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ティカルの奴隷は定時で帰りたい  作者: 吉川すずめ
第九章 生きるためのデスマーチ
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第42話 はい。最悪の先読みです

 シャチク教ができたせいで前以上に忙しくなってしまった。

 私の願いであるのんびり奴隷ライフはどこに……


「一号貯水池の泥排出に関する進捗をご報告いたします」


 神殿の大広間で、やっくん以下国の重鎮や役人、神殿の神官ズが全員集合で役人からの報告に聞き入る。

 私はといえば、やっくんの後ろに立ち、目立たないように顔を伏せて控えている。目立たないようにしているはずなのに、絶対目立ってる。たぶん、この中でやっくんの次くらいに目立ってる。


 話は、激動のカラクムルから王宮へと帰国したときに遡る。

 無事に自室へと戻り、旅の泥にまみれた最底辺の奴隷服(ボロ布)を着替えようとした私は、衣装棚を開けた瞬間、文字通りフリーズした。


「……は? なにこれ、私のいつもの奴隷用ウイピルじゃない。っていうか、生地のクオリティがおかしい」


 そこに用意されていたのは、一般のパルが着るような、実用性重視の地味な貫頭衣(ウイピル)では明らかになかった。


 それは、ティカル最高峰の織り手たちが総力を挙げて織り上げたであろう、極上の白い綿布。首回りや裾には、神聖なマヤ・ブルーとサフラン色の先染め糸で、見たこともないほど緻密で幾何学的な「世界の階層(天・地・地下)」を表す精霊の紋様が、びっしりと刺繍されている。


 一目で「あ、これ、国家予算が数千万単位で溶けてる特注品だわ」と分かる、圧倒的なオーラを放つ『聖女専用ウイピル』だった。


「シャクよ、それは陛下より、お前の格に合わせて支給された公式服だ」


 背後からスッと現れた専務が、目の奥を怪しく光らせてクククと笑う。


「今のシャクは、ただの奴隷ではない。敵国を無血で買収し、さらに『神の化身(クロ)』を乗り物にして凱旋した、我が国が誇る象徴――すなわち、『先読みの聖女』なのだ。神官ズの老人どもも、その服を着たお前の前では、不敬を恐れてひれ伏すしかなかろう。無論、いずれそこに『王妃の紋様』が上書きされる予定だが……ふふふ」


「えええええ!? ちょ、ちょっと待って専務! こんな総刺繍のホワイト企業すぎる高級服、泥まみれのドブさらいの現場に着て行けないじゃないですか! 汚したら一発で生贄ものですよこれっ!?」


 本人はいつまでも「目立たない指示待ち奴隷」のつもりでいたいのに、外見の包装紙だけが完全にラスボス級へと強制アップデートされていく。

 鏡に映る、見たことのないほど高貴で美しい自分(いや、本当に美しいんだよ、これが)を見て頭を抱える私と、背後で「実に素晴らしい費用対効果」と満足げに頷く専務、そして私の新しい服の裾にじゃれて「がうっ」と甘噛みしてくる神獣クロ。


 そんなことがあり、今の私は、めちゃくちゃ高級な聖女用ウイピルを着て陛下に仕える最上級奴隷のような梱包がなされているのだ。中身は、ドブさらい大好きド底辺奴隷なのに。


「解せぬ」


 ◇


「一号貯水池の泥排除作業は、最大の動員をかけて行っております。しかしながら、当初の見込みよりかなり遅れているのが現状です」


「なぜ遅れているのか?」


 専務が冷静に突っ込む。


「はっ、まず、まだ雨季が明けていないため、泥を排出しても雨が降るとまた流れ込んでしまい、作業をした分ほど進まないのが第一の原因かと分析いたします」

「第二は?」

「第二の原因が……」


 役人が口ごもる。


「かまわぬ。隠し立てせず報告してよい」

「かしこまりました。第二の原因は、作業に徴用した民や奴隷の士気が低いことがあげられるかと……」


 役人の声が消え入るように小さくなる。

 やっくんがすっと手を挙げて発言する。


「ふむ……それも致し方なかろう。奴隷や民に鞭打って働かせる時代でもない。やりたくもない仕事をやってもらっているのだ、そうそう士気も上がるまい。もっとも、ドブさらいで士気が爆上がりする聖女もいるようだが」


