第43話 私を使い潰しなさい!
「報酬三倍? そんなもんじゃ人は動きません。のんびり作業をしたって報酬をもらえるなら、むしろ効率が下がります」
私は肩で息をしながら、やっくんたちを睨みつけた。別に怒っているわけではない。ただ、時間がない。本当に、ないのだ。
「ならばどうする?」
「それは……」
その言葉を口にする前に、一瞬だけ、目を瞑った。
瞼の裏に、『あの夜』が蘇る。
終電を逃した真夜中のオフィス。LEDがしょぼく光るフロア。積み上がった書類のピラミッド。かび臭いエアコンの風。キーボードを叩く自分の指が、途中からうまく動かなくなって――そして気がついたら、見知らぬ空の下で、全裸でピラミッドだった。
結局、ピラミッドだった。
なんだそれ。
笑えない。本当に笑えない話だ。
だから今世こそは、と誓っていた。
誰かの命令で動いて、適度に働いて、普通に生きて、普通に死ぬ。
それだけでいいと思っていた。
使われることは得意だが、使い潰されることは二度とごめんだ。
あの夜の重さを、もう一度背負う気には、どうしてもなれなかった。
なのに……
なのに私は今、どうしてこんなに全員を助けたいと思っているんだろう。
市場で見かけるあの子どもたちの顔が、脳裏をよぎった。神殿の階段に腰かけて笑っていたおばあさん。早朝から貯水槽の周りで黙々と働いていた若い男たち。誰一人として名前も知らない。でも――
死なせたくない。
どこから来た感情なのか、自分でも分からなかった。
恐かった。
また同じことになったら、と思うと、手が震えた。
あのときの息苦しさを思い出すたびに、胃液が逆行してくるように口の中が苦くなる。
それでも、この言葉以外に答えが見つからなかった。
私はお気に入りのスコップを、一度だけ、床にカツンと力強く置いた。
足元でクロが「うう……がう」と小さく怯えたように身をすくめる。
ごめんね、クロ。大丈夫、あなたには関係ない話だから。私が今から喧嘩を売るのは、この国の王様一人だけだから。
「――クフ・ヤシュ・ヌーン・アハウ(神聖なるヤシュ・ヌーン・アハウ陛下)」
ボロ布の奴隷だった頃には決して使わなかった、ティカル最高峰の格式ある言葉が、震える喉の奥から絞り出されていた。
それは、決して嘘や冗談で口にしはいけない言葉だった。
その名を呼んだ瞬間から、私の言葉はすべて本当のことでなくてはならない。
私だって、それくらいの常識はドブから拾い上げたつもりだ。
私の声が神殿の天井へと昇っていく。白い石造りの空間の中で、その音が何度も反響して、静寂に溶けていく。
私は一呼吸だけ置いて、言った。
「私をあなたの正室に娶りなさい!」
「そして、それを国中に、今この瞬間に宣言しなさい!!」
しん、と静まり返った。
私の粗い息遣いだけが、音として存在した。
一拍、二拍。
誰かが唾を飲み込む音が、ひどくよく聞こえた。
広間に居並ぶ家臣たちが、一様に石になったみたいに固まっている。
「この娘は正気か」という顔が、あちこちに揃っていた。
正気ですよ。残念ながら。
「な……っ、シャク? この非常事態に、何を――」
驚愕に目を見開くやっくんを、私は鋭い視線で制した。
「ふざけていません」
初めて会ったとき、このひとの目を見てメンチを切ろうとして、膝が笑ってどうしようもなかった。
でも今は違う。膝は震えているが、それは恐怖ではなく、覚悟が体の重さに変わったせいだ。
「役人は『民や奴隷の士気が低い』と言いました。だから――私が王妃として先頭に立ちます」
私は、自分の着ている総刺繍の聖女用ウイピルの裾を、力任せにガシッと掴んだ。
「王がどれだけカカオ豆を積んだって、平民は冷ややかに見ています。『どうせ偉い奴らは高みの見物だ』って。人間ってそういうもんです。私もそう思っていました。何度も。何度も……そう思っていました」
ここで一度、息が詰まった。
『何度も』という言葉が、思いがけず自分の喉に引っかかった。
それは前世の記憶だった。
どれだけ必死に働いても、上の人間は数字しか見ていなかった。
労働力としての私は必要とされていたが、人間としての私はどこにもいなかった。
そういう職場だった。
そういう世界だった。
私はその中で、じわじわと、音もなく、使い潰され、すり潰されて消えていった。
だから怖かった。
また消えるのが。
また誰かのために削られて、削られて、気づいたら何もなくなっているのが。
前世でやっと手放したはずの重さを、もう一度背負うことが、怖くて仕方がなかった。
でも……
「だけど!」
声が震えた。
「陛下が最も愛し、最も敬う、ティカルの最高権力者たる正室(王妃)が、この最高級のウイピルを引きちぎって、ドロドロのヘドロの中に自ら飛び込み、狂ったようにスコップを振るっていたらどうですか!」
