第24話 特別な呼び名がほしい
「シャク、残業だ」
その日の定時(業務終了)を告げる夕刻、ヤシュ様は一切の表情を変えないまま、低くよく通る声でそう告げた。
終業時に冷徹な顔で下される「残業」の業務命令――それは我が社において、私がそのまま王の私室へと連れ込まれる合図だ。
その言葉が部屋に響いた瞬間、片付けをしていた専務が、ニヤニヤといやらしい、実に見事なニヤケ顔をこちらに向けてきた。
そして、まるで紅白歌合戦で歌い終わったあとの大御所演歌歌手が、マイクから外れたところで口だけを動かして「ありがとうございました……」と言うかのように、無音のメッセージを私に送りながら部屋を出ていこうとする。
ええ、読唇術なんて使うまでもなく分かりますよ。専務の口は、間違いなく『今夜こそお世継ぎを』って言ってる。
私は負けじと、専務に向けて口の動きだけで『お断りします!』と超高速で返し、さらに「あかんべー」のオプションまでつけて見送るのが、ここ最近のルーティンになっていた。
「――はぁ。シャクー、今日も疲れたなー。今日の評議会、俺はちゃんと『王』として振る舞えていたか?」
重い木製の扉が閉まり、完全な密室になった瞬間。ティカルの最高権力者は一瞬でワンマン社長の仮面を剥ぎ取り、気の抜けた年相応の青年のように素を解放した。
「はいはい、立派な王様でしたよ。知らんけど」
私はベッドの縁に腰を掛け、自分の太ももを「ぽんぽん」と軽く叩いた。
それを合図に、ヤシュ様はごろんと大きな体を横たえ、私の膝の上にその長い後頭部をすっぽりと乗せてきた。これは、私からのサービス。
マヤのエリート階級特有の、後ろに長く引き伸ばされた頭骨の形状ゆえ、仰向けは不可能。
そして、後頭部が邪魔するので、どうしても顔が私のお腹や胸のあたりにダイレクトに向く形になってしまう。
頭が置かれているのがクリティカルな場所なのだ。
現代人としては毎回心臓バクバク気恥ずかしいのだが……困ったことに、この古代マヤ、下着という概念がない。
制服である白いウイピル(貫頭衣)の下は、ねえ……。
デリケートゾーンの換気効率が良すぎて、密着されると余計に緊張する。
公務中はあれほど苛烈な威厳を放つ国王のくせに、私室では大型犬のように甘えてくるという高度なギャップ萌えを披露してくれる。
うっかりすると、ハートの防壁が破られて絆されそうになることも少なくない。
「……シャク。その『しらんけど』とは何だ? この国の言葉ではないな。初めて会ったときからだが、お前は時折、妙な言葉を口にする」
ヤシュ様が私のウイピルの裾を弄りながら、不思議そうに聞いてくる。なんだよ、その仕草、かわいいな。
「あー、これは私の故郷である『日本』という国の言葉です。『知らんけど』というのは、文脈の最後に付けることで『はっきりした確証はない』とか『私は一切の責任を負いません』という意思を表明する、非常に便利な免責事項の俗語です」
「ほう、『にほんご』というのは、なかなか高度なリスクヘッジを行うのだな。面白い。他にはどんなものがあるのだ?」
「そうですね……たとえば『草』なんていうものがありますね」
「くさ? 植物の、あの草か?」
「そうです。こういう形の文字がありましてね」
私は、ベッドサイドの棚に用意されている高級な樹皮紙を取り出し、そこに前世のアルファベットで『WAROSU』、そしてその横に『www』と書き込んで、寝転がるヤシュ様の顔の前に掲げた。
「これも故郷の俗語なんですけど、これで『わろす』と読みます。意味は『笑える』とか『面白い』。この感情を表す文字をさらに省略して『w』と並べるようになったんですが、この文字の形が、なんとなく地面からツンツンと草が生えているように見えることから、いつしか『笑える状況』そのものを『草』と呼ぶようになったんです。ちなみに、大爆笑のときは草が大量発生するので『大草原』と言ったりします」