 大広間中の視線が私に集中する。

 やめて。私に話を振らないで。


「泥の排出については、長期的に取り組むこととする。雨季が終われば作業も捗るであろう」

 専務がまとめてくれた。


「続いては、神殿から周辺国の状況について報告いたします」


 今度は神官長が報告に立つ。


「西の海に面するソコヌスコなどの神殿より上奏が。儀式に捧げる『聖なる魚』や、王宮へ納める高級な貝の捕獲量が、例年の三割も減っているとのこと。現地の漁師どもは『海の女神が隠れてしまわれた』と怯えておりますが、単なる不漁にしては、海水が妙に温かいという奇妙な報告もあります。これは、以前にお伝えしたとおりにございます」


 神官長は、樹皮紙をめくって続ける。


「南の山々の神殿から届いた、聖なる鳥(ケツァール)の観測記録ですが。例年なら乾季の終わりに飛来するはずの群れが、なぜか数ヶ月も前倒しで、すでに我が国の南の森に大挙して押し寄せてきています。神官どもは『吉兆か凶兆か』と騒いでおりますが、算術的な周期が完全に狂っております」


 さらに報告が続く。


「東側の海の交易路を司る神殿からの報告です。毎年この時期には、海を割るような大嵐が何度も貿易船を襲うはずなのですが、今年は驚くほど海が静かで、嵐の発生数が『ゼロ』なのです。商人は『神の加護だ』などと喜んで航海しておりますが、これほど雨季の海に風が吹かないのは、過去の碑文にも例がございません」


「そういえば、ここティカルでも、雨季に入り、毎日雨が降っているというのに、夜になっても一向に気温が下がりませぬ。石床に寝ていても、妙に寝苦しい夜が続いておるのです。水路の貯水データに異常はありませんが、何かが『いつもと違う』ような気がして……」


 役人の一人が発言した。


「……え?」


 その報告を聞いた瞬間、私の記憶の奥底からけたたましい警報音が鳴り渡った。


 役人たちの何気ない現場報告。神官長が読み上げる遠くの海の観測記録。

 ひとつひとつは、どれもたいした内容ではないように聞こえる。


 西の海の不漁と、海水が妙に温かいという奇妙な現象。

 南の山のケツァールが、数ヶ月も前倒しで大挙して押し寄せてきているバグ。

 東の海の貿易路で、雨季だというのに嵐の発生数が「ゼロ」という異常値。

 そして、ここティカルで毎日雨は降っているのに、夜になっても一向に気温が下がらない、不気味なほどの熱帯夜。


(これ……これって、まさか……)