一歩、また一歩と前に出た。
「『あの高貴な王妃様が泥にまみれて国を救おうとしてるのに、俺たちが寝ている場合か!』って、全平民のモチベーションが振り切れて、死に物狂いで泥を掻き出します。絶対に、そうなります。人間ってそういうもんだって、私は『身体』で知っています」
気がついたら、やっくんの胸ぐらを掴むような距離に、顔を近づけていた。
金色の瞳が、すぐ目の前にあった。
「今、目の前に死にかけている人たちがいる。名前も知らない人たちが、大勢いる。その人たちの顔が頭から離れなくて……どうしても、助けたくて……」
あれっ。
なんで私、泣いているんだろう。
啖呵を切っている最中だというのに、視界がじわりと滲んでいた。
頬が熱い。
情けない。
本当に、情けない。
過労死した元社畜が、転生先でも結局、誰かを助けるために自分の命を投げ出そうとしている。
お人好しにもほどがある。
馬鹿みたいだ。
我ながら、本当に馬鹿みたいだ。
でも、引けなかった。
だってここには、やっくんがいる。
私がどれだけ必死に働いても数字しか見なかった前の上司たちとは、何もかもが違う。
この人は怒鳴らない。
私を消耗品だと思っていない。
毎晩、残業に付き合ってくれて、正論を正論として聞いてくれて、奴隷のくせに生意気だと切り捨てなかった。
私がカラクムルに行くときも、「生きて帰れ」と言った。
この人のそばで使われるなら、怖くない――そう思った瞬間が、いつからかあったのだ。
「ティカルの主、神聖なる王。あなたの絶対的な命令だけでは足りない。私のこの命と、これから手に入れる『王妃』という最上位のステータスを、今ここで最大の煽り材料として使い潰しなさい!」
涙を零しながら、それでも私は最後まで言い切った。
「私は奴隷のシャク。ドブさらいは大得意です。あなたの最愛の妻として、国母として、この国を、ティカルの全ての愛すべき民を、一ヶ月で一人も欠けることなく救ってみせます……っ!!」
言い終わった。
あとは息を切らして、やっくんを睨みつけることしかできなかった。
広間が、まだ水を打ったように静かだった。家臣たちも、専務も、誰一人として声を発しない。この一瞬を、全員が固唾を飲んで見守っていた。
やっくんはしばらく、呆然と私を見つめていた。
やがて、その綺麗な顔がゆっくりと歪んだ。
怒っているのでも、困惑しているのでもなかった。
切なく、それ以上ないほど愛おしそうに、このひとは『破顔』した。
前にも後にも、あんな顔をやっくんがするのを、私は見たことがない。
「……はは」
低く、掠れた、笑い声だった。
「お前という奴は」
「笑わないでください」
「笑うだろう、これは。この期に及んで、ドブさらいに戻るため、俺に求婚してくるとはな」
やっくんは一歩だけ詰め寄ると、力強く私の腰を引き寄せ、壊れ物を抱くように、だけど絶対に離さないという強さで、抱きしめた。
「だが却下だ」
「解せぬ!」
これまで最高の「解せぬ」が飛び出した。
私の涙を返して欲しい。
ただ、その腕の中は、恐ろしいほど温かかった。
前世で誰かに抱きしめられた記憶が、私にはほとんどない。
仕事だけして、仕事だけして、仕事の中で消えた私には、こういう場所が最後までなかった。
「いいだろう、我が最愛の聖女、我が唯一の正室。お前の提示した極悪な納期、『お前と共に』泥にまみれて死守してやる」
耳元で、すべてを背負う覚悟を決めた王の声が、静かに響く。
「シャク」
「……はい」
「愛してるぞ」
ぎゃーーーーーーっ!!
日本語だった……
私にしか分からない言葉で、一ミリの迷いもなく、やっくんは言い切った。
反則だ。
ずるい。
あまりにも、ずるい。
ずるすぎて最低で最高だ。
「チャーク・ツィブ! すぐに婚姻と、王妃のドブさらい出陣の布告を国中に流せ!」
「御意に、我が国王陛下、そして我が王妃……っ!」
大広間の影から飛び出してきた専務が、これまでにない興奮した顔で叫び、爆速で布告を書き始めた。
いい大人が泣くな。
私はやっくんの胸の中で、こっそり一度だけ、深く息を吐いた。
やってしまった。本当に、やってしまった。
また使い潰されるかもしれない。また削られて、すり減って、気づいたら何もなくなっているかもしれない。あの恐怖は、まだ胸の奥に確かにある。消えていない。
でも。
この腕の中なら。
この人と一緒に泥まみれになるなら。
後悔は、これっぽっちも、なかった。
こうして、ティカルの歴史に前代未聞の「結婚即ドブさらいの王妃」という、とち狂ったページが付け加えられた。




