第45話 ロイヤル・ドブさらい
バッ――――ッ!!
演説が最高潮に達したその瞬間、やっくんと私は、申し合わせたわけでもなく、目配せしたわけでもなく、ただ同じ呼吸で、同時に動いた。
やっくんの手が、王の証である豪奢なマントの留め具を引き千切る。
私の手が、総刺繍のウイピルの肩を、力任せに引き裂く。
布地が、悲鳴を上げた。絶対に破れた。あとで専務に怒られるやつだ。でも今は関係ない。
衣服の下から現れたのは――あの、懐かしい貫頭衣だった。
土木課の、作業用の、薄汚れて粗末な、でも私たちが一番よく知っている、あの布。奴隷も平民も、目の前で泥にまみれる民たちと、何ひとつ変わらない、あの布。
次の瞬間。
「「えいっ」」
「がうっ!」
やっくんと私は飛んだ。なぜかクロも飛んでいる。ドロドロと黒く淀んだ泥の海へ、一欠片の躊躇もなく、体ごと。
――ッ!!
時間が、止まった。
奴隷たちが止まった。
平民たちが止まった。
神官が、役人が、見物していた商人たちが、全員が、まるで世界ごと息を止めたように静止した。
誰も、声を出せなかった。
最高権力者である国王と、生まれたばかりの新しい王妃が、泥の中にいる。ヘドロの中にいる。民たちと、同じ場所に、同じ姿で、並んでいる。
その事実を、その光景を、この世界に生きる誰もが、まだ「現実」として処理できていなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
そして――大地が、揺れた。
「「「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!!!!!」」」
地鳴りだった。
歓声などという生易しいものではない。
数百人の人間の感情が、怒号と喜びと信頼と解放感が、一つに混じり合って炸裂した。
あれはもはや音圧だった。
前世の夏フェスを思い出した。胸のタトゥーがちくりと痛んだような気がした。
足元の泥がびりびりと震えるのを、私はたしかに感じた。
「よし、やるぞやっくん! 『生きるためのデスマーチ』だっ!」
私はマイスコップを両手で構えた。
体が覚えている。フォームが、勝手に出る。重心を低く、背中を使って、腰で押し込む。一掻き、二掻き、三掻き――ヘドロが宙を舞い、土手の上へと叩きつけられていく。
横を見れば、やっくんが現場の木製スコップを手に取り、王とは思えない豪快な動きで黒い塊を放り投げていた。鍛え抜かれた上腕が躍動するたびに、見事な量のヘドロが吹き飛ぶ。惚れ惚れする。
なにをやらせてもかっこいいな、このジャガーは。
そしてクロ。
水辺に棲むジャガーの血がそうさせるのか、泥だらけになりながら「がうがう!」と現場を縦横無尽に駆け回り、四肢で掻き上げた泥しぶきを周囲に盛大に撒き散らしている。
本猫にしてみれば、ただの遊びなのだろう。だがその全身全霊の楽しそうな姿が、場の空気をさらに数段階引き上げていた。
「おい見ろ――陛下が、自ら泥を掻き出しているぞ!」
誰かの声が、現場の空気を切り裂いた。
「イシュ・アハウ(王妃様)もだ! 嘘だろ、あのフォームと速度……! あれは、普通じゃないぞ!?」
ここで私は、少しだけ手を止めた。
普通じゃない、という言葉が、変な方向に刺さった。そうだ、私は普通じゃない。前世でも、働いて働いて、限界を超えて、それでも「もう少しだけ」と言い聞かせて、最後はオフィスの床で終わった。あれも、ある意味「普通じゃない」働き方だった。
でも今は違う。
今は選んでここにいる。使い潰されているのではなく、使い潰されることを、自分で選んだ。その違いがどれほど大きいか、泥の中に立って初めて、分かった。
「おいおい、国家のツートップがあんなに死に物狂いで泥まみれになってるのに、俺たちがサボってられるかよ――!」
「よっしゃあ! 奴隷解放だ! 家族に水を残すぞ! さっさと片付けるぜ!」
