第27話 害はなかろう。黙って拝ませておけ
「おやおや、シャク。ずいぶんと腰の据わらない歩き方をしているな。顔も赤く、まるで昨夜、激しい『深夜業務』を朝までこなされたかのような、見事な疲弊っぷりだ」
バルチェの天然麻薬成分がまだ脳内に微量に残った状態で、生まれたての小鹿のように膝をガタガタと震わせながら、なんとかやっくんを追いかけている私に、専務がニコニコと話しかける。
「ち、違います専務……これは昨夜、ヤシュ様に勧められたバルチェが、実はヤバい成分入りで、それが抜けずにラリってるだけで……っ」
私が必死に弁明していると、専務はこれ以上ないほど優雅な所作で、私の前に進み出て深く頭を垂れた。その口元には、邪悪なほどに楽しげな笑みが浮かんでいる。
「――いよいよでございますかな。我が『イシュ・アハウ』(王妃陛下)」
「!?」
おい、誰が王妃殿下やねん。セクハラ! すっごいセクハラ!
悪い気がしないのが悔しいけれどもーっ!
だいたい、イシュ・アハウって、正室じゃないですか。
専務は、私のふらつきの原因をやっくんとの初夜とでも勘違い、いや、これは勘違いなんていうレベルじゃない。勝手に決めつけたに違いない。
あれか、心なしか艶っぽくラリってる虚ろな目も敗因か?
そりゃあね、こんな美少女が潤んだトロンとした目でラリってれば、誰だって「おやおや?」と思うでしょうよ。
絶対聞こえているはずのやっくんは、何も聞こえていないかのように涼しい顔ですたすた歩いている。
ちょっと、あなたの正室候補らしい奴隷が部下からセクハラを受けてますよーっ!
ひとしきり私をからかった専務は、ターゲットをやっくんに移したらしい。
やっくんの前にすすすっと進み出ると、これまた見事なにやけ顔で慇懃に言葉を発する。
「陛下、祝宴の予算を計上しても?」
「まだ早い!」
「おやおや、まだ早いということは、いずれは、そのときが到来するというご指示でございますな。このア・クフン、しかと承りました」
「おい、シャク! お前がしっかりしていないから俺が恥をかいたではないかっ! このグ……いや、そうではないな。うむ……この場合はどう言えばいいのだ……」
なんか、やっくんが途中から独り言モードに入ってしまった。とりあえず、ここは謝っておこう。
「あ、はい、申し訳ありません! 私がヤシュ様と同衾してしまったばかりにご迷惑をおかけしました。かくなる上は、懲罰としてドブさらいに下げ渡してください!(ワクテカ)」
「却下だ。ついでに、そういうことを往来で言うな」
「解せぬ」
やっくんと「ぎゃーぎゃー」言い合っているうちに、なんとかクスリも抜けて頭がスッキリしてきた。
相変わらず専務のニヤケが止まらない。親戚のおじちゃんかよ。
◇
ほどなくして、私たち視察団は、一号貯水池に到着した。
「うわぁ……これ、完全に災害一歩手前じゃない……」
やっくんの隣で一号貯水池の前に立った私は、目の前に広がる光景に思わず息をのんだ。
昨日までの、ティカルの民の命を支える美しかったエメラルドグリーンの貯水池は、そこにはなかった。
視界に飛び込んできたのは、まるで大量のインスタントコーヒーの粉をぶちまけて、そのままドロドロに煮詰めたかのような、禍々しい茶褐色の泥の海だ。
バケツをひっくり返したようなスコールが、ジャングルの表土を根こそぎ削り取って流し込んだのだろう。貯水池の美しい石造りの堤防は、堆積した赤土と泥水の圧力に内側からミシミシと悲鳴を上げている。水面には折れた巨木や、えぐられた熱帯の植物の残骸が不気味にぷかぷかと浮いていて、凄まじい大雨の爪痕をこれでもかと主張していた。
「昨日の雨は土木課の防衛ラインのおかげで決壊を免れたが、この泥の流入元を止めねば、次のスコールで決壊するかもしれん」
隣に立つやっくんが、いつも以上に厳しい『王』の顔で泥水を睨みつけている。
私は濁流の流れてくる上流へと視線を這わせ、そして、その先にある「異様な光景」に息を呑んだ。
「ちょっと……何、あれ。あそこだけジャングルが、見事なまでに丸ハゲになってるじゃない……!?」
貯水池のすぐ背後にそびえる山の斜面。
本来なら、周囲と同じように見渡す限りの濃緑の樹木が、がっちりと大地を抱き締めているはずのその場所が、そこだけ無惨にベリベリと剥ぎ取られたように、赤黒い山肌を剥き出しにしていた。
神殿の漆喰を焼くための薪として、何世代にもわたって繰り返された無計画な乱伐。そのせいで、山は天然の杭(樹木の根)をすべて失い、文字通り丸裸にされていたのだ。
(最悪……。前世の日本のニュースで見た、最悪の土砂災害のテンプレートそのものじゃない……!)
