第34話 神獣乗りの聖女
「もう無理……ジャングル案件、完全に見積りを誤ってた……」
カラクムル北部への隠密出張。
商人の隊商に紛れ込んだ私は、ジャングルに足を踏み入れてわずか三日で、すでに体力の限界を迎えていた。
護衛役のサキルは、ぬかるんだ獣道でも普段と変わらない足取りで私を支えてくれる。さすが現役特殊部隊。
ポーターさんたちも、四十キロ近い荷物を額のタンプラインで支えながら、息一つ乱さず歩いている。
一方の私は、手ぶら。
それなのに足の裏はマメだらけ、熱帯特有のほぼ百パーセントの湿気に息も絶え絶え、完全にチームの足を引っ張るお荷物状態だった。
(あーあ……。新幹線って偉大だったんだな。いや、そこまで贅沢は言うまい。せめて冷房の効いた軽トラでもいい。このままだとカラクムルに着く前に、人生二度目の過労死で労災申請する羽目になる……)
途方に暮れたその日の夕暮れ。
キャラバンがキャンプの準備を始めた、そのとき――異変は前触れもなく訪れた。
鳥たちが一斉にバサバサッと不穏な羽音を立てて飛び立った。
それまで途切れなく響いていた虫の音が、ふつりと止む。
夕闇の空気が、ピキッと音を立てて凍りついたような気がした。
「……ッ!? 全員、武器を構えろ! ナワル(妖獣)か、あるいは――」
隊長の声が、明らかに上ずっていた。
護衛たちが弓に矢をつがえ、神官が震える手で香炉を握りしめる。
私も思わずサキルの背後に身を寄せた。心臓が早鐘を打つ。
生い茂るシダ植物の茂みが、ゆっくりと左右へ開いていく。
そこから現れたのは――
夕闇そのものが固まったような、巨大なジャガーだった。
通常のジャガーより一回り、いや二回りは大きい。
月明かりにぬめる毛並みの奥で、金色の双眸だけが爛々と光っている。
ただ獣がそこにいるというだけで、空気の密度が変わったように感じられた。
あれは、知性を持つ目だ。
私が願ったのは軽『トラ』だったのに、神様は重量級のジャガーをよこしたのだ。
要求仕様と違い過ぎる。
あとで聞いて驚いたのだが、こちらの世界において、漆黒のジャガーは「夜を支配する最高位の神の遣い」とされているらしい。
そりゃあ護衛もポーターも平伏すわけだ。
誰一人として、顔を上げようとしない。
(終わった! 私の人生、ここで強制終了……っ!)
私はギュッと目を閉じた。
せめて苦しまずに逝けますように――そんな祈りが頭をよぎる。
カサリ、と、草を踏む音とともに漆黒の気配が近づいてくる。
来る。頸動脈への一撃が、今、来る――
……
……
「……あれ?」
痛くない。
恐る恐る片目を開けると。
黒いジャガーは、私の首元にその大きな頭をぐいぐいと擦り付け、巨大な猫のような仕草で「ゴロゴロ……」と地響きにも似た重低音を喉から鳴らしていた。
ひとしきり首元の匂いをフンフンと熱心に嗅ぎまわると、すっかり警戒を解いた様子で、私の足元にパタンと丸くなってしまったのだ。
緊張で張り詰めていた周囲の空気が、一気に拍子抜けの困惑へと塗り替わっていく。
「え、ええ……? なんで私にこんなに懐くの? 私、前世でも今世でも、ペットなんて飼ったことないんだけど……」
黒いジャガーは、私の服の裾を大きな前足でくいっと優しく引っ張ると、たくましい背中を目の前にどんと差し出してきた。
その目が『乗れ』と言っている。
「……え、乗っちゃっていいの? じゃあ、お言葉に甘えて……」
私は、まるで拾ったタクシーにでも乗るかのような気軽さで、ジャガーの背に跨った。
ジャガーの背中は、ベルベットみたいに柔らかく、それでいて驚くほど安定している。
次の瞬間。
ジャガーは満足げに太い尾を振り、音もなくジャングルの中を滑るように走り出した。
「ひゃっはーっ!!」
快適すぎる。
(何これ! 人力デスマーチが嘘みたいに超高速でクッション性抜群なんだけど! 完全に高級セダンじゃん! これぞファンタジー! 異世界らしくなってきたわ!)
