第37話 ミッション・コンプリート――でも私に休みはなさそうだ
神の化身こと漆黒のジャガー「クロ」に乗って私がティカルへ凱旋し、神殿の神官ズを心不全寸前まで震撼させてから数日後。
私とサキルは、やっくんへの帰国報告を済ませた。
それからのやっくんの動きは、一言でいえば「爆速」だった。
「これより、カラクムル王宮完全買収計画――作戦名『プロジェクト・サキル』を始動する!」
その冷徹な宣言とともに、ティカルという巨大なシステムが、音もなく、だが確実に動き始めた。
私は基本的に、やっくんの隣で、随時届く報告を聞いているだけのポジションだ。計画はすでに出来上がっている。私がいま介入する余地は、ほとんどない。
だから私にできることは、ひたすらスコップを磨くことだけだった。
最初の報告が届いたのは、作戦始動から十日後だった。
「陛下。カラクムル中央へのリーク情報が、市場に流通し始めました」
「よし。続けろ」
「なお……」
報告役の間諜が、わずかに声のトーンを変えた。
「サキルに関する情報の拡散速度が、当初の想定を大幅に上回っております。民衆の反応が……その、想定外に激しく」
「どれほどだ」
「カラクムル南部の市場では、すでに一部の商人たちが自発的に中央への納税を拒否し始めている、との報告が」
執務室に、短い沈黙が落ちた。
やっくんがちらりと私を見た。
「そうか」
やっくんは静かに頷いてから、また書簡に目を落とした。
私はこっそりと、作業用の泥板に「フェーズ一、サキル万バズ。予想より早い」と書き込んだ。
四十日後。
専務からの報告。
「カラクムル中央が、第三便の黒曜石武器を大量発注してきました。発注総量は、我々の想定していた上限の、およそ二倍です」
「二倍?」
「はい。どうやら、リーク情報を受けて中央は相当焦っているようで、担当商人いわく『向こうの交渉担当者が半泣きで値引きを要求してきた』とのことです」
「……応じたか?」
「もちろん、カカオ一個も値引きしておりません」
「よし」
やっくんが短く答えて、私が横に置いていたマントウを一つつまんだ。
「……やっくん、勝手に食べないでください、それ神官長のぶんです」
「知らん」
「知らんじゃないですよ」
私はやっくんの横でこっそり「フェーズ二、順調。ただし専務が怖い」と泥板に書き込んだ。
さらに二ヶ月後。
夜中に急に執務室へ呼び出された私は、眠い目を擦りながら扉を開けた。
「なんですか、こんな夜中に……」
「見ろ」
「はい、見ました。じゃあ、おやすみなさい」
「ひゃっ!」
私が踵を返して部屋を出ようとした瞬間。
後ろからやっくんに抱え込まれた。
『ぽすん』
「解せぬ」
私は、やっくんの膝の上に乗せられている。
やっくんは、何事もなかったかのように机の上の地図を示して説明を始めた。
ちょっと待った。この体勢の説明をしてほしい。
「あの……やっくん? これはどういうことかなあ??」
「いつもシャクが言っているではないか。『がっちりホールドされにいった』と。だから、その通りにしただけだ」
「いや、あれは、ほら、物理的なことじゃなくて……」
「いいから黙って聞け」
「あ、はい……」
私は、火照る頬を手で隠して地図に目を落とす。
やっくんが、広げた地図の上に次々と木片を置いていく。カラクムルの地方都市の位置を示す印だ。
「赤いのが、自発的にストライキを始めた地域。黒いのが、すでに中央への物資輸送を拒否した地域だ」
「……多くないですか」
「多い」
地図の上には、赤と黒の木片が、ぱっと見で全体の半分以上を覆っていた。
「フェーズ三の心理戦は、まだ始めていない」
「……ということは、これ、自然発生?」
「そういうことになる」
やっくんが地図から目を上げ、私を見た。その目が、珍しく穏やかだった。
「サキルの話が、それだけ人の心に刺さったということだ」
私はしばらく地図を眺めてから、こっそり袖で目を拭った。この部屋は湿度が高いんだ。
「……やっくん、フェーズ三、もう要らなくないですか?」
「念のため打つ。だが、手加減する」
「分かりました」
「泣くな」
「泣いてません」
やっくんが小さく笑った気がしたが、確認しなかった。
そして、さらに二ヶ月後。
