第36話 失われた血脈のブレイクスルー
カフ・イシュ・カンの領主館。その最奥にある、夜の灯火だけが照らす秘密の会談室。
ここにいるのは、領主ご夫妻、そしてティカル側からは私とサキル、隊長、それと私の足もとで寝ているクロ。
◇
ここに至るまでには、正門でひと悶着あった。「神獣に乗った白い顔の飯炊き奴隷が来ました」という情報が館中に轟いていたらしく、衛兵が全員で出迎えるという異常事態になったのだ。しかし、事前に斥候を先触れとして送っておいたこともあり、大きなトラブルにはならなかった。
それでも、いきなり白い顔のボロ布奴隷が「ティカルの国王陛下から密書を預かってまいりました」と言い出しても、ただのキチガイの妄言だ。
まずは、貴族に扮した隊長と神官が領主と面会して用件を伝え、私はその間、庭を散策しながら待つことになっていた。
待つといっても、さすがに敵国の領主館の庭というのは緊張するもので、私はクロの巨体に寄り添いながら、ひたすら心を落ち着けようとしていた。
「我が主、大丈夫。あとは話すだけ」
隣に立つサキルが、静かに言った。敵国……故郷? サキルにとってカラクルムってどういう存在なんだろう? 思考に沈みそうになるのを慌てて現実に引き上げる。そんな複雑な地に立っているというのに、不思議とその声に動揺はない。
「……サキルさんのほうこそ、大丈夫ですか? 故郷に戻ってきて、色々と思うことがあるんじゃないかと」
「故郷、ねえ」
サキルは少し空を見上げてから、笑った。
「故郷か……正直よく分からないんだよね。でも……なんか、今日は、どこか懐かしい匂いがする」
それ以上は何も言わなかったが、私はなんとなく、サキルが今日だけは別の何かと戦っているのだろうと察した。
やがて隊長と神官が戻り、私たちは邸内に案内された。
通された会談室は、中央の大卓を囲むように低い椅子が置かれ、香木の煙がゆるやかに漂っていた。壁には精緻な彫刻が施され、翡翠や赤い貝殻が象嵌されている。豪華ではあるが、どこか陰影が深く、ひっそりとした部屋だった。
「ようこそ、遠路はるばるお越しくださった」
ア・サカン・バラム様は、低くよく通る声で私たちを迎えた。恰幅のいい、長年の風雪を刻んだ顔つきの方だ。
だがその目の奥には、色濃い疲労が滲んでいた。領民を養うために中央から搾り取られ続けてきた年月が、あの目に重なって見える。
「あなたがヤシュ・バラム陛下の名代のシャクさんね。カフ・イシュ・カンへようこそ」
領主の妻、イシュ・ハア・ナーブ様が穏やかな笑みで続けた。鈴を転がすような透明感のある声は、初めて聞いたはずなのになぜかすうっと耳になじむ、不思議な響きがした。
「ご夫妻にお目通りかない、光栄にございます」
私は宮廷式の礼を執り、大事に懐にしまってきたやっくんの密書を恭しく捧げた。
ア・サカン・バラム様が封を解き、ハア・ナーブ様とともにそれを読み進めていく。
ほんの数行読むごとに、二人の顔色が変わっていった。
青白くなり、次第に険しくなり、最後には沈黙の中で顔を見合わせる。
無理もない。
カラクムル中央の蛇の王朝を内部から経済崩壊させ、一族もろとも権力の座から引きずり落とす――その後の新王の椅子と、北部の豊かなトウモロコシの独占購買契約をオファーする、という、とんでもない計画なのだから。
私は、一つ静かに息を吸ってから口を開いた。
「――以上が、我がティカルの王、ヤシュ・バラムからの提案です。カラクムル中央、蛇の王朝を内部から経済破綻させ、一族もろとも消し去る。その後の新王の椅子と、北部の豊かなトウモロコシの独占購買契約を、あなた方にオファーしたい」
飯炊き奴隷のボロ布をまとったまま、流暢なカラクムル語でやっくんの国家買収計画を読み上げる私を、ご夫妻はしばらく言葉もなく見つめていた。
「……まさか、ティカルの王が、これほど具体的なクーデターの提案を、このような奴隷の娘に託して送ってくるとは」