ヤシュ様は私の拙い手書きの文字をじっと見つめていたが、やがて、我慢できないといった風に肩を大きく揺らした。
「はっはっは! 大草原! 腹が痛い! 前々からシャク、お前は妙な発想を持つ面白い女だと思っていたが、どうやらお前の故郷の『日本』は、国ごと頭のネジが外れているようだな。……おっと、これは貶しているのではないぞ? 極めて独創的で、俺の知的好奇心を刺激するという意味の、最上級の賛辞だ」
「私から言わせてもらえば、顔に墨を入れてるロングヘッドが跋扈するこの国も、たいがいぶっ飛んでますよ」
あ、やばい。調子に乗り過ぎた……と焦ったが、ヤシュ様は怒るどころか、深く、神妙に頷いた。
「……ああ。それは、俺も同意だ」
ヤシュ様は金色の瞳を、私の下腹部に向けたまま静かに言った。いや、だから吐息……喚起効率。
「シャクの話を聞いていると、この地で当たり前に行われていること……生贄や血を流す儀式や、いろいろな風習が、本当に『世界の絶対的な正解』なのかと、疑問に思うことがある。お前の言葉は、俺に新しい視界をくれる。……もっと日本のこと、お前が見てきた他の世界のことを教えてくれ」
私は少し胸が熱くなるのを感じた。そうか、この人は、神の奇跡を盲信しない、孤独で冷徹なまでのリアリスト(現実主義の若き経営者)なのだ。
この夜から、ヤシュ様と私の、秘密の日本語によるコミュニケーションが始まることとなる。
しばらく膝枕を堪能したヤシュ様がふっと思い出したかのように上半身を起こした。
「そういえば、シャク。先ほど執務室で俺のことを『ヤシュ様』と呼んだな」
「え、あ、はい……やっぱり公の席であれは不敬でしたよね? ごめんなさい、次はちゃんと『陛下』って――」
「いや、不敬ではない……むしろ、好ましいと感じた」
ヤシュ様は少し照れくさそうに視線を泳がせ、形の良い顎に手を当てた。
「私の立場になると、誰もかれもが神の化身として畏まり、マニュアル通りの対応しかしてこぬ。誰もまともに、人間として相手をしてくれないのだ」
権力者の孤独ってやつだろうか。少しだけ、この顔がいい大男が愛おしく思えてくる。
「そこでだシャク。お前がその『にほんご』のルールで俺を呼ぶなら、何とする?」
「えっ、ヤシュ様を日本語風に、ですか? そうですねえ……これは、あれですか? 公務用の敬称ですか、それとも、ヤシュ様と私の範囲内でのものですか?」
「お前だけに許す、二人だけの呼び方だ」
私を見つめるヤシュ様の瞳が、松明の光を反射して、熱っぽく、わずかに潤んで揺れた。その破壊力抜群の顔面に、私の心臓がドクンと大きなエラー音を立てる。
(なんだろう、この急な恋愛シミュレーションゲームみたいな展開……うーん、うーん……)
いや、こういう時、下手に悩むとロクな名前が出てこない。ビジネスと同じだ。ここは直感、ブレストなしで「スコーン!」と脳を突き抜けてきたワードを出すべきだ。考えるな、感じろ。
ひらめいた!
「やっくん!!」
私はポン、と小気味よく手を叩いた。
「やっ……くん……?」
「はい! 私の故郷では、親しい間柄の男性や、可愛い男の子に対して『〜くん』という接尾辞をつける文化があるんです。ヤシュ様のお名前の頭文字から『や』をいただいて、親愛の情を込めて『やっくん』です。どうですか?」
「やっくん……やっくんか。響きが妙に愛らしく、何より、お前にしか呼べぬ特別感がある。いいな。よし、これより俺をそう呼べ」
「了解です、やっくん!」
私は右手でビシッと、綺麗な敬礼を決めてみせた。