「陛下。カラクムルより緊急の報告です。近衛兵の大規模な職務放棄が確認されました。王族の一部が、夜陰に紛れて国外への逃亡を図っています」
「国境の警備隊には、すでに手を打ってある」
「はい。現地からの報告では……逃亡を図った王族、全員捕縛完了とのことです」
執務室がし、んと静まり返った。
「……全員、ですか」
「全員です」
私は泥板を置いた。書き込むことが見当たらなかった。計画通りすぎて、言葉が出なかった。
やっくんは役人を下がらせると、しばらく黙って窓の外を見ていた。
「やっくん」
「なんだ」
「……本当に、誰も死なずに終わりそうですね」
「終わらせる。それがシャクの願いなのだろう? ならば俺は、それを叶えてみせるだけだ」
ぽつりと、しかしはっきりとした声だった。
(本当は、自分だって誰も死なせたくないくせに)
後ろを振り返って、ちょっと憎らしい色男の顔を見上げた。
そこには、いつもの冷徹無常な王ではない、真に安堵した青年の顔があった。
足元で丸くなるクロが低く、ゴロゴロと喉を鳴らした。
それから数日後、やっくんは数千人ものポーターに大量のトウモロコシとマントウを持たせ、「救世主」として堂々とカラクムルの国境を越えた。
私とサキルも同行したが、現地の民衆の出迎えの熱量に、正直たじろいだ。
「ティカルの王が食べ物を持ってきてくれた……っ!」
「私たちを救ってくれたんだ……っ!」
ついこの間まで「敵国の王」だったはずのやっくんに向かって、カラクムルの人たちが泣きながら駆け寄ってくる。子どもたちが群がる。老人が膝をついて手を合わせる。
(こういうことか、と私は思った。これが、やっくんの言っていた「民を一人も傷つけない勝ち方」だったんだ)
そして夜。カラクムルの大広場に、満天の星が降るような空が広がった。
「カラクムルの民よ! 悪政の時代は終わった!」
やっくんの声が、群衆の上を渡っていく。
隣には、純白の装いに顔のジャガーの刺青を凛と輝かせたサキルさんが、まっすぐに前を向いて立っていた。
「我がティカルは、この国を侵略しに来たのではない。抑圧されていた、真に気高く有能なリーダーに、この国の未来を託しに来たのだ。――進み出よ、カフ・イシュ・カンの領主、ア・サカン・バラム殿!」
大歓声の中、正装に身を包んだサキルさんのお父様が、緊張しながらも威厳に満ちた足取りで前へ出た。
それに合わせて、サキルがお父様の隣に移る。
「ここに、カラクムルの新たな正統なる王として、ア・サカン・バラムの即位を承認する!」
地響きのような歓声と大地を踏み鳴らす足音が広場を揺らした。
私は群衆の後ろの方で、ヘドロ用スコップを抱きしめた。クロが私の足元にぴたりと寄り添って、静かに喉を鳴らしている。
即位式の喧騒が落ち着いた頃。
新王ア・サカン・バラム陛下は、私が事前に作成しておいた「ティカル・カラクムル広域農業インフラ独占購買条約」の樹皮紙に、確定のサインをしっかりと刻み込んでくれた。
これにより、ティカルは大干ばつの時期であっても、北部の広大な穀倉地帯から定額で大量のトウモロコシを永久に輸入できる権利を手に入れた。ティカルの国民は、水不足にも飢えにも悩まされず、確実に次の季節を生き延びられる。
ミッション・コンプリート。
「よかった。誰も傷つくことなく終わって」
広場の隅でスコップを抱きしめて涙ぐむ私の足元で、クロが「がう」と満足げに喉を鳴らした。
そんな私の背後から、聞き馴染んだ低音が、そっと届いた。
「見事な立ち回りだったぞ、シャク。お前のあの無謀な思いつきが、結果として両国の民を一人も殺さずに、この世界を救う体制を構築した」
振り返ると、やっくんがいつもの意地悪な、だけど世界で一番優しい笑顔で私を見下ろしていた。
「……へへ、やっくんにそう言ってもらえると、夜間の残業に付き合わされた甲斐があったってもんです」
「ふん。だが、まだやることがあるぞ。前に言っていたな。『西の国で海産物が不漁』と。さあ、あれをどうするか見せてもらおうか」
「あ! それ! それもやばいやつ!」
「そうだろう。期待しているぞ」
やっくんは声を上げて笑うと、私の頭を大きな手で、乱暴に、だけど壊れ物を扱うように優しく、クシャクシャに撫で回した。
次の大仕事が、もう始まっていた。