ア・サカン・バラム様が、震える指で計算板を叩きながらつぶやく。
条件は完璧だ。
資金も、大干ばつへの対策も、すべてティカルが裏で保証している。
没落を待つだけの現状を打破する、唯一にして最後の機会であることは、あの目を見れば明らかだった。
長い沈黙の後、ア・サカン・バラム様がゆっくりと口を開いた。
「……信じられぬ。だが、やるしかあるまい。これ以上、我が領民を中央の祭壇のために飢えさせるわけにはいかん。ティカルの王へ、この密約を受け入れると伝えてくれ」
「契約成立ですね! よかったー!」
緊張の糸が解けた私は、ふぅと深く息をついた。
それから持参した土器の皿を取り出し、道中のキャンプで仕込んでおいたマントウを手際よく並べ始めた。
「あ、これ、ティカルの特製お菓子です。とんでもない話を聞かされて緊張したことでしょう。お菓子でも食べてゆっくりしませんか? サキルさん、お皿を配るのを手伝ってください」
「はい、シャク様」
ずっと私の後ろで気配を消して控えていたサキルが、静かに袖をまくって皿を手に取った。
その時だった。
「――あ」
イシュ・ハア・ナーブ様が、短く、しかし鋭い声を上げた。
椅子が激しく床を叩く音が部屋の中に響き渡る。
ハア・ナーブ様が弾かれたように立ち上がっていた。
その視線は、皿を手にしたサキルの右手に、釘付けになっている。
「奥さま!? どうなさいました!?」
「ハ、ハア・ナーブ様……? 申し訳ありません、奴隷の私がとんだご無礼を……」
サキルが怯えて身を縮め、皿を落としそうになる。
だがハア・ナーブ様は取り乱した様子でサキルに詰め寄り、その細く傷だらけの右手を、両手で力強く掴み取った。
その手が、小刻みに震えている。
ハア・ナーブ様が凝視していたのは、サキルの右手薬指の付け根――生まれつき、指輪のようにペコリと凹んだ、独特な身体的特徴だった。
「あなた……その指の凹み……それは……っ」
「え? あ、あの、これは生まれつき形がおかしくて……お見苦しいものを……っ」
身を縮めて手を引き抜こうとするサキルを、ハア・ナーブ様は絶対に離すまいというように、さらに強く、両手でしっかりと包み込んだ。
次の瞬間、その美しい目から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
サキルの手の甲を静かに濡らしていく。
「あなた……見てください……見てください、サカン……! この独特な指の凹み……!」
声が震えていた。
ただ震えているのではなく、長い年月をかけて押し込められてきた何かが、ようやく出口を見つけたような、そういう震え方をしていた。
「生まれてすぐに『蛇の王朝』に……人質として、いいえ、不当に連れ去られた……私たちの……私たちの愛しき子……イシュ・カカヴ・サキルの指よ……っ! 忘れるものですか。ええ、決して忘れなんてしません! 生まれたばかりの小さな小さな指に、繊維のようなものが巻き付いて食い込んでいたのですよ……!」
「な、何だと……っ!?」
ア・サカン・バラム様が、椅子を蹴立てて立ち上がった。
大きな体が、まるで崩れ落ちるようにしてサキルの前に跪く。その顔が、サキルの顔を、貪るように見つめた。
「まさか……いや、確かにこの指は……我が娘、イシュ・カカヴ・サキルのもの……! だが、お前の顔の刺青は、ティカルの『ジャガー』……! カラクムルの生まれであれば、蛇の紋様が刻まれているはず……」
「え……? あ、私は……物心ついた時には、王宮の隔離育成施設にいて……お前は中央の命令で、任務のためにティカルの『ジャガー』の刺青を顔に刻むのだと、そう教えられて……」
サキルの目が、激しく揺れていた。パパとママを、交互に、何度も見つめている。
私はその瞬間、脳内のパズルのピースが猛烈な速度でガチャンガチャンと組み合わさっていくのを感じた。
(そういうことだったんだ……!)