 前世の日本のテレビで、異常気象の特番を見るたびに気象予報士が深刻な顔で解説していた、あの地球規模の巨大な大気海洋現象。


 エルニーニョだ。


 貿易風(東風)が異常に弱まることで、太平洋(マヤでいう東の海)の温かい海水が東へと広がり、世界中の気象システムを完全に狂わせる、あの悪魔のような気候変動。


「……あ」


 血の気が引いてふらつく。


「シャク? どうした、顔色が悪いぞ」


 私の様子に気付いたやっくんが支えてくれた。ありがとう。


 毎日雨が降っているから、役人たちは「まだ雨季だ」と安心している。水路の貯水データに異常がないから、誰も気づいていない。

 だけど違う。これは単なる雨季の日常じゃない。

 世界規模の大干ばつが、目の前まで迫っている一刻も猶予がない状態なのだ。


 私はいつものように「いえ、なんでもないです!」と笑うことができなかった。

 あまりの恐怖に、総刺繍の最高級ウイピルの袖をぎゅっと握りしめ、震える声で発言を求めた。


「やっ……陛下……専務……緊急です……超重大なアラートです」


 大広間の空気が、私の悲壮な声によって一瞬で凍りついた。のんきに泥の排出を「長期的に取り組む」なんて言っている場合じゃない。


「シャクよ、急にどうしたのだ。聖女の先読みか?」


 専務が目を鋭く光らせる。


「はい、最悪の先読みです。東の海で嵐が『ゼロ』なのは、神の加護なんかじゃありません。『東から西へ吹くはずの聖なる風(貿易風)』が、今、完全に停止している証拠です」


「風が……止まっている? 風が止まると何かまずいのか?」


 やっくんが眉をひそめる。


「はい、まずいです。風が止まったから西の海へ温かい海水が押し流されず、海水の温度が異常に上がっているんです。海水が温かいから魚や貝は逃げ出し、現地の気流がバグって、南の山の鳥たちは『おい、今年の気候はおかしいぞ』と命の危険を察知して、数ヶ月も前倒しで我が国の森へ避難してきているんです。ここティカルの夜が寝苦しいのも、風が止まって熱が逃げていないからです」


 私は半ば過呼吸になりながら、神殿の大広間に集まった重鎮たちを見渡した。みんな、私が何を言っているのか分からず、ポカンと口を開けている。


「それが、我が国にどう影響するというのだ? 雨は現に、毎日降っているではないか」


 神官長が不思議そうに尋ねる。


「そこが最大の罠なんです。今降っている雨は、ただの『最後の帳尻合わせ』です。風が止まったことで、温かい空気の塊がこの地域に完全に停滞しています。……これが何を意味するか分かりますか?」


 私はやっくんの目を真っ直ぐに見つめ、絶望の数式を突きつけた。


「この雨季が明けた瞬間、過去の碑文のどこにもない、何年も続く『大干ばつ』が始まります。 来るはずの次の雨季は来ません。貯水池の水は一滴残らず干上がり、トウモロコシの畑は全滅します。のんびり雨季が明けるのを待ってから泥を上げようなんて、そんな生ぬるいスケジュールで動いていたら、ティカルは国ごと完全に『終わり』になります……」


(ただ、史実でそれが証明されているとは、まだ言えない)


 大広間に、水を打ったような静寂が訪れた。


「何年も、雨が降らない……だと……?」


 役人の一人がガタガタと震え出す。神官ズも、私のただごとではない剣幕と、あまりにも辻褄が合いすぎる気象の分析に、顔を真っ青にしている。


「猶予は……あとどれくらいだ、シャク」


 やっくんの金色の瞳だけが、冷徹に、そして私への絶対の信頼を乗せてギラリと光った。


「この雨が止まるまで、おそらく、あと一ヶ月もあるかないかです。今すぐ、全人員のタスクを再配分してください! 奴隷の士気が低いなんて言っている場合じゃありません! ティカルの全平民、いえ貴族階級もすべてを動員して、一刻も早く各貯水池の泥をすべて掻き出さなきゃダメです! タンクの容量を最大化しておかないと、私たちは全員、干からびて死にます!!」


 ここまで、努めて「落ち着いて」「トーンを落として」と自分に言い聞かせながら説明していたが、もうダメだ。


 私が叫び終えると、やっくんは即座に立ち上がり、大広間が揺れるほどの声で怒号のような命令を、国中へと下した。


「――聞いたな、諸官! これよりティカルは『最大非常事態体制』へと移行する! チャーク・ツィブ、国庫を全開放しろ! ドブさらいの作業員には通常の三倍の報酬を支払え! 聖女シャクの言葉通り、一刻の猶予もない! 動け!!」


「ハッ!!」


 専務の目がキランと光り、役人たちが悲鳴のような返事を上げて一斉に走り出そうとしたそのとき。



「待ってください!!」



 私が渾身の大声で全員の足を止めた。


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