第 4 話 激痛のオンボーディング(残酷表現あり)
役人の顎の合図で奥へ導かれたとき、私の鼻孔を襲ったのは獣臭と血の臭気だった。家畜の屠殺場を思わせる薄暗い石造りの小屋。壁のあちこちに貼り付いた黒ずんだシミ——おそらく前任者たちの血液——が、この場所の正体を雄弁に物語っていた。
「ここが総務部のオフィスね」
きょろきょろ辺りを見回していると、部屋の奥から男が現れた。見上げるばかりの大男だった。背筋は一瞬凍り付いたが、その顔立ちがめちゃくちゃ整っていたことに、私の目はクギ付けになった。
だが、その好印象は一瞬で消し飛ぶ。
男の手に握られていたのは、先端がギザギザの、見るからに激痛を約束する太い棘──いや、魚の骨か。その傍らの器には、ドロリとした真っ黒な液体。後で知ったが、木炭の煤を水で溶いたものらしい。
(あ、これって予防接種? それにしては毒々しいんだけど……)
私の呑気な観察は最後まで続かなかった。
男たちに両腕をガッチリと押さえつけられ、私は左の二の腕を露出させられる。肌が空気に触れた瞬間、私の身体は本能的に硬くなった。
男は躊躇なく、その粗悪な骨の針を、私の柔らかい皮膚へと突き刺した。
「(エンダ)ッッアァァァァァァーーーーーーーーー!!!(激痛)」
声にならない悲鳴が喉の奥で爆発した。いや、悲鳴上げてたけど。
痛い──言葉では言い表せないほど、腕から全身を焼く痛みだ。現代日本のきれいなタトゥースタジオで、麻酔入りのローションを塗ってもらいながら、プロの機械で彫ってもらったあの時とは、次元が異なる。
ヤスリで生肉を削り続けるような。釘で何度も何度も引っ掻き続けるような。原始的で、容赦のない激痛だ。
「あ、あ、あ──待って、これやめて、お願いだからーっ!」
懇願も意味をなさない。男は私の悲鳴などBGM程度に考えているのか、躊躇なく何度も繰り返し針を刺す。
ぶつっ。
ぶちっ。
鋭くない針は肌をすっと通さない。その都度、私の肌を破く音が耳元から聞こえる。肌が裂ける感覚。毛細血管が破れる感触。流れ出す血の温度。
痛みが痛みを呼ぶ。
私の二の腕は数えきれない穴が開き、血にまみれていく。皮膚が古びた地図のようにボロボロに傷つけられていく光景を、自分自身の腕で見ることになろうとは。
「もうやめて!!」
涙が止まらない。鼻水が出る。視界が歪む。
過労死した私の二度目に人生で、なんでこんな仕打ちを受けにゃならんのだ。
次の瞬間、さらなる地獄が始まった。
男は、穴だらけにした傷口へ、容赦なく真っ黒な煤のインクをゴシゴシと力任せに刷り込んでいく。
傷口に塩ではなく、傷口に墨汁だ。
「ッッッ!! ぎゃあああああああああああああああああ!!!!」
今度の痛みは質が違う。炎症が炎症を呼ぶ。全身の神経が一点に集中する。視界がチカチカとホワイトアウトする。倒れこみたいが、押さえつけられているため、身動きが取れない。
古代世界の容赦なさを、生の肉体で体感する。
どのくらい続いたのか、時間の感覚がない。
やがて、男の手が離れた。
「はぁ、はぁ、はぁ……殺す気か! 労働安全衛生法はどうなってんだよ!!」
息を吸うのと吐く順番も分からない。涙と鼻水で顔は滅茶苦茶。肩で息をしながら、私はゆっくりと左腕を見下ろした。
そこにあったのは──都市の所有物であることを示す、ヒョウ柄のように見える禍々しい漆黒の「奴隷の紋様」だった。
痛みはまだ続いている。ズキンズキンと脈動する二の腕。その感覚は、まるで心臓が腕に移ったかのようで、鼓動と同期して痛みが襲う。
男は無言で私の肩をぽんと叩いた。
大きく武骨な手が肩に重く乗る。不思議と荒々しさは感じなかった。
痛みとは別の、妙な温かみ。おそらく「よく耐えたな」という労いなのだろう。
「死ぬかと思ったよ」
肩で息をする私は、拘束を解かれた右手の拳を男へ突き出した。
男は、一瞬戸惑ったような顔を見せた。
そして、男の大きな拳がこつんと合わさる。
そういえば、こいつは私の腕以外見ないようにしてるな。私。薄布一枚でほぼ丸見えなのに。紳士か。
こいつ、悪い奴ではなさそうだ。顔もいい。
周囲の奴隷たちが私の刺青を見て、哀れみの視線を向けてくる。「あいつはもう終わりだ。一生、この国のために使い潰される存在になった」と。
だが、痛みの極限を超えた私の脳内は、すでに別の解釈を開始していた。
二の腕の激痛。そこに刻み込まれた黒い刺青。
それを見つめながら、私は呟く。
「……なるほど。これ、『社章』じゃん」
前世のオフィスで胸につけていた社員証のバッジ。それと同じ意味を持つものだ。所属と誇りの証。
激痛が鈍痛に変わったあと、二の腕はじんわりと熱い。まるで体内に何かが根付いたような、奇妙な充足感。私はここに「所属」したのだ。これは入社式なのだ。
「タダで拾われたから、試用期間なしの即日『正規雇用』ってことね。しかも衣食住つきの終身雇用(内定)。よし、受けて立とうじゃないの」
自分で自分の狂気を笑いながら、私は決意を新たにしたのだった。
私が涙と鼻水にまみれた顔を手の甲で拭っていると、役人が今度は、ずっしりと重そうな、木と紐で作られた無骨な「首輪」を取り出した。
バチン、と私の首に容赦なく嵌め込まれる首輪。
木製とはいえ、当時の技術で頑丈に作られたそれは、奴隷が逃亡しないための物理的な足枷(首枷)であり、自由の剥奪を意味する絶望の象徴だ。
だが、首にカチリとはまったその重量感を感じた瞬間、私の社畜魂が完全に覚醒した。
「……あ。これ、首から下げる『社員証』だわ」
前世のオフィスビルを思い出す。
毎朝、満員電車を降りて、ビルのゲートにドヤ顔でタッチしていた、あの会社支給の社員証。あれがないと、オフィスに入ることすら許されなかった、企業戦士の誇りの証。
私は首に嵌められたゴツい首輪を、両手でそっと愛おしおしそうに撫でた。
「首輪さえつけていれば、不法侵入(不審者)で捕まることもないし、ここのインフラ部門の正規の職員(奴隷)だって一目で証明できる。家賃も食費もタダだし……。
よし、決めた。この社員証(首輪)、前世のどの会社のIDカードよりも、命をかけて大事にぶら下げておこう。新卒の気持ちに戻って、決意も新たに頑張っちゃうぞ!」
奴隷の首輪をぶら下げ、左上腕の刺青(社章)をキリッと見せつけながら、私は配属先へと堂々の入社(連行)を果たすのだった。
のちに判明するその配属先の「究極ホワイト」ぶりを、前世の自分が知れば卒倒していただろう。この時の私は、まだそんな幸運を知る由もなかった。




