第41話 シンプル・イズ・ザ・ベスト
「シャチク教」の看板が掲げられてから、数日後。
「教義の細目を、今日、正式に定める」
神官長がそう告げたとき、私は嫌な予感しかしなかった。
「もう名前も決まって、生き様を拝むってことも決まったじゃないですか。何をまだ決めるんですか」
「名前と方針が決まっただけだ。中身がなければ、宗教とは呼べぬだろう」
執務室の大机には、いつのまにか、神官長、専務、そしてやっくんが揃っていた。おまけに、下級神官の若者まで、緊張した面持ちで隅に控えている。
「なんでこんな大所帯になってるんですか」
「教義の制定は、国家の一大事業だ。関係者を集めるのは当然であろう」
神官長が、当然のように言った。専務は、既にペンを構えていた。もう記録する気満々である。
「では、始めよう」
神官長が、厳かに樹皮紙を広げた。
「まず、戒律を定める。週に一度は必ず神殿へ参れ。次に、供物は――」
「待ってください」
「なんだ」
「戒律って、何のためにあるんですか?」
「民の行動を正しく導くためだ」
「その戒律を守るのが大変な人って誰ですか?」
「無論、民であろう」
「でしょう? 私、無駄に戒律を増やすの、絶対反対です」
私は、机の上の樹皮紙を指で叩いた。
「戒律って、増やせば増やしただけ、真面目な人ほど縛られるんです。『週に一度は神殿へ』なんて決めたら、忙しい農繁期の人まで、無理して来ようとする。無理させるのってよくないですよ」
「では、戒律なしで、民をどう導く」
「導かなくていいんです」
「――は?」
神官長が、本気で虚を突かれた顔をした。
「だって、シャチク教は『生きざま』が拝む対象じゃないですか。生きざまが人を導くっておかしいですよね? 導いたら、それはもう命令や強制です。だから、『こう生きろ』っていう命令じゃなくて、『こう生きたら、たぶん楽になるよ』っていう、ただのヒントでいいと思います」
「ヒント、とな」
「はい。戒律じゃなくて、ヒント」
やっくんが、腕を組んで唸った。
「面白い発想だ。信者に一本の道を示すのではなく、信者には道を選択する自由があり、道を選ぶためのヒントを示すということか」
「そうです!」
さすがやっくん。理解が速い。
専務が、ペンの動きを止めた。
「行政的観点から申し上げますと、戒律を厳格に定めれば、その運用・監視のための人員が必要になります。違反者の処罰規定も要ります。……正直、事務負担が甚大です」
「専務、今、めちゃくちゃ実務的な理由で賛成してくれました?」
「あくまで行政効率の観点から発言しただけだ」
「それ、賛成ってことですよね」
専務は答えず、再びペンを走らせた。
◇
「では、戒律なしとして……次だ」
神官長が、気を取り直したように続けた。
「奇跡の記述を、詳しく残す。『泥より生まれし女神の御業――』」
「ちょっと待った!」
「またか」
「女神の御業だとか、そういう、私を持ち上げる書き方、やめてください」
「泥より生まれし女神としか書いておらんが?」
「泥イコール私じゃないですか!」
「いちいち細かい奴だ。教義に、お前の軌跡の数々を書かずして、何を書けと言うのだ」
私は、腕を組んで、少し考えた。
「そもそも奇跡じゃありませんし。『事実』の形で書くなら、私の名前じゃなくて、やったことの中身だけにしてください」
「意味が分からぬ」
「たとえば、『匿名希望のSさんが、山崩れを事前に見抜き、住民を救った』って書けば、それは『Sさん』の話であって、『私』の話にならないでしょう」
下級神官の若者が、たまらずといった様子で口を挟んだ。
「恐れながら申し上げます。それでは、後世の者が、その『匿名希望のSさん』が誰なのか分からなくなってしまいます」
「匿名希望だから分からなくていいんです」
私は、その若者の目をまっすぐ見て言った。
「土石流のときは、やっくんが即座に兵を動かしてくれたから、みんな助かった。カラクムルのときは、サキルさんの覚悟があったから無血で済んだ。それだけです」
