第38話 神官長、神について深く考察する
私の名は、シュン・バカブ・チェン。
ティカルの大神殿に仕える最高位の神官にして、七星の読み手だ。
太陽と月と金星の運行を解読し、神々の意志を民草へ伝えてきた、この三十余年。
……なのに、今この瞬間の私は。
神殿の最奥、神官長専用の瞑想室の厚い石の扉にもたれて。
祭壇に供えるはずだった、まだ温かいマントウを右手に持ったまま、目の前で展開した光景の意味を、ぼんやりと噛み砕こうとしていた。
「……神官長、それ、お供え物のマントウですからね」
少し前の、あの小さな白い女の声が耳の奥でこだまする。
「なんで祭壇に供える前にフライングで食べてるんですか」
……うるさい。
食べてしまったものは仕方があるまい。
いや、問題はそこではない。
問題は、あの女だ。あの女などと呼ぶのは不敬か……あのお方だ。
私はマントウを指先でもてあそびながら、目を閉じた。
ジャングルに沈む夕暮れの中、神殿の奥で、三十年間積み上げてきた「神官長としての常識」が、静かにひっくり返っていく音を聞いていた。
あのお方と初めて顔を合わせたのは、いつのことだったか。
もちろん、覚えている。一生忘れることはないだろう。
生贄の祭壇の上だ。
私が黒曜石の刃を高く掲げ、さあ儀式の最後の一手を執行しようというその瞬間、あのお方は空を見上げて何やら聞きなれない言葉を呟いていた。
ティカルの歴代の供物の中で、刃を向けられながらまったく動じない者が、かつて一人でも存在しただろうか。断言していい、いない。
そしてその直後、あのお方の胸から放たれた、そう、あの翡翠のような神秘的な輝きを放つ光だ。
蛇の紋様。
――私は逃げた。
神官長が、白昼堂々、黒曜石のナイフを放り投げ、転げるようにピラミッドの階段を駆け下りた。
今となっては恥ずかしいことこの上ないが、あれはもう仕方がない。
何十年と積み重ねてきた神官の経験が、「逃げろ」と言ったのだ。本能とはかくも正直なものである。
そして、その経験がまったく役に立たなかったことも、認めざるを得ない。
あの後、物見の下級神官が青ざめながら報告してきた話では、あのお方はピラミッドの頂上に一人残されたのち、何か叫んで、その場でくるくると地面の上を転げ回っていたらしい。
「転げ……回っていた?」
「はい。その後、落ちていた布を拾って体に巻きつけ、奴隷商に連れられて行きました」
私は三秒、沈黙した。
神の御使いなる者が、なぜ転がるのか。
あのときの困惑を、今でも鮮明に思い出す。
その後、あのお方が土木課の最底辺奴隷「シャク」として働き始めたという情報を得たとき、私は半分、安堵した。
神殿と都市インフラの担当区域は遠い。接触することはないだろう、と。
だが私は、自分の足がいつの間にか水路の方角へ向いていることに、ある日気づいた。
誰かに命じられたわけでもない。特に用があるわけでもない。
気づけば水路の土手に立っていて、眼下にあの丸頭の白い女がいた。
あのお方は泥の中にいた。腰まで埋まるような深さのヘドロの中に、一人で。
そして、嬉しそうにしていた。
これが最大の謎だった。
供物として祭壇に乗せられ、ヘドロの中に腰まで沈みながら、あれほど生き生きとした顔ができる生き物が、この世界に存在するのか。
スコップを振るうたびに、水路の詰まりが解消されて水が流れる。そのたびに、彼女は小さい拳を握り締め歓喜の表情を浮かべる。
神官として、私は長年、天の神々の意志を地上の言葉に翻訳してきた。
だが、「ドブの中で拳を握り締める歓喜」だけは、どう翻訳しても意味が分からない。
翻訳できないものは、神秘だ。
私の中で、その認識が根を下ろしていった。
転機は、土石流だった。
あの日のことを、私は決して忘れない。