火が、ついた。
もはや誰も止められなかった。
スコップが唸り、泥が飛ぶ。
怒号と笑い声が交差する。
奴隷が、平民が、役人が、ひとつの塊になって黒いヘドロへと牙を剥く。
さらに。
「神聖なる王妃様が泥まみれなど不敬である!」
さっきまで演説広場の端でそう叫んでいた神殿の若手神官ズが、気づけば神官服を脱ぎ捨て、腰まで泥に浸かりながらスコップを振り回していた。
……おい、さっきの叫びはなんだったんだ。
土木課の役人ズも負けていない。いや、負けたくないのだろう。
神官ズと役人ズの間で、いつのまにか「どっちが多くの泥を掻き出せるか」のプライドをかけた熾烈な競争が始まっていた。
大爆笑しながら頭を泥の中に突っ込み、転げ回り、また立ち上がってスコップを振るう。
どこの男子校の泥んこ祭りだ。でも――最高だ。
私はスコップを動かしながら、こっそり口元を緩めた。
そのとき、見覚えのある顔が目に入った。
「あっ――あれは奴隷商人!」
転生初日に私を売った(捨てた)あの男が、スコップを握って泥の中に立っていた。
「お久しぶりです。来てくれたんですね。ありがとうございます! あのときは、値が付かなくてごめんなさい」
「これはこれは、イシュ・アハウ。まさかあの日のバケモノ……いえ、失礼。あの日のあなた様が、まさか王妃におなりなるとは思いもしませんでした」
「あはは、バケモノでいいですよ。私も自分が王妃になるなんてまっぴらごめんだったんですけどね。でも、王妃になったことでまたドブさらいに戻れたんで、よかったと思っています」
「あなたというお方は……」
なぜか怪訝な顔をされた。まあ、そうだろうとは思う。
掘り進みながら、一号貯水池の隅に目をやると、見覚えのある背中が見えた。
右手だけでスコップを握り、ちまちまと、だが確実に、泥を掻き出している人物がいた。
「アフ・トク・チャアク(戦斧の破壊者)さん! 来てくれたんですね」
駆け寄りながら声をかける。監督官は振り向いて、少しだけ寂しそうな顔をした。それから、はにかんだ。
「片手だけじゃやりにくくないですか?」
「俺は、兵隊だったときに戦でケガをして左手で力仕事ができなくなった。だから自分で動かなくていい現場監督官になった」
手を止めずに、そう言った。
「しかし、お前がフグリの責任を何十倍にもしてとってみせたのだ。余剰分を返しにきただけだ」
胸が、じわりと熱くなった。この人はずっと、ここにいたかったのだ。体が動かなくなっても、誰かと並んで泥を掻きたかったのだ。
私はその隣に、静かにスコップを構えた。
「……一緒にやりましょう」
返す言葉はそれだけで十分だった。
片手と両手で、でも同じリズムで、私たちは並んで泥を掻き出した。
◇
しばらくして、後ろからやっくんの声がした。
「シャク、他の貯水池にも行くぞ」
「チャーク・ツィブ、着いて来い。お前が説明しないと話が通じん。泥まみれの王と王妃では、誰が誰だか分からんからな」
「御意に!」
やっくんは私の横に並びかけると、監督官へと向き直った。
「アフ・トク・チャアク。ティカルの王、そして軍司令官として、勇猛なる戦士であるお前に一号貯水池の監督権を与える。これ以降、この貯水池の責任者としてやり遂げ、この国を救ってみせろ!」
「は……はっ!」
監督官は、何年も封印していたであろう戦士の敬礼で、やっくんに力強く復命した。
その目が、かつて私が初めてここに来た日とは、まるで別の光を帯びていた。
やっくんのこういう人たらしなところが、憎たらしくて好きだ。
私たちは次の貯水池へ向かった。泥まみれの王と王妃と、巨大な黒い神獣が、ティカルの大地をずんずんと歩いていく。
背後から、監督官が片手でスコップを振るう音と、その周りで人々が一斉に動き出す音が、遠ざかりながらも確かに聞こえていた。




