第11話 契約書のサインはグータッチ
周囲の護衛の戦士たちが、まるで世界の終わりを見たかのように真っ青になり、ガタガタと震え出している。
中には抱き合って失禁している人もちらほら。
現場監督官にいたっては、すでに泡を吹いて地面に五体投地していた。
静寂の中、顔がいい大男が、ゆっくりと視線を下ろす。
自分の衣服についた泥汚れを、冷徹な目で一瞥する。
そして、その「殺気の塊」のような視線が、ゆっくりと、ドブの中から泥だらけの顔を突き出している私へと、まっすぐに向けられた。
(さて、どうしたもんか……これは、このままだとクビ(処刑)案件よね)
そう思って、ガタガタ震えながら顔がいい大男をじっと見上げた。
(あれっ?)
泥水で視界がボヤける目を限界まで見開く。
立派な羽飾りをつけ、ヒスイの宝飾品をジャラジャラ言わせているが、その彫刻のように整った冷徹な顔立ち、そして何より、周囲の人間をチリ芥のように見下ろす圧倒的な目力。
(この圧倒的な『唯物主義』のオーラ……どっかで……)
私の脳内ハードディスクが、これまでの記憶を爆速で検索し始める。
暗い部屋。私を裸にして、怯えもせず、神の呪いも気にせず、黙々と私の二の腕にミリ単位の正確さでジャガーの紋様を彫り込んでいった、あの筋肉モリモリの――。
「あーっ!!」
気がつけば、私は泥まみれのスコップを放り出し、ドブの中から勢いよく上空の最高権力者を指差していた。
「あんた! 初日の『ア・ポル・ノホ(彫師のおじさん)』じゃん!!」
その瞬間、歩道の上でフリーズしていた護衛の戦士たちのうち、二、三人ほどが衝撃のあまりリアルに白目を剥いて卒倒した。
監督官は……そうだ、すでに泡を吹いているんだった。今は、泥に頭を埋めて激しく痙攣している。
周囲の阿鼻叫喚をよそに、私はドブのフチに両手をかけ、身を乗り出して親しげに声をかけた。
「なーんだ、おじさん、デザイン部(彫師)から異動になったわけ!? っていうか、現場(現場作業)なのにそんな白くてヒラヒラした一張羅着てきちゃダメだって! ほら、私のはね上げたヘドロちゃんが見事に着弾しちゃったじゃん!」
完全に、社内で顔見知りの他部署のオジサンを見つけた時のノリである。
「……シャク、だったな」
顔がいい大男の、低く、地響きのような声が水路に響いた。
彼は、自分の衣服についた最悪に臭うブラックヘドロを一瞥したあと、私を殺すためにナイフを抜くでもなく、信じられないほど冷ややかな、それでいて「やはりな」と言いたげな深い観察の目を私に向けてきた。
普通の奴隷なら、自分の名前を呼ばれただけでショック死するであろうほどの威圧感。
だが、前世でクソ上司たちの怒号を「あー、またマイクの音量テストやってるわ」と受け流してきた私である。
ましてや、初日に裸に近い姿で社章を彫られた間柄(?)だ。
今さら気取る必要などどこにもない。
とまで割り切れるものではないけど、まあ、悪い奴ではないと認めた男だからよしとしよう。
「そうそう、シャクです 覚えててくれたんだ、おじさん! いやー、あの時は急な納期(生贄の儀式)だったのに、綺麗な社章を彫ってくれてありがとね。ほら、これ!」
私はバシャバシャと泥水を撥ね散らかしながら、二の腕のタトゥーをおじさんに見せつけるようにポーズを取った。
「見ての通り、現場でバリバリ活用させてもらってます! だから、今回の服の汚れは『業務上の不可抗力(過失)』ってことで、なんとか不問(社内ペナルティなし)にしてもらえませんかね……?」
泥だらけの顔で、にへらっと営業スマイルを浮かべる私。
顔がいい大男は、しばらく無言のまま、ドブの底から身を乗り出す私をじっと見下ろしていた。