大雨が続いていた時期、山麓の集落が崩れる前夜に、あのお方は単身でヘドロ用スコップ一本を担いで集落へと向かった。
村人から罵声を浴びながらも住民全員を高台に移動させ、その後ほどなくして、山の斜面が「泥の津波」となって集落を飲み込んだ。
現場に駆けつけた私が見たのは、泥だらけになって立っているあのお方と、無事に守られた何百人もの民の命だった。
「未来を……先読みしたというのか……!?」
打ちのめされたように呟く私に、当の本人は口の中でもぞもぞと何か言っていた。後から聞いたところによると「リスクマネジメントだ、先読みじゃない」とかいう意味らしかったが、それは聞かなかったことにした。
「先読みの聖女」という呼び名は、あの日から始まった。
その後の神殿への呼び出しのことを思い出すと、今でも頬が少し熱くなる気がする。
ティカルの最高位の神官が勢ぞろいして、ドブさらいの奴隷娘に向かって床に額を擦りつけた。
あのお方はそれを見て、ため息をついた。
「どうぞ、頭を上げてください」と。
そして跪いたまま立とうとしない私たちに合わせて、自分も跪いて、私たちと目の高さを揃えた。
私は、その瞬間のことを今でもよく覚えている。
あんな奴隷らしからぬ奴隷が、この世にいるのか、と。
そして、生贄の儀式の廃止だ。
あのお方は神殿改革を、真正面から切り込んできた。
手順は鮮やかだった。神官たちを集め、匿名のアンケートを実施し、「皆さんは本当に、生贄の儀式で神が喜ぶと思っているか」を一次ソースのみで問うた。
答えは、沈黙だった。
「神官長。生贄の神事で本当に大事なプロトコルって、『心臓』ですよね。つまり、人間の生命を維持するのに最も重要な『鮮血』を捧げるという、その視覚的なインパクトが主な目的なのではないですか?」
私が涙目で床に平伏すると、あのお方はにっこりと笑った。
「だったら、解決できますよ」
数時間後に彼女が王宮の厨房から持ち出してきたのが、あの「マントウ」だ。
見た目は本物の心臓に似せて、コチニールの赤い液体を表面に塗りたくった、トウモロコシと蜂蜜の菓子。
松明の光に照らされて、血糊がどろりと滴る不気味な供物の皿を差し出しながら、あのお方はこともなげに言った。
「毎回ただ死体を廃棄するより、美味い供物を分け合って食べた方が、神様だってご喜びますよ」
一番最初にそのマントウに手を伸ばしたのは、ヤシュ・バラム様だった。
躊躇なく口に放り込んで、「美味い」と言った。
私はそれから少し遅れて、おそるおそる一口齧った。
……美味かった。
なんだこれは。何が入っているんだ。
気がついたら涙が出ていた。感動の涙というよりは、長年のいろいろな蓄積がドバっと溢れてきたような種類の涙だった。
生贄の廃止が決まり、代わりにマントウを祭壇に供えるようになって、それから数ヶ月が経った今も。
私は正直に告白するが、供える前につまみ食いしてしまうことがある。
頻繁に。
先ほども、そのことをあの女にさらりと指摘された。
口の周りをコチニールの血糊で真っ赤に染めたまま、「シャクは奴隷なんだから雑に扱えと言ったのはそちらだろう」と、こき下ろす感じで言い返した。
彼女は「うんうん、いいね、その雑な距離感」と笑っていた。
あの笑顔が、どうも頭から離れない。
そして、直近の一件だ。
ア・クフン様がまとめた報告書の中に、カラクムル北部の農産物データの異変があった。
周囲が干ばつに苦しんでいても、なぜかカラクムルだけが致命的な食糧不足に陥らない。
長年、神殿ネットワークが集めてきたデータを、私はそれだけの情報として持っていた。
あのお方は、スコップを磨きながらただ一言「地下水だろうな」、こう言った。
その場にいた全員が、息を呑んだ。
