第 2 話 黒曜石よりタチの悪い、胸元のサイケデリック
第2話黒曜石よりタチの悪い、胸元のサイケデリック
──ジャラ、ジャラ
乾いた音が、石造りの祭壇を囲む静寂の中で、不吉に響いた。
動物の骨だか、磨いた貝殻だか、あるいは人間の歯だか。確認したらろくでもない物であろう白っぽい装飾品を全身からぶら下げた男が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
頭には、赤、青、黄色と、目が痛くなるほど鮮やかな羽根飾り。
顔には、タトゥーなのか顔料による化粧なのか判別できない、黒と赤の幾何学模様。
首から胸へ垂れた翡翠らしき装身具が、男の歩みに合わせて鈍く揺れている。
何より怖いのは、その目だった。
見開かれた瞳は、こちらを見ているようで見ていない。
寝不足のプロジェクトリーダーが、納期三日前に「ここから全仕様変更です」と告げられた時より、さらに二段階ほど目がキマっている。
間違いない。
こいつが、このピラミッドの最高責任者だ。
「お前は誰だ。名を名乗れ!」
だが格好と立ち位置と周囲の緊張感から察するに、神官。しかも、かなり偉いんじゃなかろうか。
男は祭壇へ横たわる私の横へ立つと、極彩色の羽根を風に揺らしながら、ゆっくりと両腕を広げた。
周囲に並んだ戦士たちが、一斉に頭を垂れる。
そして神官は、朗々とした声で、聞き取れない言葉を唱え始めた。
低く、長く、地面の底を這うような声。
ところどころで喉を鳴らし、急に甲高い鳥の声を混ぜるものだから、呪文なのか演説なのか、あるいは祭壇上の私へ死刑執行手順を説明しているのか、まったく分からない。
翻訳機能。
なし。
神様からのチュートリアル。
なし。
現状を説明してくれる親切な妖精。
当然、なし。
転生特典が前世の記憶だけって、運営は難易度調整を完全に放棄している。
私は首だけを動かし、神官の右手を見た。
そこには、鈍く黒い光を放つ、薄い石の刃物が握られていた。
先端は鋭く尖り、刃の縁は不自然なほど滑らかだ。
一瞬、黒いガラスかと思った。
「ガラス……?いや」
その艶と色に、記憶の片隅が反応した。
「黒曜石のナイフだ」
生前、残業から帰宅した午前二時、風呂へ入る気力もなく眺めていたゆっくり解説動画で得た、用途不明の知識が弾ける。
古代メソアメリカにおいて、鉄器を持たない人々が刃物として利用した天然ガラス。
割れ方によっては、現代の金属製メスよりも薄く鋭い刃先を作れる。
武器。
工具。
儀礼用具。
そして、生贄の胸を切り開くためのプロ仕様の道具。
「いや、用途が今の状況に合致しすぎでしょ」
男がナイフを両手で持ち直した。
黒い刃が空へ向けられる。
雲越しの光を受け、その縁が一瞬だけ白く輝いた。
周囲の戦士たちが声を上げる。
低い唸り声が重なり、石造りの頂上全体が震えているように感じた。
男の視線が、私の胸元へ落ちる。
狙いは、心臓。
なるほど。
完璧に生贄だ。
せっかく過労死から転生したのに、今度は心臓を取り出されて即死。
転生即死亡。
さっきぶり、二回目。
「オープニングアニメーションの途中でゲームオーバーとか、デバッグ不足にも程がある……」
逃げようにも、両手足は押さえつけられている。
石の祭壇は背中へじわじわ熱を伝えてくる。
裸の肌には硬く、ざらついていて、肩甲骨や腰の骨へ容赦なく食い込んでいた。
風が吹くたびに、全身がちょっと寒い。
いや、これは恐怖から来る寒気か?
