第35話 カラクムルの空の下にも
無事にジャングルを抜けてから、私たちはさらに数日、街道らしき道を進んでいった。
ジャングルでの行軍に比べれば天国のような歩きやすさだが、それでも油断はできない。何しろ私は今、敵国の真っ只中を、神獣の背に乗った奴隷という、控えめに言って意味不明な状態で移動しているのだから。
そういえば、ジャングルを進んでいる道中、獣と遭遇して戦闘になるようなことがなかった。
隊長さんも「こんなに順調なキャラバンは珍しい」と驚いていた。
きっとクロの気配を感じ取った野生動物が、私たちを避けていたのだろう。
「ねえクロ、あなたが他の獣を寄せ付けないようにしてくれていたの?」
私を背中に乗せて悠然と歩くクロに声をかけた。
「がう」
ちらっとこちらを振り返ったクロは、「ふんす」というように鼻をつんと上げて誇らし気な顔をした。
どうやらそういうことだったらしい。さすが高級セダン。
防獣機能まで標準装備されている。
「我が主、そろそろカラクムルの中心地が見えてくるはずだよ」
サキルが、クロの隣を歩きながら教えてくれた。心なしか、サキルの声にもいつもとは違う緊張がにじんでいる。故郷に戻ってきた、という感慨もあるのだろう。
「カラクムルかぁ……。なんていうか、勝手に『ティカルの宿敵』みたいなイメージで、もっと殺伐とした感じを想像してたんですけど」
「あはは、我が主。国が違っても、そこに暮らす人間がすることは、そう変わらないよ」
サキルがそう言って笑った、その意味を、私はこのあと実感することになる。
街道沿いに、ぽつぽつと畑が見えてきた。トウモロコシの背の高い茎が風に揺れ、その合間を縫うように、農民たちがクワを振るっている。日に焼けた肌、汗で湿った腰布、子どもを背負いながら作業する母親――どこからどう見ても、ティカルの農村風景と何ら変わらない光景だった。
(あ……。ここにも、普通に畑を耕して、普通に生きてる人たちがいるんだ)
当たり前のことなのに、なぜか胸の奥がじんわりとした。「カラクムル」という言葉に、私はいつの間にか、得体の知れない敵のイメージばかりを重ねていたらしい。
だが、その感慨に浸る間もなく、農民の一人がふと顔を上げ、こちらを見た。
「ッ……!?」
クワを取り落とす音が響く。
「く、黒き神獣様だ……!」
農民たちが次々とその場に膝をつき、額を地面にこすりつけるようにして平伏し始めた。子どもを抱えていた母親まで、慌ててその場にしゃがみ込み、震える声で祈りの言葉を唱え始める。
「あ、あの、お気になさらず、普通に畑仕事を続けてもらって大丈夫ですので……!」
私が慌てて声をかけても、誰一人として顔を上げない。クロは何事もなかったかのように、いや、むしろ堂々とした足取りで歩みを進めていく。
こいつ、わざと私を目立たせてるな。
(どっかの国王にそっくりじゃん)
気まずい。とてつもなく気まずい。
「我が主、彼らは農作業中だろうと祈らずにはいられないんだよ。それくらい、神獣様は特別な存在なんだ」
サキルがフォローのつもりか、そんなことを言うが、全く慰めにはならなかった。
街道を進むにつれ、徐々に人通りが増えていく。やがて視界が開け、活気に満ちた市場の喧騒が耳に飛び込んできた。
「いらっしゃい、新鮮なかぼちゃだよ!」
「織物はどうだい、最高級の綿だ!」
「焼きたてのタマレスだよー!」
カラクムルの市場は、想像していたよりもずっと賑やかだった。色とりどりの織物が軒先に吊るされ、黒曜石の道具や焼き物が所狭しと並べられている。香辛料の匂い、焼けたトウモロコシの香ばしい匂い、人いきれ。値切り交渉をする商人と客の声が飛び交い、子どもたちが市場の合間を縫って走り回って遊んでいる。
(うわぁ……ティカルの市場と、本当に同じ匂いがする)
露店の女性が、子どもに何かを買い与えて頭を撫でている。老人が日陰に座り、世間話に花を咲かせている。職人が黙々と黒曜石を削っている。誰もが、それぞれの今を、それぞれの暮らしの中で生きていた。
その光景に、ふと気が緩んだ瞬間――
「ぎゃあああっ! 神獣様だ! お、おい、みんな逃げ……いや待て、あれは……?」
市場の一角で、誰かがクロに気づいて悲鳴を上げた。途端に市場全体がざわめき、雰囲気が一変した。荷物を放り出して逃げ惑う者、恐る恐る平伏する者、商品を抱えたまま固まる者――阿鼻叫喚の渦が広がっていく。
「す、すみません! 普通に買い物していただいて大丈夫ですので!」