私の脳内の防災アラート(危険信号)が、最大音量で鳴り響き始める。
それだけじゃない。目を凝らしてそのハゲた斜面を観察した瞬間、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……嘘でしょ。山が、泣いてる……?」
露出した生々しい赤土の斜面。そのあちこちから、まるで破裂した水道管のように、ゴボゴボと不自然に濁った水が噴き出しているのだ。
雨はもう上がっているというのに、地中の排水許容量を遥かに超えた大量の水分が、逃げ場を失って、斜面のあちこちの傷口から泥水となって溢れ出している。
大地が、これ以上水を吸いきれずに、限界を迎えている明確なサイン――。
(水分を含んでドロドロになった大量の土砂が、地下の湧き水に浮いて、滑り台の上に載っている状態だわ。このまま、次のスコールがトリガー(引き金)になったら……いや、次のスコールなんて来なくても、いつそうなってもおかしくない。あのハゲ山全体が『泥の津波(土石流)』になって、一瞬で麓を飲み込む……っ!)
「ヤシュ様! 専務! 視察は中止です! 今すぐ、本当に今すぐ、あの山の麓にある集落の住民を全員避難させてください! 下流にある集落もです! 大至急です!!」
言うが早いか、私はヘドロ用スコップをわきに抱えたまま麓の集落に向けて走り出していた。
「おい、シャク!? 待て、どこへ行く!」
背後からやっくんの鋭い声が飛んでくるが、今の私には立ち止まっている時間なんて一秒だってない。
「チャーク・ツィブ! すぐに兵を動かせ! シャクの言葉に従うのだ、麓と下流の住民を全員退避させろ!」
「はっ……御意に!」
やっくんの爆速の決断が聞こえた直後、ドタドタと複数の力強い足音が私を追いかけてくる。やっくんと専務、そして護衛の兵たちが、私のただ事ではない形相を信じて即座に動いてくれたのだ。
(頼むから間に合って……っ! 故郷の日本の砂防データなら、あの湧き水の噴出は、あと数十分で山が崩壊する。今が避難のデッドライン……!)
