 静かな声だった。怒鳴るでもなく、芝居がかるでもなく、ただ、本当のことを言っている声だった。

 私はしばらく天井を見つめてから、やっくんの顔を見た。


「……心配、かけてごめんなさい」

「ああ」

「最後までやり遂げられなくて、ごめんなさい」

「そんなことはどうでもいい」

「え、でも納期が――債務不履行になっちゃいますよ?」

「どうでもいい、と言った」


 やっくんの声が、一段低くなった。低いが、怒っていない。むしろその逆だった。


「俺が怖かったのは、そういうことじゃない。……分かるか」


 分かった。

 分かってしまったから、なんと返せばいいか分からなくて、私はしばらく黙っていた。


「へへ」


 結局、口から出たのはそれだけだった。


「よかったですね。いなくならなくて」

「ああ」


 やっくんは短く答えてから、ゆっくりと私の頭に手を置いた。くしゃくしゃに撫でるのでも、軽く叩くのでもなく、ただ、そっと乗せた。重さだけがそこにある、静かな手。


「もう、あまり無理をするな」

「……はい」


 今度は、素直に頷けた。

 なんだろう。また顔が火照ってきた。熱中症はもう治ったはずなんだけど。これはたぶん、熱中症じゃない。どっちかというと「ね・ちゅー・しよう」的なやつだ。


「あの、やっくん」

「なんだ」

「……その手、もう少しそのままでいいですか」


 一瞬の沈黙。


「……好きにしろ」


 もう手は、どこにも行かなかった。


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