その瞳は、どこまでも冷たく思考が読めない。
「……行くぞ」
ひとこと、そう短く吐き捨てると、顔がいい大男は、すっと踵を返した。
「お待ちください!」
ドブの底から響いたのは、さっきまでのふざけた、間の抜けた声ではなかった。
前世で、幾多のクソ上司や無理難題をふっかけてくるクライアントを黙らせてきた、冷徹で、静かな、芯の通った「プロの交渉者」の声だ。
自分で言うのもなんだけど、ばっちり決まったような気がする。
ピクリ、と顔がいい大男の肩が揺れ、足が止まる。
彼がゆっくりと振り返った瞬間、その場にいた全員の心臓が止まるかと思うほどの、すさまじい殺気が水路全体を支配した。
その眼光は「二度目はない。次の一言次第で、お前をこの場で微塵切りにする」と告げていた。
だが、ドブの中から泥だらけの身体を半分乗り出した私は、もう笑っていなかった。
両手を泥まみれの胸の前できちんと重ね、前世で幾度となく「大企業の役員(大株主)」を相手にしてきた時の、一切の私情を排した『プロのビジネスパーソン』の顔で、顔がいい大男の凍りつくような瞳を真っ直ぐに見返した。
私は息を吸い込み、元貴族であるサキルに叩き込まれた、奴隷が絶対に使うことのない「宮廷公用語(最高敬語)」を、完璧な発音で紡ぎ出す。
「ヨッツィル・タ・カウ、ニ・ニャハル。カ・クシラル・ティ・レ・ルム」
(我が主よ、あなたの深い御慈悲に感謝いたします。この地で、私が生かされていることに)
カチャ、と引きつった音を立てて、護衛の戦士の一人が武器を落とした。
泡を吹いていた現場監督官は、恐怖のあまり完全に気絶した。
なぜなら、ド底辺の、言葉も通じないはずの奴隷が、突如として「王族や貴族にしか許されない、完璧にして至高の拝礼の辞」を口にしたからだ。
顔がいい大男の、細められた漆黒の瞳の奥に、初めて明確な「動揺」が走るのを私は見逃さなかった。
(なめた口を叩いたのは、ウチの会社のコンプライアンス(不敬罪)の境界線を探るため。ヘドロをぶっかけた私を不問にしてくれたのは、顔がいい大男の寛大な『福利厚生』。だったら、一人の労働者(奴隷)として、その決定をくだしたお偉いさんに、最大の敬意(お礼)を返すのがビジネスマナーって もんでしょ)
私は、泥に塗れた顔のまま、美しく、どこまでも凛とした一礼を捧げた。
顔がいい大男は、しばらくの間、彫刻のように微動だにせず私を凝視していた。
顔がいい大男から発せられる殺気と威圧が痛い。眼の底に焼き付くような痛みを感じるほどだ。
(ここで目を逸らしたら商談が破談になる)
この威圧勝負、どうやっても勝てる気はしない。
だけど、負けなければいい。
商談のテーブルに立ち続けるんだ。
私は、膝をドブの壁に押し当てて震えを抑えつける。
そして、能面のような涼しい表情を崩さないまま、じっと顔がいい大男の目を見据えた。
やがて、彼は唐突にふっと口元を冷酷に歪めると、格式高い神への礼をすべて無に帰すように、私に向かって無骨な右手の拳を突き出してきた。
(……え? あ、なるほど。そういう流儀ね)
「へへっ、これからもよろしくね。おじさん」
突き出された大きな拳に、ちんちくりんで泥にまみれた私の拳をこつんと合わせる。
今度こそ、衣服の泥を払うこともせず、風のように去っていった。その背中は、私という「極上のおもちゃ」を見つけた興奮に、かすかに笑っているようにも見えた。
「ふぅ……。よし、大型プレゼン(命乞い)は成功ね! 契約継続(生存確定)!」
静まり返ったドブの中で、私は再びスコップを握り直し、いつもの社畜スマイルに戻ることにした。