「よし、あなたの名前は今日から【黒】ね! よろしく、クロ!」
こうして、奴隷の小娘が「神の化身である黒いジャガー」を営業車代わりに乗りこなし、涼しい顔でカラクムル北部へと爆走する――前代未聞の隠密(?)出張が始まった。
それまで全体の移動速度を著しく低下させていた私がクロに乗るようになってからというもの、キャラバンの行軍速度は驚くほど跳ね上がった。
どんだけ私がボトルネックになっていたのかという話である。
業務改善が定量的に可視化されたことはよかったが、ちょっとだけ心が痛い。
◇
「止まれ! 国境の検問だ!」
クロの背中で上機嫌に揺られていた私の耳に、男の怒鳴り声が飛び込んできた。
どうやらカラクムルとの国境にさしかかったらしい。
「お前たち、その顔はティカルの隊商か!? って、おい、その黒いジャガーは!! しかも、神獣様の背中に白い顔の丸頭が……しかもしかも、奴隷の首輪を付けている!? なぜ奴隷が神獣に乗っている!? どういうことだ?」
情報量が処理能力を超えたらしい。
全員が一斉に地面へ平伏する。
平伏しながらも、「どういうことだ?」と、本気で混乱していた。
頭の上に大きな「?」マークが見える。
「こちらのお方こそ、我がティカルの誇る、『先読みの聖女』シャク様である!」
神官が一歩前に進み出る。これでもかというほど大げさな身振りで私を紹介する。
やめて、恥ずか死ぬ!
「先読みの……? うむ、先読みの聖女の噂は届いているが……本物なのか?」
検問所の兵士たちは、まだ半信半疑の様子だった。そりゃそうだろう、ちんちくりんで色白、髪も結っていない丸頭。あちらの基準からすれば、完全に「変な奴」である。すっかりティカルに馴染んでしまい、最近は「バケモノ」呼ばわりされることもなくなっていたから、なんだか妙に新鮮な視線だった。
「この神官が神に誓って保証する」
神官が断言した。
いや、私、ただの奴隷ですよ?
「神官が神に誓ったぞ。それならやはりこの奴隷は『先読みの聖女』なのか……」
兵士たちは顔を見合わせる。
「神官が保証するなら……」
「しかし神獣を止めるのはまずい……」
「でも職務が……」
完全に稟議が止まっている。
宗教とコンプライアンスが真っ向から衝突していた。
結局。
検問所は丸一日かけて延々と協議した末、
「責任は取りたくない」
という空気が全会一致で可決されたらしく、私たちは無事に通過できた。
◇
「ここで野営したら、明日にはジャングルを抜けられる」
隊長さんの一言に、思わず拍手してしまった。
ようやくジャングルを抜けられるらしい。
私は、そそくさとハンモックに身を沈める。
焚火の音が心地いい。
(カラクムルって、どんなところなんだろう)
ぱちぱちと不規則に奏でられるBGMとともに、まだ見ぬカラクムルに思いを馳せながら、深い眠りに落ちていく……ことができない!
眠れない。
原因は毎晩恒例の虫である。
焚き火をすると、明かりに吸い寄せられて大量の虫が飛んでくる。
火の周りを反射しながら舞う様子は、妙にキラキラしていて、渋谷の雑居ビル地下にあったクラブを思い出した。
違うのは客層が全部虫なことだ。
しかもEDMじゃなくて、羽音付き。
これは環境音じゃない。
普通に騒音である。
もっとも。
最終的には身体の限界が勝つ。
毎晩、しっかり寝落ちする。
前世では寝ても仕事が追いかけてきた。
夜中に飛び起きて、
「納期!」
とか、
「スライド!」
とか叫んでいた人間とは思えないくらい健康的だった。
疲れて寝る。
朝起きる。
それだけで十分幸せなのだと、転生して初めて知った。
もちろんハンモックでも虫には刺される。
蟻にもかじられる。
でも朝になって、
「あ、今日もやられたか」
くらいで済むようになった。
人間、案外順応するものである。
……身長は相変わらず適応してくれないけれど。