「カラクムルの王家は、この北部の穀倉地帯を完全に支配するために、ア・サカン・バラム様の生まれたばかりの跡継ぎを誘拐したんですね。身元を完全に隠蔽して間者として育成した。そしてティカルに送り込む際、偽装のために顔へ刺青を彫る必要があった。そのついでに――あえて敵国の紋様『ジャガー』をサキルさんの顔に刻んで放り込むことで、ア・サカン・バラム様に娘を奪われたという絶望と、取り返しのつかない恥辱を同時に与えた……」
声が、途中から低くなっていた。
人間の尊厳をオモチャにする、カラクムル王家の醜悪なシステム。サキルが背負わされてきたすべてのものが、今この瞬間、ようやく一本の線で繋がった。
「ああ……! 我が娘、我が愛しきイシュ・カカヴ・サキル……っ! よくぞ、よくぞ生きて、私たちの元へ戻ってきてくれた……っ!」
ハア・ナーブ様が、ボロ布をまとったサキルを、泥にまみれたその身体ごと、壊れ物を労るように力いっぱい抱きしめた。ア・サカン・バラム様も、男泣きに暮れながら、その太い腕で二人をまるごと包み込む。
「あ……っ」
サキルが、小さく声を上げた。
「あ、お父……さま……? お母……さま……?」
その声は、私がこれまで聞いてきたサキルのどの声とも違った。特殊部隊の間者でも、忠実な護衛でも、頼れる先輩でもない。ただ、長い間ずっと迷子だった、一人の子どもが初めて口にした言葉だった。
「ッ……」
私は親指で目を拭い、それからヘドロ用スコップを胸の前でぎゅっと握りしめた。
足元でクロが、眠そうに大きなあくびをした。
……お前、この感動的なシーンで空気読めないな。猫か。ああ、ネコ科……
抱き合う三人の背中を見ながら、私は静かに、しかし心の底から決意した。
国家が人間の尊厳を「コスト」として扱うのなら、国家そのものにその請求書を回すのが筋ってもんでしょ。
サキルさんの奪われた尊厳の回復と、この最高に優しい家族の経営再建のために、ティカルの全総力をもって、あのクソ毒蛇どもを一ミリも残さず徹底的に破滅させてやる。
主にやっくんが。
しばらくして、涙の落ち着いたサキルを見て、私はそっと声をかけた。
「サキルさん、これからどうしますか? サキルさんが望むなら、このまま実家に残ってご両親と暮らすこともできると思います。そのときは、帰国後に私からやっくん、じゃなかった陛下に報告します」
両親との抱擁を解いたサキルの目が、大きく揺れた。自分の意思で決めかねている目。
(あ、これは私が命じないと動けないやつだ)
「えっと、それじゃあ……誇り高きカラクムルの戦士、イシュ・カカヴ・サキル。主シャクの名において命じます。いまこのときをもって、あなたを解放します。これより先は、あなた自身で考え、動き、生きなさい」
「……サキルの主がシャク様? ティカルの国王陛下ではなく、そちらの白いお方が?」
ア・サカン・バラム様が涙目をパチクリさせて、怪訝な顔で私を見た。
「えっと、実はですね、色々と経緯がありまして……」
私が説明しようとした瞬間、サキルがさっと前に出た。
そして私のこれまでの「先読みの聖女」としての業績と、やっくんからどれだけ特別扱いされているかを、胸の光る蛇のタトゥーの件も含めて、まるで推しを語るオタクのような早口で一気に説明し始めた。
――優に三十分は語っただろうか。すごい熱量だった。
「――な、何と! そんな高貴にして、未来を導く神聖なるお方であられたとは! 知らぬこととはいえ、最底辺の奴隷などと不敬な扱いを……! どうかご容赦を!」
ご夫妻が流れるような動作で、見事に揃った「ジャンピング土下座」を披露した。
……なるほど。サキルさんのあの綺麗な土下座のフォーム、完全に遺伝だったんですね。
「我が主。私は、やっぱりあんたについていく」
顔を上げたサキルが、まっすぐな目で私を見た。
「えっ、本当にいいんですか? やっとご両親に会えたのに」
隣でご両親が、涙を拭いながら無言で大きく頷いている。娘の誇りを取り戻す未来を提示してくれた聖女なら信頼できる、という目だった。
「分かりました。……じゃあ、一緒にティカルへ帰りましょう! ア・サカン・バラム様、イシュ・ハア・ナーブ様。それでは、いっとき大切なお嬢様をお預かりいたします」
私はサキルを横に侍らせ、宮廷式の深い一礼を示した。
「さあ、帰国しましょう!」
(早くやっくんに会いたい)
帰国の旅は、密約も成立し、それぞれの精神的な荷物も軽くなって、順調そのものだった。
何より、私はずっとクロの背中に乗っているので、隊全体の足を引っ張るボトルネックが発生しない。驚異的なスピードで、ティカルへの帰路を駆け抜けた。
そして数日後。無事に帰国した私たちは、出発の時と同じように不浄門から王宮入りした。
「シャク! なんじゃ貴様、その神獣様は! しかも、神獣様の背に乗るなど前代未聞だぞーっ!」
神官長が、以前の監督官を彷彿とさせる青筋を立てて怒鳴り散らしていた。
神聖さは欠片もない。
フグリの責任に言及しなかったのは評価できる。
他の神官たちは、ガタガタと震えながら全員平伏している。
いや、なんか……ごめんなさい。