しかし石へ触れている部分だけは熱い。
暑いのか寒いのか、せめてどちらかに統一してほしい。
男が大きく息を吸う。
ナイフを振り下ろすため、両腕へ力が入った。
まさに絶体絶命。
恐怖で頭が真っ白になってもよさそうな場面だった。
だが、その瞬間ですら、長年鍛え抜かれた私の社畜脳は、命とは関係のない方向へ高速回転していた。
視界の端に、白く広がる空が見える。
「うわ……薄曇り」
太陽は雲の向こうに隠れている。
直射日光は弱く、気温もそれほど高くない。
だからこそ、タチが悪い。
「こういう日って、みんな油断するけど、一番日焼けするんだよね……」
現代の美容マニアなら常識だ。
薄曇りの日でも、紫外線量は快晴時の八割以上に達する場合がある。
しかも雲や大気による乱反射で、直射日光を感じないまま肌だけがじわじわ焼かれる。
UV-A。
UV-B。
肌の老化。
炎症。
シミ。
生贄の心臓を抉り出されようとしている時に考えることではない。
しかし私は今、全裸だった。
日焼け止めはない。
帽子もない。
しまむらで買った服は、どこかの誰かに剥ぎ取られた。
しかも両手足を広げた姿勢で固定されている。
日焼け以前に、人権の状態がひどい。
「おい、神官」
私はナイフを掲げる男へ顔を向けた。
「早く刺すなら刺せ」
神官の呪文が、一瞬止まった。
言葉が通じたのかどうかは分からない。
だが、祭壇上の生贄が急に話しかけてきたこと自体には驚いたらしい。
「じゃないと私の大事なところが、容赦ないUV-AとUV-Bで日焼けする。せめて股ぐらいを閉じさせろ。生贄のパーソナルスペースとプライバシーの保護を要求する」
戦士の一人が首を傾げた。
別の男は、私の顔と股の辺りを交互に見た。
「おい、見るんじゃない!」
私は怒鳴った。
「担当部署が違っても、最低限のコンプライアンスは守れ!」
当然のように通じない。
だがクレームを入れなければ、こちらの尊厳が完全に敗北する。
男は何かを振り切るように首を振ると、再び鳥のような甲高い声を上げた。
両手に握られたナイフが、さらに高く掲げられる。
周囲の声が止まった。
風も止んだように感じる。
黒曜石の切っ先が、真っ直ぐ私の心臓へ向けられる。
そして、振り下ろされようとした――その瞬間。
左胸の上。
心臓のすぐ近くが、かすかに熱を持った。
「ん?」
最初は、雲間から日が差したのかと思った。
しかし違う。
私の皮膚そのものが、ぼんやりと光っている。
淡い緑。
いや、青みを含んだエメラルドグリーン。
光は一度弱く瞬いた後、急速に輝きを増していった。
「え?」
神官の腕が止まった。
戦士たちの間から、ざわめきが起きる。
私も首を持ち上げ、自分の胸元を見下ろした。
薄暗い曇天の下、裸の胸元に、ネオンサインのような光が浮かび上がっている。
一本の曲線が伸びる。
絡み合う。
うねる。
尾を巻き、頭をもたげる。
光が描き出したのは、見事な蛇の紋様だった。
洋彫りでいうところの、トライバル・タトゥー。
左右非対称。
やたら尖った曲線。
「あ……」
恐怖より先に、記憶が蘇った。
次の瞬間、全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。
命を奪われる恐怖ではない。
もっと個人的で、もっと救いのない感情。
羞恥心だ。
「大学二年の時……」
夏。
飲みサークル(ヤリサーではない。少なくとも私は、そう認識していた。ええ、決して。はい)。
先輩。
安い酒。
深夜の繁華街。
地下へ続く狭い階段。
「夏フェスとクラブで目立とうとして、胸に入れたタトゥーじゃん!」
思わず絶叫した。
あの日、サークルの先輩に連れて行かれた、看板すら出ていないアングラなタトゥースタジオ。