若者が、黙って聞いている。
「教義に固有名詞を刻んだ瞬間、それは『個人崇拝』になります。私が崇拝されたら、死んだあとまで信仰の中でこき使われるじゃないですか。死んだあとくらい休ませてください」
やっくんが、静かに口を開いた。
「一理ある。功績を一人の名に集約することは、他の働きを見えなくする。それに、その個人が死後、自分に対する信仰をコントロールできなくなるのもよくない」
神官長が、渋々といった様子で頷いた。
「……よかろう。人物名は、記述から外そう。功績のみを、抽象化して残す」
「ありがとうございます」
◇
「では、最後の一点だ」
神官長が、真剣な顔で言った。
「シャクが最も大事にしていることを、教えの核心に据えたい。それが何なのか、お前の自身の口から聞かせろ」
これには、私も少し、真面目に考えた。
「……働く人が、使い潰されないこと」
ぽつりと、そう言った。
「私が一番大事にしていることを教えという形で残してもらえるなら、この一点です」
私は、一呼吸置いた。
「頑張ることを、褒め称える教えじゃなくて――ちゃんと休むこと」
やっくんが、静かに私を見ていた。あの、私室で見せる、優しい目だった。
神官長が、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
「あと」
私は、指を一本立てた。
「もう一つ、お願いがあります」
「なんだ」
「解釈の余地を、残さないでください」
「――どういう意味だ」
「教義に難しい言葉や、複雑な理屈を入れたら、絶対、後の世代の人たちが、勝手にこねくり回して、都合よく解釈し始めます。『これはこういう意味だ』『いや、こう読むべきだ』って、争いの種になります」
私は、専務の方をちらりと見た。
「専務、分かりますよね。契約書の文言って、曖昧だと絶対もめるんです」
「もめてはいない。お前が早合点しただけだ」
専務が、涼しい顔をしていやがる。こんにゃろ。
「こほん。だから、誰が読んでも、絶対に一つの意味にしかならない言葉にしてください。難しい理屈は、いらないです」
神官長が、しばらく黙って考え込んだ。
それから、静かに立ち上がった。
「――分かった」
「本当に、分かってくれました?」
「お前の言うことは、一貫している。固有名詞を排し、戒律を設けず、休息を守り、解釈の余地を残さぬ」
神官長が、私をまっすぐに見た。
「ならば、答えは、もう出ておる」
「え?」
「シンプルにすればよいのだ。極限まで」
神官長は、樹皮紙に、大きく、たった一行だけを書きつけた。
『よく働き、十分に休む』
「……これだけ、ですか?」
「これだけだ。誰が読んでも、意味は変わらぬ。命令でもなく、ヒントとして機能する。功績を誇る言葉もなく、固有名詞もない」
私は、その一行を、じっと見つめた。
シンプルすぎて、逆に反論の余地がなかった。
「……いいですね、それ」
「認めるのか」
「認めるも何もありません。すごくいいです。ありがとうございます!」
やっくんが、小さく笑った。
「決まったな」
専務が、満足そうにペンを置いた。
下級神官の若者だけが、少し不服そうな顔をしていた。
「あの……それだけで、本当に、よろしいのでしょうか。シャク様の偉大なる御業を、もっと詳しく――」
「いいんです」
私は、その若者に、はっきりと言った。
「教えはシンプルでいい。すごい話は、口伝えで、みんなが好きに語ればいい。でも、公式な教義には、それを入れない。それが、私の最後の我儘です」
若者は、しばらく何か言いたそうにしていたが、やがて、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
こうして、シャチク教の教義は、たった一行に定まった。
だが、この平和も、そう長くは続かなかった。
なぜなら人類は、教義に争点がなければ、他のところで争点を見つけ出す、恐ろしく創意工夫に富んだ生き物だったからである。




