第46話 三号貯水池――女性だけの現場
三号貯水池は、比較的小規模だった。
そしてそこで作業しているのは、全員が女性という特殊な現場だ。
大規模な貯水池に男性の人手を優先的に割り振った結果だろう。合理的な判断だ。分かる。分かるが――。
「選択と集中、か」
前世の嫌な記憶が、じわりとよみがえる。経営者が好んで使うこの言葉。割を食うのは、いつだって「選択されなかった人」と「集中から外された部署」だ。その人たちが消耗品として静かに削られていくのを、私は何度も見てきた。
(よし。この現場は、私が預かろう)
「やっくん、私はこの現場に残って作業を続けていいですか? ドブさらいのプロである私が、テコ入れします!」
胸をとんと叩いて、ドヤ顔を決める。
「いいだろう。ここはお前に任せる。俺は他の貯水池を回ってくる」
やっくんが私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
子供扱いか。私、一応王妃なんですけど。
「一緒にやりましょう!」
私が現場に踏み込むと、作業中の女性たちが一斉に固まった。
「い、イシュ・アハウが一緒に!? そんな、畏れ多いです……!」
強い日差しを受けて汗を滴らせながらも、泥を掻く手を止めずに恐縮している。その手が、疲労でかすかに震えているのが見えた。
「こう見えても、私、ドブさらいのプロなんですよ」
言うが早いか、私は爆発気味に泥を掻き出し始めた。
「な、なに、あのスピード……! あの小さな体でどうやったら……」
「そういえば、ずいぶん前に陛下にヘドロをぶちまけた女奴隷がいたって話、聞いたことあるけど。もしかして……」
三号貯水池がざわめく。
「はい! 私がその女奴隷です!」
泥にまみれて妙なテンションになっている私は、満面の笑みで噂の真相を暴露した。
しばしの沈黙の後。
「……ドブさらいを一所懸命やれば、王妃になれるチャンスもあるってこと……?」
「え、じゃあ、私たちだってここで頑張ればワンチャンあり?」
いつの時代でも女性は夢見がちで、たくましい。
私は、にっこり微笑むことで答えをごまかした。否定も肯定もしにくい。思った方向とは大きく違ってしまったが、三号貯水池のモチベーションが爆上がりしたので、まあよしとする。
そのモチベーションにあてられた私も、どんどんペースを上げていった。
それにしても、今日は暑い。
ティカルは赤道直下ではないが、日本よりもずっと南にある。熱帯雨林の湿度は半端じゃない。普段だって十分すぎるほど暑いのだが、今日のこれは、何か違う気がした。
(なんか……顔が、いつになく火照るな)
泥を掻き出すペースが、ほんの少し落ちた気がした。
いや、これくらいでへばる私じゃない。土木課のときは、もっと働けていたんだ。
自分に喝を入れて、もう一度スコップを深く差し込む。
(それにしても、暑い)
ぎらつく太陽を見上げた瞬間だった。
「痛っ……!」
ふくらはぎに、鋭い痙攣が走った。
「いたたたたた……っ!!」
思わずうずくまる。スコップを支えにして堪えようとしたが、膝が笑っていた。
「イシュ・アハウ、大丈夫ですか!?」
近くの女性が手を止めて駆け寄ってくれた。
「ありがとうございます。足がつっただけだから、大丈夫です」
額に脂汗が滲んでいた。それを悟られないよう、無理やり笑顔を作る。
少しして痙攣が収まると、また立ち上がった。スコップを握り直す。
でも、おかしかった。
ペースが上がらない。体が重い。いつもと違う。土木課で何時間でも掻き続けられたあの体が、今日に限って、言うことを聞いてくれない。
(おかしいな。これくらいで……)
視界の端が、にじんだ気がした。
(あ)
脳裏に一瞬だけ、前世の記憶が走った。
気づいたら全部終わっていた、あの感覚。
(やばい。これは二回目の――)
それきり、私の意識は途切れた。
◇
「シャク! 目が覚めたか!」
次に目を開けたとき、見慣れた天井があった。
やっくんの部屋だった。
泥はきれいに洗い流され、柔らかい木綿の服に着替えさせられていた。ベッドの端に、やっくんが座っていた。その顔を見て、私は少し驚いた。
いつも整っているこの人の顔が、今日だけは、どこか乱れていた。
「私……過労死したんじゃ……」
「していない!」
珍しく、被せ気味に返ってきた。声が、わずかに上ずっていた。
「お前は、三号貯水池で倒れたのだ。クロがものすごい勢いで俺のところに来て、貫頭衣を咥えて三号貯水池に引っ張られたのだ。そうしたらどうだ、シャクが泥の中で倒れているではないか! 幸い、暑さに当てられただけだ。大事には至っていない」
「そうか……よかった」
「よくない!」
やっくんの眉が、珍しい形に寄っていた。困っているのでも、怒っているのでも、たぶんない。ただ、何かを持て余しているような顔だった。
「お前は……倒れたと報告を受けたとき、俺は」
そこで、やっくんは一度口を閉じた。
言葉を選んでいるというより、感情を整理しているように見えた。このひとがそういう顔をするのを、私はあまり見たことがなかった。
「お前がいなくなってしまうかと思って、気が気でなかった」
静かな声だった。怒鳴るでもなく、芝居がかるでもなく、ただ、本当のことを言っている声だった。
私はしばらく天井を見つめてから、やっくんの顔を見た。
「……心配、かけてごめんなさい」
「ああ」
「最後までやり遂げられなくて、ごめんなさい」
「そんなことはどうでもいい」
「え、でも納期が――債務不履行になっちゃいますよ?」
「どうでもいい、と言った」
やっくんの声が、一段低くなった。低いが、怒っていない。むしろその逆だった。
「俺が怖かったのは、そういうことじゃない。……分かるか」
分かった。
分かってしまったから、なんと返せばいいか分からなくて、私はしばらく黙っていた。
「へへ」
結局、口から出たのはそれだけだった。
「よかったですね。いなくならなくて」
「ああ」
やっくんは短く答えてから、ゆっくりと私の頭に手を置いた。くしゃくしゃに撫でるのでも、軽く叩くのでもなく、ただ、そっと乗せた。重さだけがそこにある、静かな手。
「もう、あまり無理をするな」
「……はい」
今度は、素直に頷けた。
なんだろう。また顔が火照ってきた。熱中症はもう治ったはずなんだけど。これはたぶん、熱中症じゃない。どっちかというと「ね・ちゅー・しよう」的なやつだ。
「あの、やっくん」
「なんだ」
「……その手、もう少しそのままでいいですか」
一瞬の沈黙。
「……好きにしろ」
もう手は、どこにも行かなかった。