あのお方が、さらに続けて言う。
「干ばつの時期は農業を潔く諦めて、貯水池の水を生活用水だけに回す。トウモロコシは全部その北部領地から買う。それだけで、ティカルの国民は一滴の水不足にも悩まされないで干ばつを乗り切れます」
陛下がその場で計画に乗った。カラクムルの北部貴族を取り込み、干ばつへの備えを整えるという、国家百年の計が、ドブさらいの奴隷の一言から動き始めた。
その計画は、みごと成功裏に終わった。
私は神殿に戻りながら、長いこと黙って考えていた。
これは、「先読み」なのか。
土石流のときもそうだった。あのお方は「リスクマネジメントだ、奇跡じゃない」と言い張った。
カラクムルの件も、「データを読んだだけだ」と言いそうだ。
だが、その「データの読み方」を、この世の誰が持っていたのか。
マントウを、またひとつ齧った。
もちもちとした甘い生地が、口の中で溶ける。
私は神官長として、三十余年、「神とは何か」を民に説いてきた。
しかし正直に言えば、私自身は、「神」というものの実体をついぞ見たことがなかった。
星の運行は計算できる。祭事の時期は算出できる。だが、神の意志そのものは、誰も「直接」には触れられない。それが宗教の宿命だと、私は長いこと思っていた。
では、あのお方はどうか。
生贄の刃を前にしても動じなかった。
奴隷の身分でも、首輪を愛おしそうに撫でた。
ドブの中で嬉々としていた。
何百人もの命を、土石流の直前に救った。
神殿の生贄の慣習を、甘いマントウ一個でひっくり返した。
カラクムルの地下水を、データと論理だけで「予言」した。
そして、それらすべての「奇跡」を成し遂げながら、あのお方は一度も「自分を神として扱え」と言わなかった。
むしろ逆だ。
「奴隷なんだから、雑に扱え」と言う。
首輪を磨いて大事にしている。
スコップを宝物のように持ち歩いている。
マントウのつまみ食いを指摘しながら、でも「いいね」と笑っている。
……ああ、そうか。
私はゆっくりと目を開いた。
これまで私が扱ってきた「神」は、人が恐れ、縋り、贄を捧げることで機嫌を取らなければならない存在だった。
だから民は神を恐れ、服従し、その恐怖によって秩序が生まれた。
だが、もしも。
もしも神が、民と同じ目線で跪き、民のために泥をかき出し、民の命を守るために一人で山へ向かい、そして「自分は奴隷だ、雑に扱え」と言うとしたら。
そんな神に、誰が縋りたくならないだろうか。
そんな神に、誰がついていきたくならないだろうか。
恐怖ではなく。
義務ではなく。
ただ、あの笑顔を見たいから。あの背中についていきたいから。
それが、民が神に向かう、本当の形ではないか。
「シャク……か」
声に出して、その名を呼んでみた。
かつて「泥」を意味する最下層の奴隷名として与えられた、不名誉の印。
泥から水路が生まれ、水路から都市が生き、都市から文明が育つ。
シャクを神とした宗教を興す。
それは、もはや私の「思いつき」ではなく、三十年の神官人生が導き出した、ひとつの確信だった。
恐怖で民を縛るのではなく、ただ民のために泥をさらい続ける神。
その教えが広まれば、この国はもっと明るくなる。もっと民が幸福になれる。
問題は、ただひとつ。
手の中の残りのマントウを見つめ、私は深いため息をついた。
「……本人に、どうやって説得するか、だな」
あのお方は絶対に嫌がる。
全力で「奴隷なんだから雑に扱え」と言うに決まっている。
だが、こちらにもに三十余年の神官長としての意地がある。
あのつまみ食いを毎回指摘されながら、ちゃっかり笑顔で許してくれるあのお方に、今度はこちらが一本取ってやる番だ。
私は、最後のマントウをぱくりと口に入れ、静かに、しかし確かな決意を固めた。