ぬかるむ泥に足を取られ、ウイピルの裾を泥だらけにしながら、私は山の麓の集落へと飛び込んだ。
そこには、昨日のスコールで家の中に流れ込んだ泥をのんびり掻き出している、のどかな住民たちの姿があった。子供たちは水たまりで無邪気に遊んでいる。
このすぐ上で、何万トンもの泥の津波が牙を剥いているとも知らずに。
「みんな、手を止めて聞いて!!」
私はヘドロ用スコップを地面にガンガンと叩きつけ、喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。
「今すぐ持てるだけの荷物を持って、あの神殿へ逃げて! 一人も残っちゃダメ! すぐ後ろの山が崩れて、ここへ降ってくるわ!!」
「あ? なんだ、あのバケモノの奴隷は……?」
「山が崩れる? 何を馬鹿なことを。雨はもう止んだぞ」
当然の拒絶。
そして不審の目。
そりゃそうだ、青空さえ見え始めているのに、突然奴隷の小娘が「山が降ってくる」なんて言っても、応じてくれるはずがない。
「――全員、この女の言葉に従え!! この女の言葉はそのまま王命であるっ!!」
集落に響き渡ったのは、地鳴りのような、圧倒的な威厳を孕んだ地声だった。
息を切らせて追いついてきたやっくんが、その場にいる平民たちを鋭い眼光で射抜く。
「王、王様……っ!?」
「陛下がおいでになられたぞ!」
住民たちが一斉にその場に平伏する。その王の背後から、息を切らしたチャーク・ツィブ専務が兵たちを引き連れて一歩前に出た。
「命を惜しむ者は、今すぐ神殿の丘へ走れ! 立ち止まる者は不敬罪とみなし、兵が力ずくで連行し、後刻処罰する! 老人も子供も、家財道具は捨ててとにかく走るのだ!」
エリート専務の冷徹極まりない、だが完璧な避難誘導。
王と最高文官が直々に怒号を飛ばしているのだ。平民たちは色を失い、着の身着のまま、パニックを起こしながらも下流の集落を巻き込んで一斉に高い丘へと走り始めた。
「シャク、これで下流まで全員退避させたぞ! ――おい、お前も来い!」
「ぐえっ」
私は、やっくんの肩に米俵のように担ぎ上げられた。
米俵を担いだまま神殿の階段を駆け上がるやっくん。
「シャクが巻き込まれでもしたら俺は……」
「え? なんですか?」
「なんでもない。黙ってろ。舌を嚙むぞ」
集落の全員が丘の上の広場へ避難し終え、私たちが息を切らせて振り返った、まさにその瞬間だった。
――ズズズ……。
大地が、不気味に低く唸った。
「え……?」
誰かが呟いた直後、「バリバリバリッ!!」と、ジャングルの大木が一斉にへし折れる凄まじい爆音が山に響き渡る。
次の瞬間、私たちがさっきまでいたハゲ山の斜面が、まるで生き物のように不気味にドロリと膨らみ――そして、一気に弾けた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴガガガガガッ!!
それは、文字通り赤黒い泥の津波(土石流)だった。
何万トンという大量の水を含んだ土砂が、猛烈なスピードで斜面を滑り降り、木々を巻き込みながら麓の集落へと一気になだれ込んでいく。
ほんの数分前まで平民たちが泥を掻き出していた家々が、水たまりで遊んでいた場所が、一瞬にして巨大な泥の底へと飲み込まれ、完全に埋没していく光景を、私たちはただ呆然と見下ろすしかなかった。
広場を支配したのは、完全な静寂、そして直後に湧き上がった恐怖の悲鳴だった。
もし、あのまま避難していなければ――ここにいる数百人は、今頃すべて泥の底だった。
「……本当に、崩れた……」
誰かが、震える声で呟いた。
住民たちの視線が、恐怖から、やがて畏怖へと変わり、一斉に私の方へと向けられる。
「あのバケモノの娘……雨が止んでいるのに、山が崩れるのを『知っていた』のか?」
「未来を……神々の怒りを、『先読みした』というのか……!?」
ザザッ、と音を立てて、泥まみれの平民たちが私に向かってバタバタと平伏し、祈りを捧げ始める。
昨日まで「バケモノ」と蔑んでいた神官たちすら、腰を抜かしてガタガタと震えながら私を拝んでいる。
(いや違うの、これは単なる前世の砂防知識に基づいたただのリスクマネジメントで、先読みの奇跡とかじゃなくて――!)
弁明しようとした私の肩を、背後からやっくんが力強く抱き寄せた。
「害はなかろう。黙って拝ませておけ」
(あーあ、これ完全に誤解が固定化されちゃったよね……私はただの、防災意識の高い元社畜なんだけどなぁ。――困ったなあ)
何百人もの命を救った「ヘドロ用スコップを担いだ泥だらけの少女」の逸話は、こうしてティカルの歴史に、『先読みの聖女』として刻まれることとなる。




