第25話 密着、そして乾杯(完敗)
「やっくん」が爆誕して数日。
ようやくやっくんたちのスケジュール調整ができて、明日、現場視察に行けることになった。
私は、例によって残業という名のホステスみたいなことをやっている。
「……シャク、少し酒に付き合え。お前、酒は飲める口か?」
やっくんはそう言うと、部屋の奥の棚から、いかにも高級そうな精緻なグリフが彫られた、濁りのない土器の壺を取り出してみせた。あの中にお酒が入っているらしい。
(ゴクリ……)
おもわず、喉の奥から生唾が鳴った。
こちらの世界に転生してからは、奴隷の身分だったこともあり、一度もお酒を飲む機会に恵まれていなかったのだ。
前世では、仕事終わりのビールや金曜日の居酒屋巡りが大好物だった私。決してお酒は嫌いじゃない。
ただ、うっかり「私、強いですよ」などと申告すると、体育会系のバカ上司たちから無限に一気飲みを強要されるので、常に「たしなむ程度です」と安全牌の予防線を張るようにしていたのだ。
「ふっ。分かりやすい……物欲しそうな目をしているぞ、シャク」
「ふふ、おっしゃる通りですよ」
やっくんが、毛皮の敷かれたソファのような長椅子にドサリと腰を下ろす。
私はそれを追いかけるようにして長椅子に移り、やっくんのすぐ隣にぴったりと並んで座った。
……が、少々距離の計算を誤った。執務室での業務中よりも、圧倒的に距離が近い。というか、衣服越しに彼の鍛え上げられた太ももの熱が伝わってくるほど、ほぼ100%密着している状態だ。
「……シャクよ。些か、近くないか?」
至近距離からやっくんの低い声が降ってくる。見れば、彼の耳の付け根がみるみる赤くなっていた。
「え? 『お前は俺の所有物だから、俺の行く現場から離れるな』って言ったのは、やっくんの方ですよ? だから命令通りくっつきました」
「…………くっ」
突然、やっくんの呼吸が止まった。彼は彫像のように硬直したまま、口元を拳で押さえている。
「……あの、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。今、シャクに心殺されかけた……もう大丈夫だ」
私はそんなに殺傷能力の高い毒スキルでも持っているのかしら?
軽く咳払いをしたやっくんが、気を取り直すように、お酒の入った美しい壺を目の前に掲げて説明を始めた。
「これは『バルチェ』といって、この王宮の周辺にしか生えていない聖なる木の樹皮を叩き潰し、野生のハチミツと聖水を混ぜて自然発酵させたものだ。極めて希少な資産であり、本来は神殿の最高位の儀式にのみ供され、市中に出回ることは絶対にない。マヤの王宮のエリート層だけが、本当の愉悦を知るための特別な酒だ。もっとも、『聖なる木』は、ただの木だし、『聖水』もただの水だ」
ははーん。ハチミツの発酵酒。これ、前世でいうところの「ミード(蜂蜜酒)」ね。
「それって、度数は強いですか? 前世の私は、それなりに飲めるクチだったんですけど、転生してこの新しい肉体になってからは、一度もアルコール摂取していないので、自分の限度が分かってないんですよね」
「ぜんせ? てんせい? ……シャク、お前はやはり、死者の『生まれ変わり』なのか?」
やっくんが怪訝な、だがどこか得心のいったような目で、私のショートヘアを見下ろしてきた。
「ええ、そうですよ。日本という国で一度、過労死してます。死んだと思ったら、なぜかこの国にいました。で、その挙句、最初の日にすっぽんぽんに剥かれて祭壇で生贄にされかけてたところを、やっくんに拾われたわけです。だから、神官たちが私のことを『バケモノ』とか『異界の怪異』って呼ぶのも、あながち間違ってないんですよね。あははは!」
「……なぜ、今までそのような重要な事実を俺に言わなかった」
やっくんが本気で驚いた顔をして身を乗り出してくる。
「いや、だって特に聞かれなかったですし? ――あ、それより、乾杯!」
やっくんが、松明の光を反射して琥珀色のバルチェが揺れる、美しい木製の器を手渡してくれた。私は自分の器を軽く掲げ、コンと小気味よい音を立てて合わせた。
「シャクが死者の転生であるほうがすんなりと納得できる。いろいろと規格外だからな」
「恐れ入ります」
にっこりと微笑み返す。
「まあ安心しろ、シャク。このバルチェは、平民が飲むチチャ(トウモロコシ酒)のように強くはない。神官たちの子供すら、儀式の真似事で口にするほどの軽い度数だ。お前の新しい肉体でも、何の問題もなかろう」
「あ、そうなんですね! 子供でも飲める度数なら安心です! じゃあ、遠慮なく……」
器の中では、松明のオレンジ色の炎を受けて、濁りのある黄金色の液体が、怪しく、そして実においしそうにゆらゆらと揺らめいている。
これに口をつけたら、引き返せない一線を越えてしまうような、奇妙な予感が脳裏をよぎった。……何だろう、この胸のざわつきは。
ま、いっか! 定時後だし!
私は器を傾け、一気にその液体を喉へと流し込んだ。
瞬間に、野生のハチミツの濃厚な甘みと高貴な香りが鼻腔を突き抜け、表面のきめ細やかな白い泡が、とろりとした心地よい口当たりとなって舌の上を滑っていく。苦味は一切ない。
これは、前世のどんな高級カクテルよりも美味い。
私は「プハァー!」と勢いよく息を吐き出し、空になった器を机に置いた。
「何これ、めちゃくちゃ甘くて美味しい! 全然苦くないです! アルコール感も全然ツンとこなくて、すっごく飲みやすいですね。これ、実質ジュースですよ!」
「……ほう、気に入ったか?」
やっくんの目が、公務中の氷のような冷徹さからは絶対に想像できないほど、柔らかく、愛おしげに細められた。
純粋で優しい目。これが、この人の『王』の仮面の下の、本当の素顔なんだろうな。
「はい! 最高のご褒美です、ありがとうございます!」
なんだか無性に嬉しくなってしまった私は、社畜のブレーキを完全解除し、調子に乗ってパカパカとお代わりを要求した。
――それが、すべての敗因だった。