私が両手をぶんぶん振って弁解しても、誰も聞いていない。市場のど真ん中を、神獣に乗った白い顔の奴隷が悠々と通り過ぎていくという光景は、もはや怪異としか言いようがなかった。
「我が主、もう少し堂々としていたほうがいい。狼狽えると余計に不審がられる」
サキルが小声でアドバイスしてくる。いや、そんなこと言われても、この状況で堂々となんてできるわけがない。
市場を抜けると、今度は兵士たちの一団とすれ違った。槍を構え、黒曜石の刃をきらめかせた屈強な男たちが、隊列を組んで巡回している。その表情は一様に厳しく、いかにも「敵国の兵士」といった緊張感を漂わせていた。
(うわ、本物の兵士だ……。これは流石に怖いかも……)
身構えた私だったが、よく見ると、兵士たちの中には、若い新人らしき青年が先輩兵士に怒られている一幕もあった。
「お前、また槍の持ち方が逆だぞ! 何度言ったらわかるんだ!」
「す、すみません……!」
その光景は、なんというか、もうただの「職場」だった。剣呑な空気の裏に、人間くさい日常がちゃんと息づいている。
しかし、その兵士たちもまた、クロの姿を視界に捉えた瞬間、一斉に動きを止めた。
「し、神獣様だと……!?」
屈強な兵士たちが、槍を地面に置き、その場に膝をつく。先ほど怒られていた新人兵士に至っては、顔面蒼白で震えながら平伏していた。
(うう……兵士さんたちまで……。本当にごめんなさい……)
私は心の中で何度も謝りながら、せめてもの気持ちで小さく会釈をして通り過ぎた。誰も顔を上げてくれないので、伝わったかどうかは分からない。
そうして街の奥へと進んでいくと、今度は荷を運ぶ奴隷たちの一団が目に入った。重い石材を背負い、列を成して黙々と歩いている。その表情には疲労が色濃く滲んでいたが、それでも互いに小声で言葉を交わし、時折小さく笑い合う姿もあった。
(奴隷といっても、ちゃんと人間関係があって、笑うこともあるんだ……)
当たり前のことかもしれないが、その光景は、私の中の「カラクムル」という国のイメージを、また少し塗り替えていった。敵も味方も、結局はみんな同じように生きて、笑って、悩んでいる。
その奴隷たちもまた、クロに気づくと荷物を放り出しそうになりながら膝をつき、震える声で祈りを唱え始めた。
「あ、あの、本当に、気にせず荷物運びを続けて大丈夫ですので……!」
私の声は、虚しく人々のざわめきにかき消されていった。
農民を見ても、市場の人々を見ても、兵士を見ても、奴隷を見ても、最後には必ず同じ展開になる。最初は普通の暮らしの光景があって、次の瞬間、クロの姿に気づいて阿鼻叫喚――そして気まずさを抱えたまま、私たちはまた先へと進む。この繰り返しに、私はだんだんと申し訳なさを通り越して、一周回って乾いた笑いがこみ上げてくるようになっていた。
「我が主、随分慣れてきたね」
「慣れたっていうか、もう諦めの境地ですよサキルさん……」
『隠密』とは……
そんな珍道中を繰り返しながら、キャラバンはようやくカフ・イシュ・カン(黄色いトウモロコシの熟す地)の領地へと差しかかった。
カフ・イシュ・カンは、私が想像したとおり、豊かな地下水脈に恵まれ、見渡す限りの緑が美しい、素晴らしい大穀倉地帯だった。
街の奥に、ひときわ大きく、白い石灰岩で造られた建造物が見えてくる。領主館だ。階段状に積み上げられたピラミッド型の基壇の上に、彫刻の施された壮麗な建物が鎮座し、その威容は遠目にも圧倒的だった。
ただ、その威容に反して、どことなく寂れた感じがする。
「あれが、ア・サカン・バラム様の館だ」
隊長が、少し緊張した声でつぶやいた。
館の入り口付近には、すでに何人もの衛兵が並び、こちらの様子をうかがっている。おそらく、街中の騒動の噂が先回りして届いているのだろう。
(よし……。ここまで来たら、もう腹をくくるしかない。私はティカルから来た、メイン交渉役のシャク。やっくんから預かった密書を、ちゃんと届けなきゃ)
これまで見てきた農民の畑、市場の喧騒、兵士たちの怒声、奴隷たちの小さな笑い――それらの記憶が、不思議と私の胸に落ち着きを与えてくれていた。この国にも、ティカルと同じように、ただ生きている人たちがいる。それを知れたことは、きっとこれから先の交渉にも、無駄にはならないはずだ。
私はクロの背の上で軽く深呼吸をすると、その威風堂々たる神獣にふさわしいよう、できるだけ堂々とした態度を心がけながら、領主館の正面へと進んでいった。
「止まれ! 何者だ――って、お前、その黒き神獣は……!」
入り口を守る衛兵が、私の姿を見るなり、声を裏返らせた。