半ば酔った勢いで椅子へ座り、胸元を指して、
「普段見えなくて、でも遊ぶ時だけ目立つやつがいいです!」
などと、人生でTOP3に入るであろう頭の悪い注文をした。
糸目の彫り師の兄ちゃんが、使い捨て手袋を引っ張りながら、自慢げに説明していた。
『これ、海外の裏ルートから仕入れた、ブラックライトとかの紫外線に超反応して発光する、最新の特殊蛍光インクなんすよね~』
あの軽薄な声。
あの胡散臭い笑顔。
『普段は完全に見えないから、就活にも響かないっすよ! 最高のステルス、お洒落っす!』
「お洒落の方向性が、千年の時を遡って今ここで大爆発してやがる……!」
そう。
蛍光インクだった。
普段はほとんど無色透明。
会社の実効支配下――つまり勤務中には、誰にも気づかれなかった。
健康診断の時は多少ひやひやしたが、特に問題にはならなかった。
だから私は、社会人になってから、その存在自体を半ば忘れていた。
だが、ここは現代日本のオフィスではない。
日差しを遮る建物のない、ピラミッドの頂上。
標高も高い。
そして天候は、紫外線が雲の中で乱反射する薄曇り。
私の全身へ降り注いだ天然のブラックライトが、あの兄ちゃんの宣伝文句どおり、特殊蛍光インクの潜在能力を百パーセント引き出してしまったのだ。
胸元の蛇は、緑から青へ、青から再び緑へと、脈打つように明滅している。
暗いクラブの壁なら似合ったかもしれない。
少なくとも、当時の私はそう信じていた。
だが古代の祭壇で、全裸の生贄の心臓付近から発光しているとなると、意味がまったく違う。
神官の顔から、血の気が引いていた。
口が半開きになる。
掲げたナイフが、小刻みに震え始める。
後付けの知識になるが、古代マヤにおいて蛇は、神や王権、天と地をつなぐ神聖な存在と深く結びついていた。
その蛇が、だ。
見たこともない色の光を放ち。
今まさに殺そうとしていた全裸の女の胸元へ現れた。
いや。
天啓かよ。
私が神官でも、一旦会議を止める。
安全確認と上長へのエスカレーションを要求する。
神官の手から、黒曜石のナイフが滑り落ちた。
石床へ当たり、乾いた音を立てて落ちていく。
「ひっ……」
神官の喉から、祭祀の時とは違う、情けない音が漏れた。
その男は私の胸元と顔を交互に見た後、突然両手を振り回した。
「バ、バケモノだァァァーーーー!!」
今度の言葉だけは、なぜか意味が分かった気がした。
「衣服を剥ぎ取ったら、神の呪いが発動したぞォォ!!」
「いや、原因は紫外線と大学生の悪ノリです!」
説明したところで通じないし、そもそも聞く耳を持っていない。
神官は極彩色の羽根飾りを振り乱し、祭壇から飛び退いた。
そのまま踵を返し、長いピラミッドの階段へ駆け出す。
周囲にいた戦士たちも、一瞬遅れて我に返った。
一人が槍を落とす。
別の一人が隣の男へぶつかる。
押し合い、叫び合いながら、蜘蛛の子を散らすように階段へ殺到した。
「待って!せめて服を返して!」
誰も止まらない。
むしろ私が声を上げたことで、逃走速度が上がった。
何人かは足を滑らせ、石段を転がり落ちていく。
けが人が出ないことを祈ろう。
骨や貝殻の装飾品が激しく鳴り、悲鳴が遠ざかっていった。
やがて、ピラミッドの頂上には私一人だけが残された。
祭具。
散乱した羽根。
全裸で祭壇へ寝かされた私。
「あ、そっち方向に理解されたんだ」
私は誰もいなくなった階段を見下ろした。
ラノベなら、
『神の御使いであらせられる!』
とか、
『聖女様を丁重にお迎えせよ!』
とか言われて、その場で貴族待遇になるんじゃないの?
少なくとも服くらいは持ってきてもらえるはずだ。
現実は、
『服を脱がせたら呪いが出た。逃げろ』
だった。
「異世界転生のテンプレから外れる方向が、いちいち地味に厳しい……」




